鎌倉 海蔵寺 2016-06-14
*應永30(1423)年
この年
・皇帝ジギスムント、ヴェッティン家マイセン辺境伯フリードリヒをザクセン選帝侯(封土ザクセン、ヴィッテンベルク)となる。
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・ナポリ女王ジョヴァンナ2世(ジャンヌ)、アラゴン・シチリア王アルフォンソ5世との養子縁組、一方的に解消。王位継承者にアンジュー家ルイ3世を指名。
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・スコットランド、ロンドン条約締結。
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・「印刷術」の始まり。
ハーレム市ラウレンス・ヤンスゾーン・コステルが、木製次いで鉛と錫の「活字」を作る。
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・マントヴァ候ジャン・フランチェスコ・ゴンザーガ、人文主義者・教育者ヴィットリーノ・ダ・フェルトレ(45)をマントヴァに招聘。
宮廷の子供達に、学校「ラ・ジョコーサ(愉快荘)」を設立。
嗣子ルドヴィーコを、「当代随一の君主、第一級の学芸保護者」に育て、男子生徒70人の知育・徳育・体育の全ての面を管理。
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1月
・仏、ブールゲン・ブレス 会談(アルザス地方)。
王太子シャルルとフィリップ善良候の最初の和解交渉、不調。
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3月1日
・ヴェネツィア、ドージェ(元首)トンマーゾ・モチェニーゴの遺言。有名な国情分析)。
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3月18日
・足利義量(17)、室町第5代将軍になる。義持の子。
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3月26日
・ヴェネツィア、他人の目に秘密文書がふれぬように、書記局の書記たちの俸給加俸
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4月4日
・ヴェネツィア、ドージェ、モチェニーゴ没。
15日フランチェスコ・フォスカリ、ドージェ就任(任~1457)。
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4月7日
・ヴェネツィア、アレンゴ(人民集会)廃止。すべて大議会に取って代わる
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4月7日
・仏、アミアン協定。
摂政ベッドフォード、ブルゴーニュ公フィリップ、ブルターニュ公ジャンの3者協定。のち、フォア伯ジャン1世が加わり4者協定。
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4月23日
・パヴィアの大公会議が開催。教皇マルティヌス5世が召集。ペスト発生し7月21日シエナに移動、更にペストの脅威が迫り、議事半ばで散会。
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4月25日
・足利義持、落飾。法名道詮。
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4月27日
・ボヘミアのジュシュカ、タボル派を率い穏和派を破る。
この春、ジシュカはターボルを去りフラデツに移る。
そこでは既に説教師アンプロシュの指導で、オレープ派と呼ばれる急進派拠点が作られており、ジシュカはその軍司令官となり、プラハや貴族の軍と戦い、急進派の勢力拡大に努める。
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5月13日
・摂政ベッドフォードとフィリップ善良公の妹、結婚。
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6月1日
・ヴェネツィア、ドージェ顧問官、四十人委員会の長、十人委員会の長、司法長官、官職に従って色分けのトーガをまとわねばならぬ
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8月2日
・鎌倉公方足利持氏(26)、常陸小栗城を攻略、小栗満重は三州へ逃亡。
8日、小栗と同心した宇都宮持綱・桃井宣義を討つ。
16日、結城から武蔵府中に帰陣、高安寺に入る。勝手に大名を誅伐したとして京都と鎌倉の緊張が高まる。
小栗満重の子・小栗判官(助重)は、その後結城合戦に参陣し、その戦功によって旧領を回復したという。
小栗満重は常陸真壁郡小栗御厨を支配する領主。所領は室町幕府の御料所である中郡荘と近接しており、小栗氏は、早くから幕府中央と関係を結んでいた。
応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で、満重は禅秀に味方したため、戦後、鎌倉公方足利持氏から所領の一部を没収された。
前年の応永29年(1422年)、満重は、宇都宮持綱・桃井宣義・真壁秀幹らと共謀して反乱を起こし、一時は下総結城城を奪うなどした。しかし、反乱の長期化・強大化を懸念した持氏自らが大軍を率いて出陣し、反乱軍は崩壊して満重も居城の小栗城で自刃した。
常陸小栗氏は常陸国の武士でありながら室町幕府と直接主従関係を結ぶ京都扶持衆となり、たびたび反鎌倉公方活動を行っていた。
満重の鎌倉公方(足利持氏)への対抗姿勢も扶持衆の直接の主君である4代将軍・足利義持自身が持氏の勢力弱体化のために秘かに認めていたものとされ、持氏による親征(小栗満重の討伐)は、これを知った持氏が京都扶持衆に対する見せしめとして行ったものとされる。
また、この時に小栗御厨・真壁荘の大部分だけでなく、幕府の御料所である中郡荘も没収して自らの所領に加えたとみられている。
義持はこれを、関東から親幕府勢力の一掃を図った「私戦」として激しく非難して三管領や山名時熙・赤松満祐に持氏討伐の是非を諮問する騒ぎとなっている。
結局、持氏の謝罪で一旦は納まったものの、以後も京都扶持衆を介在させて持氏の勢力拡大を阻もうとする幕府と彼らの討伐の機会を狙う持氏の対立は続き、永享の乱の原因の1つとなった。
やがて永享の乱で持氏が自害して滅んだ後、その遺児(足利春王丸・足利安王丸の兄弟)を擁して結城氏朝が挙兵し(結城合戦)、この戦いで武功を立てた満重の子(一説に弟とも)とされる小栗助重が旧領への復帰を許されたが、康正元年(1455年)、享徳の乱の最中で持氏の遺児(春王丸・安王丸の弟)である足利成氏の攻撃を受けて本貫地である小栗御厨を失った(ただし、小栗御厨は小栗満重の乱で関東管領山内上杉氏の所領となったため、成氏の攻撃を受けたとする説もある)。その後の助重は出家して宗湛と号し、8代将軍・足利義政の絵師として活躍した。
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8月11日
・若狭守護一色義範、将軍からは鎌倉公方足利持氏討伐の旗を授かる(「看聞日記」同日条)。
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8月12日
・ヴェネツィア、スクタリ占領
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9月
・ラ・グラーヴの戦い。サフォーク伯ウィリアム・ポールのアンジュー公領攻撃、失敗。
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9月26日
・ヴェネツィア、ユダヤ人は、不動産を獲得できない
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10月1日
・近江・河内・義乃(美濃か)・八幡などの唱門師(声聞師)達、京都の六角堂・亭子院・梅小路・珍皇寺・矢田寺・大堂(犬堂か)で連日舞を舞い、人々は棧敷を構えて見物(「康富記」同日条)。
この頃から唱門師達は勧進曲舞という形で京都・奈良の寺社で活動。記録では児舞・女舞と書かれたものが多く、あでやかなものであったと推測できる。
14世紀~17世紀初頭、曲舞(久世舞・口宣舞・舞々・舞)と呼ばれる芸能が流行。
曲舞の中では、越前丹生郡田中(近世には西田中)を根拠地にした幸若舞は、最も大きな勢力をもった一派。
曲舞は、平安末期~鎌倉期に流行した白拍子舞から出たものと云われる。白拍子舞は拍子を主にした歌舞で、曲舞もまた拍子に合わせて長い物語を舞いながら語っていくもの。
後に能と云われる猿楽の改革者観阿弥は、当時人気の田楽の歌舞と曲舞の拍子・語りを猿楽に取り込み、ものまねを主体としていた猿楽が、ストーリーをもった歌舞劇として再生する。
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10月10日
・ブルターニュ公弟アルテュール・ド・リッシュモンとフィリップ善良公のもう1人の妹(ジャン無怖公)マルグリッド 、結婚。
(1424年シャンベリー協定後、ブルゴーニュ候フィリップ善良公、リシュモンをシャルル7世の宮廷に派遣)
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11月28日
・鎌倉公方足利持氏が派遣した謝罪の使者、入京。
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11月29日
・教皇ベネディクトゥス13世(99)、ペニスコラ(バルセロナ南)で没。コンスタンツ宗教会議で1417年7月廃位。
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12月15日
・ビザンツ皇帝パレオロガス、ヴェネツィアに到着、キリスト教側の援助を求む
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