2016年6月13日月曜日

明治38年(1905)11月16日~30日 第2次日韓協約(乙巳条約)強制調印(初代韓国統監;伊藤博文) 「是日也放声大哭」(「皇城新聞」社説、主筆:柳瑾) 「光」創刊(西川光二郎・山口義三ら) ワシントン密使事件(高宗の密使ハルバート) 『破戒』第一稿 ロシア;クロンシュタットで水兵反乱、レーニン帰国、シュミット中尉の反乱、 「ナチャーロ(出発)」創刊  

小石川後楽園 2016-06-06
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明治38年(1905)
11月16日
・伊藤特派大使、大韓政府大臣をソンタク・ホテルに集め、条約案文を説明。公使館付通訳塩川一太郎が通訳。
伊藤は各大臣に意見を求める。反対もしくはすぐには結論がでないという回答。のち、徳寿宮で御前会議。反対の決心固める。
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11月16日
・東京市会、警視庁廃止を決議。
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11月16日
・警視庁廃止期成会、発会式と演説会。江東・伊勢平楼。
高橋秀臣(国民倶楽部、旧同志連合会幹部)、肥塚龍(東京参事会員)は弁士中止。
松田源治(弁護士、のち文相)ら3人演説。
角田真平は途中で弁士中止。江間俊一(東京市参事会)にも中止命令、解散。
23日にも「期成同盟会」の政談演説会。
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11月17日
・米大統領宛韓国皇帝親書携えた米人ハルバート、ワシントン着。ルーズベルト大統領会見拒否。
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11月17日
・第2次日韓協約(乙巳条約)強制調印
韓国の外交に対する日本の管理指揮、漢城に統監駐在を定め、保護国化する。
23日、公示。各地で反日蜂起。
30日 侍従武官長閔永煥、憤慨自殺。

この日、歩兵1大隊・砲兵中隊・騎兵連隊、ソウル市内行進。公使館のある倭城台に大砲を引上げ、砲口を王宮に向けさせる。

午前11時、林公使、各大臣を日本公使館に招集、予備交渉。進展せず、御前会議開催要求。
午後3時、諸大臣、参内。林公使も王宮に向かう。
王宮周辺は日本軍が警備。
御前会議は結論出ず、午後7時頃、再度協議し、交渉延期を求めることを決める
(学部大臣李完用は条文修正を求める意見。数人が同意の様子。参政(総理)大臣韓圭かが反対)。

御前会議終了前、休憩所の林公使は伊藤特使に伝令。やがて、御前会議を終えた閣僚が退出し、中明殿の一室で林公使と再交渉。
この頃(夜8時)、伊藤公使・長谷川好道(大将)駐剳軍司令官・小山三己憲兵隊長・随員らが徳寿宮に到着。日本兵も王宮に入る。
間もなく、伊藤特使は中明殿に現れ、各大臣の賛否を問う。
参政大臣韓圭かは反対。外部大臣朴齊純は不明瞭、絶対反対でないと見做される。度支部大臣閔泳綺は反対。法部大臣李夏栄は反対。内部大臣李址鎔は反対を唱えず。軍部大臣李根沢も反対せず。学部大臣李完用は条約案文に注文をつけ、伊藤は条約を修正(4項目を5項目とする)。農商工部大臣権重顕は李完用と同じ。
午後11時、「乙巳五賊」と呼ばれる大臣5人の賛成で可決。
午後11時30分、林公使・朴齊純外相記名。
午前1時30分、朴齊純外相、職印押印。

・夜、李完用邸焼き討ち。
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11月18日
・乙己五賊暗殺計画、事前発覚。容疑者11人逮捕、獄死。群衆が王宮正門(大漢門)に押しかける。商店は休業。
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11月18日
・清国、立憲大綱の準備を発令。
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11月18日
・ロシア、クロンシュタットで水兵の反乱。~19日。参加者処刑、ペテルブルクで抗議のスト。
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11月18日
・ノルウェー、ホーコン7世、即位(~1957年)。
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11月19日
・清国で幣制制定。
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11月20日
・「皇城新聞」社説、「是日也放声大哭」(主筆:柳瑾)。即日、張志淵社長逮捕。会社閉鎖、~翌年2月。この間に張志淵は社長の座を奪われる。
「大韓毎日申報」も「乙巳保護条約」締結の顛末を詳細に報道。
また、英「デイリー・ニュース」特派員エルネスト・ベゼル(同社社長)・梁起鐸・朴殷植・申采浩(シン・チェホ)が特別記事を書く。ベゼルは治外法権を利用して大韓毎日申報社を設立、排日論を展開。高宗もひそかにこれを後押し。
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11月20日
・西川光二郎・堺利彦ら凡人社設立、西川光二郎・山口義三ら平民社主流派、「直言」の後継紙「光」(半月刊)創刊。キリスト教派分離後の社会民主主義機関誌。
山口「我利主義を正義と称して労働者にアキラメ的道徳を脅迫する内村鑑三氏」。
執筆者:幸徳秋水・森近運平・田添鉄二・片山潜・荒畑寒村・竹内余所次郎・金子喜一・大石禄亭・堺利彦・久津見蕨村・児玉花外・白柳秀湖・大塚甲山・小野有香・土屋窓外・原霞外・岸上克己ら。
日刊「平民新聞」発行準備ができ、明治39年12月29日発展的廃刊。
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11月20日
・露、ペトログラード・ソヴィエト、ストライキ中止決定。
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11月21日
・「新聞大同盟」代表委員、各政党・首相・内相を訪問、緊急勅令撤回を求める。黒岩涙香・池辺三山・横井時雄ら5人。
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11月21日
・[露暦11月8日]レーニン帰国。ペテルブルク到着。
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11月22日
・水原観光帰路、伊藤の列車に農民投石。
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11月22日
・露バルチック艦隊司令官ロジェストヴェンスキー中将一行、船内暴動騒動のあと長崎港出港。
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11月22日
・ワシントン密使事件。
米人ホーマー・ハルバート、11月26日付け高宗密書を国務長官ルートに渡す。
協力拒否(「桂=タフト協定」のため)。
他の駐仏公使・前駐米公使を通じた対米工作も失敗。

ホーマー・ハルバート:
宣教師・言語学者・歴史学者。1886年官立洋学校「育英公院」英語教師として招聘。情報誌「コリアン・レビュー」を刊行、皇室にも出入り。著書「韓国史」「大東年紀」「韓国見聞記」。高宗は一時帰国中のハルバート(在ワシントン)に密書を送り、ルーズベルトへの伝達を依頼。
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11月23日
・初代韓国統監、伊藤博文が就任。
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11月23日
・第2次日韓協約、「官報」・外務省告示で公表。
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11月23日
・ロシア、「10月勅令」をロシアの歴史的転換点と見做す穏健派反政府運動、オクチャブリースト(「10月17日の同盟メンバ」)設立。指導者グチーコフ、ロジャーンコ。
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11月24日
・菅野須賀子、論説「筆の雫」(「牟婁新報」)。
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11月24日
・(露暦11/11)露、セヴァストポリ軍港、巡洋艦オチャコフ号、シュミット中尉の反乱、鎮圧。
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11月24日
・永井壮吉(荷風)、カラマズで父の手紙を受け取る。
父は横浜正金銀行の頭取にたのんで、壮吉をその銀行のニューヨーク支店の事務月見習に使ってもらうことにしたから、至急ニュー・ヨークへ行って支店の支配人に逢うように、とのことであった。
永井は断ろうと思ったが、ニュー・ヨークの正金銀行支店からも電報で招いて来たし、ニュー・ヨークならば三十分ぐらいでイデスのいるワシントンへも行ける、と思って彼は出かけた。
12月7日から、彼はいやいやながら正金銀行に勤めはじめた。
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11月25日
・清国に考察政治館設置。
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11月25日
・英米独仏で募集する公債の件公布(勅令241号)。
4分利付・第2回、英貨公債5千万ポンド募集。2,500万ポンドのみ発行。英団体1,300万ポンド、パリ・ロスチャイルド家1,200万ポンド。
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11月25日
・米臨時代理公使、韓国における米の外交事務は、今後東京公使館で取り扱うことを通知。
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11月25日
・ワシントン、日露講和条約・追加約款の批准書交換。
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11月26日
・「東京朝日」、同胞俘虜の数を1718人とし、これ以外に二百数十人存在と報じる。
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11月26日
・孫文らの中国革命同盟会、機関誌『民報』創刊(日本、東京)。
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11月26日
・(露暦11月13日)トロツキー(26)、メンシェヴィキと協力して大衆的政治機関紙「ナチャーロ(出発)」創刊。部数は拡大。
この頃、ボルシェヴィキの「ノーヴァヤ・ジーズニ(新生活)」は振るわず。
また、この頃、トロツキー、パルヴスと協力して「ルースカヤ・ガゼータ(ロシア新聞)」発行。更に、ペテルブルク・ソヴィエト機関紙「イズヴェスチア」にも社説掲載。

「「ナチャーロ」創刊号が出た。われわれは闘争の同志に挨拶を送る。創刊号において注目を引くのは、11月ストライキに関する同志トロツキーのすばらしい論文である」(「ノーヴァヤ・ジーズニ」)。
「ノーヴァヤ・ジーズニ」はレーニンが到着した後もトロツキー論文を擁護。両新聞・両分派は統一に向って動き出す。ボルシェヴィキ中央委員会は、分派は亡命という条件下で生れた結果と決議。
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11月26日
・露バルチック艦隊司令官ロジェストヴェンスキー中将一行、ウラジオストック着。/30.発。
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11月27日
・駐韓アメリカ公使モルガン、第2次日韓協約により公使館閉鎖。イギリス公使などもこれに続く。
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11月27日
・東京府会、「警視庁廃止に関する意見書」案を満場一致可決、内相・衆議院に提出。
警視庁が首都警察として国家的性格を持ち、警視総監は府知事ではなく首相・内相の指揮下にある。府知事・警視総監の対立を排除し一本化。
また、内閣保護の為の警視庁から東京府知事下での人民のための警察に転換させる。
1906年10月より議会で議論。
翌年、西園寺内閣において、内相原敬は警視庁廃止には反対。議会で否決。
但し、原は元老山縣が掌握してきた内務行政権力基盤解体のため東京府下24警察署の18署長(薩摩閥)を更迭。
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11月27日
・社説(池辺三山)「凱旋歓迎の盛」(「東京朝日」)。三山も勝利凱旋の熱狂に酔う。
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11月27日
・この日、島崎藤村はようやく『破戒』第一稿を書き終える。稿を起したのは、前年明治37年初めで、1年10ヶ月を経て一応の完成を見た。
この日付、援助者の神津猛宛の葉書。
「草稿全部完了。十一月二十七日夜七時、長き長き労作を終る。(章数二十一、稿紙五百三十五)。無量の感謝と長き月日の追憶とに胸踊りつゝこの葉書を認む。」
彼は、原稿浄書に取りかかるに当り、本文の組み方から、挿絵や表紙の写真製版の仕方にまで念を入れた。鏑木清方に絵を依頼し、この頃、従来の木版に代る新しい写真製版術をアメリカから輸入した田中猪太郎に相談して事を運んだ。また本文の組と同じ字数で、原稿紙一枚がちょうど一頁になるように十二行四百三十二字の原稿用紙の版木を作り、それを手刷りにして、その上に彼は全部の浄書を行った。
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11月27日
・墺・ハンガリー帝国、モラビアを言語による民族区域に区分しドイツ人とチェコ人の対立を調整する妥協成立。28日、普通選挙制導入。
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11月28日
・この頃、河上肇(27歳)は、道を求めて街上を歩きまわっていたが、この日、専修学校への途中、神田の古本屋でトルストイ「我が宗教」の翻訳を見つけて買った。この日、学校から帰って下宿でそれを読み、彼はトルストイの熱烈な信仰に魅入られた。
更にその数日後、彼は「無我愛」という題の、伊藤証信の発行する薄っぺらな雑誌を読んだ。彼は、伊藤証信は、トルストイと同じ宗教思想を実践している日本人だと思った。無我愛という思想は、彼の考えていた絶対的非利己主義と同じものだと感じた。

伊藤証信は、真宗系の僧であり、真宗大学を卒業して研究科に籍を置いた人物であったが、自己の思想を見出して、僧位を返上し、久しく乞食の巣になっていたという東京郊外の巣鴨の大日堂に立て籠り、味噌を嘗めて生活しながら、その薄い雑誌を発行していた。彼の主張は、「吾々は如何なる行為をしても、他人の愛を育てるか、他人の我執を挫くか、どちらかになるので、何も心配することはない。畢竟一切の活動はみなそのままで無我愛の活動なのである。それを自覚しないから安心が得られないのであるが、その道理さへ自覚すれば、吾々は直ちに絶対の平安絶対の幸福を得られるものである」というもの。
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11月28日
・アイルランド、シン・フェイン党結党
ダブリン、アーサー・グリフィス(1872~1922)。アイルランド完全独立主張。
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11月29日
・午前9時、枢密院会議、緊急勅令(戒厳令・新聞雑誌取締令)廃止。
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11月30日
・侍従武官長兼陸軍副将閔泳煥、抗議自殺。
12月1日、前議政大臣・特進官趙乗世(77)、自殺(27日、上疏。憲兵隊に拘留)。
他に、経筵官宋乗璿、前参賛洪万植(甲申政変時、開化派として死んだ洪英植の兄)、学部主事李相哲、平壌徴上隊兵丁全奉学なども抗議の憤死。
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