鎌倉 明月院 2016-06-14
*保安2年(1121)
この年
・ヘンリ1世、ウェールズ遠征。
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・ソアソン公会議。アベラール(42)、「異端」とされる。
論文「神の単一性と三位一体について」で三位一体の教義の研究に弁証学の学問的蓄積を適用
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・神学者アルベリクス、ランスの学校長に就任(1121~1136)。
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・ポルトガル、ガリシアの大貴族トラヴァス家当主ペドロ・フロイラス、ポルトカーレ領を併合。
ガリシア王再興を図り息子フェルナン・ロペスとポルトカーレ摂政テレサ(エンリケ・デ・ボルゴーニャ未亡人)とを結婚させる。しかし、ポルトカーレ貴族はガリシアの勢力伸長に反発。
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1月
・ヘンリ1世(53)、ブラバント公娘アデリシア(19)と再婚。
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・初頭、ミュンスター事件(ザクセンの都市、ハンブルグ南60km)。
ミュンスターの支配と司教座をめぐり皇帝ハインリヒ5世とザクセン公ロータル3世が争う。
内乱がザクセンで再発、ライン地方に拡大。
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1月17日
・藤原忠実、再び内覧を許される(一旦は内覧復帰を許す形をとる)。
22日、関白藤原忠実の上表(辞任)を許し、内大臣藤原忠通の内覧を許す。
3月5日、忠通は関白に就任。以降、4代38年間、摂関を勤める。
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2月
・源俊房(87)、没。
嫡流の俊房一族(源師房長男)は勢いを失い、「村上源氏」宗家の座は弟の顕房一族(源師房次男)に移る。
俊房:
白河・堀河・鳥羽3朝に歴仕、39年間、左大臣。父の後を承け白河天皇の異母弟実仁(さねひと)・輔仁(すけひと)親王の後見的役割を担う。
応徳2(1085)年小一条院(三条天皇皇子)の男源基平の女基子を母とし、後三条天皇の期待を背負う皇太弟実仁親王が病没するや、翌年、白河天皇は父帝の遺志に反して、翌年皇位を皇子善仁親王(たるひと、堀河天皇)に譲り、皇位の嫡々相承に執着。
皇嗣の有力候捕と目される三宮輔仁親王は次第に宮廷より疎外され、洛西仁和寺花園に隠栖。その間、俊房は寛治3(1089)年、女の任子を摂政師実の嫡孫忠実に嫁させ地位安定を図るが、一方、異母弟師忠が女を輔仁親王の室として有仁(ありひと)をもうけさせ、息男師時が輔仁親王と同じく源基平の女を母とする縁によって親王に近侍し、更に息男の醍醐寺僧仁寛(にんかん)が親王の護持僧となるなど、俊房の周辺には三宮と縁の深いものが少なくない。
永久元(1113)年10月、鳥羽天皇暗殺未遂事件で仁寛が捕えられ流罪となり、三宮は蟄居し、俊房・師時父子らは、翌年11月出仕朝命まで閉居とされる。(「中右記」)。
この後、再び出仕して公事に精励するが、その男の師頼・師時らの官位昇進は抑えられる。
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2月26日
・藤原忠実、関白を辞職、宇治に隠居。
忠実の娘泰子が鳥羽天皇への入内を拒否し、「院勘」を蒙り、忠実は宇治に蟄居。
忠通が関白・氏長者となる。
院の専制権力による摂関家分断策。
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3月5日
・藤原忠通、関白となる。
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4月2日
・平正盛、没か?。その家は嫡子忠盛に継承される。この時、清盛は4歳。
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5月2日
・延暦寺僧徒、園城寺金堂などを焼く。
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6月1日
・「白山上人(西因)縁起」できる。
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9月29日
・ヴェルツブルグの会議。「皇帝と王国の争いに関する諸侯の一致した助言」。
王国の諸権利を損ねることなく教会との争いを終結すべき。
ハインリヒ5世が対立的行動を改めず諸侯に攻撃・報復 するならば、諸侯は相互忠誠誓約に従い一致した行動をとる。総平和令違反は死刑。皇帝の破門を取り消すため、教皇に使節派遣。
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保安3年(1122)
この年
・藤原顕隆、参議・中納言に昇任。
為房の次男。白河院蔵人から17歳で堀河朝の蔵人になり、28歳で右少弁になって「世人の耳目を驚かせ」、鳥羽朝では蔵人頭・右大弁になる。
彼は「(関白忠実が失脚した保安元年11月以後)、天下の政はこの人の一言にあり、威を一天に振るい、白河院と女院(待賢門院璋子)の執行別当を兼ねて天下の万事を知り、富は四海に満つ」(『中右記』)と評され、夜ごと院に奏聞することが全て聞き入れられたことから、「夜の関白」と呼ばれた(『今鏡』)。
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・シュジェ(43、シュジェール)、サン・ドニ修道院長就任(1081?~1151、位1122~1151)。
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・クリュニー修道院長ポンス、浪費のかどで罷免。
尊者ピエール(30、ピエール・ド・モンブアシェ、ペトルス・ヴェネラビリス)、クリュニー修道院長就任(1092~1156、位1122~1156)。
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・アリエノール、誕生(1122~1204、アキテーヌ候ギョーム10世娘)。
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・フランス、サヴィニ修道会創立者ヴィタリス、没。
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・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世、フラーガ奪取。レリダ征服の第1ステップ。
後、フラーガも失いレリダ征服計画放棄。
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・アラゴン・ナバーラ王アルフォンソ1世、ベルチーテ騎士団を組織。
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・ローマ、ある未知の国のキリスト教徒の国王と公言する者が現れる。
(1世代後、プレスター・ジョンが現れる。1177年、教皇アレクサンデル3世、プレスター・ジョンに返書、教皇庁医者フィリップに託す)。
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・遼、9代天祚帝(てんそ、位1101~25)、同盟した宋と金の挟撃を受け、敗れ、内モンゴルに逃亡。
後、反撃に出るが、捕縛、東北地方奥地に流され1125年没。同年、200年続いた遼は滅亡。
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1月
・始め、教皇カリストゥス2世、皇帝使節と会談。皇帝使節は「教皇が望んだ保証」を全て携えている。
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2月19日
・教皇カリストゥス2世、皇帝に書簡。
「教会」は「キリストのもの」を受け、「皇帝」は「皇帝に属するもの」を持つ。
平和への第一歩(「教権と俗権の分離」の協定への道を開く)。
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4月
・白河法皇、法勝寺で五寸塔三十万基の供養。
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4月8日
・久我雅実の長男・顕通、没。顕通の弟・久我雅定、後継。
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9月
・アレッポのバラク、エデッサ伯ジョスランを奇襲で捕縛。現場を確認に来たエルサレム王ボードワン2世(前のエデッサ伯)もまたバラクにより捕縛。
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9月23日
・ウォルムス平和協定
ドイツ皇帝ハインリヒ5世(41)とローマ教皇カリストゥス2世(教皇特使枢機卿ランベルトゥス)の間で締結。
俗人による聖職叙任権闘争終わる。
相互に特許状を交付。皇帝ハインリヒ5世の破門解除。
皇帝の特許状(ローマ教会宛。教会の自由な選挙・叙階を保障。叙任権闘争中に奪った聖ペテロ所領とレガリアの返還を約束)。
教皇の特許状(ハインリヒ5世個人宛。皇帝の面前で選挙、意見が分かれたときは皇帝の助言に従う。選ばれた聖職者は、皇帝よりレガリアを受け、皇帝に封建的誓約と臣従礼。
後、皇帝・教皇共にこの協約を破棄、争いは続く。
また、ザクセン公ロタールは以後も皇帝の領内への干渉を許さず独立性を強める。
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12月
・源雅実(顕房の嫡男、久我家の祖)、従一位右大臣より太政大臣に昇る。
源氏の太政大臣補任の初例。
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12月17日
・源有仁(20)、内大臣となる。藤原忠通、左大臣となる。
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