2017年7月4日火曜日

堀田善衛『ゴヤ』(117)「版画集『戦争の惨禍』」(5)「現代の開始期の、まさにその時に当ってゴヤによって深刻な警告を受けていながら、あたかも聾者ででもあるかのようにして一向に聴き入れようとせず、殺戮に殺戮を重ねて来たのは、われわれの歴史そのものなのである。「答は汝にあり」。 ここで聾者なのはゴヤではない。」

この版画集の最終部分、六五番から、八三、八四、八五番の囚人図までを含む第七群についてであるが、この第七群は直接的には戦争の惨禍とは関係がなく、最初の編纂著であるベルムーデスが「強烈な気まぐれ」と呼んだものにあたる。デッサンはおそらく早く出来ていたものであろうが、なかには一八二〇年以後の、フェルナンド七世の圧政からの自由化革命の後に銅版に刻まれたものであろうと推察されるものも含まれる。というのは、その諷刺と批評があまりに「強烈」で、到底、異端審問所の復活して来ている環境で刻まれ、たとえ少部数なりとも秘密にまわし読みなど出来る筈のないものがあるからでもある。

65「この騒ぎはいったい何なんだ?」

この第七群は、六五番「この騒ぎはいったい何なんだ?」からはじまる。けれどもこの六五番そのものが、今日ではわれわれ自身もが、この騒ぎはいったい何なんだ? と問わなければならなくなっている。左端にお椀帽をかぶったフランス兵がどっかと坐り込んで鵝ペンで何かの書きものをしていて、どうやらこの男が、中央に髪をぶり乱してあわてふためき、また両手で頭を抱え込んで身をねじるように倒して走る二人の婦人に、「この騒ぎは……?」と問うているらしいのである。
この鵝ペンをもった兵の陰にもう一人の兵がいて、これもびっくりしたような表情で右の方を注視している。
あるゴヤ展のカタログ(一九六一-六二年、パリ)には、「如何なるゴヤ解説者もこの版画の意味を見出しえていない」と書いている。

・・・戦争に関する直接的なコメントはこの一枚で終り、あとは対仏人民戦争の間に目覚めたスペイン人民を再び眠らせ、あるときには「真理」をさえ死なせ、愚昧化するものとしての教会に対する激烈な攻撃がつづく・・・

66「異様な信心だ!」

   67「これもまた少からず異様だ」

68「何という気違い沙汰だ」

六六、六七番は聖職者と貴族階級に対する「強烈な」攻撃である。聖職者の屍をわざわざガラス張りの棺桶に入れて運び、人々の拝跪と祈祷が求められている。「異様な信心だ!」との詞書がつき、六七番は「これもまた少からず異様だ」とされていて、貴族の服装をした二人の老人が杖に支えられながらも聖母像をかついでよろめいている。

六八番、「何という気違い沙汰だ!」とされているものは、頭巾つきの服を着た修道士とおぼしい大きな人物が背を二つ折りにして右手にスプーンをもっている。中景には左にカーニバル用の仮面らしいものやおまると見える容器があり、右には額縁に入れた絵画数枚と、裸の着せかえ人形らしいものが二体と女性用の服と、それに男のズボンかと思われるものが見える。そうして背景にやはり頭巾つきの服装をした黒い人物が数人彷徨している。
この一枚は、それ自体気違い(ママ)じみていて、それが如何なる種類の狂気の沙汰なのかわからない。私自身は、修道士用の服を着てはいるものの、これはゴヤのアトリエを描いたものではないか、と思うことがある。こういうもの、「強烈な気まぐれ」などを描くこと自体、狂気の沙汰だ、と自嘲しているかに受けとられるのである。すでに『黒い絵』が開始されているのである。

70「彼らは道を知らない」

71「公共の福祉に反して」

72「その結果」

   73「猫の無言劇」

   75「ほら吹きどものお喋り」

六九番「虚無だ」のことは後述するとして、七〇番「彼らは道を知らない」と詞書されたものは、小さな丘、あるいは大きな石をめぐって、綱で首をつながれた警官と聖職者がぐるぐると堂々めぐりをしている。そうして人民は両手をひろげ、呆れて見ている。法治国家と称される警官たちの官僚主義(ビューロクラシイ)と、聖職者たちによる権威独裁主義(オートクラシイ)を、かくまでも露骨に諷刺したものは他にないであろう。今日でも充分にそれは通用する、聖職者に代ってイデオローグが一枚加われば。

七一番は、ふたたび聖職者である、但しこの聖職者の手足には鋭いけだものの爪が生え、耳にあたるところには蝙蝠の羽が生えている。彼は大きな帳面を膝の上でひらき何かを書きつけている。ここでも人民は両手を挙げて大迷惑の表情である。これは「公共の福祉に反して」と詞書され、七二番は、「その結果」として七一番を受けている。
「その結果」はどういうものであったか。人民は地に打ち倒されて蝙蝠に胸から生血を吸われている。蝙蝠どもは続々と駈けつけて来る。

七三番は「猫の無言劇」と詞書されて、台上の猫と猫の顔をした鳥が飛んでいて修道士がこれをおがんでいる。
七五番「ほら吹きどものお喋り」では、オウムの顔をもった服装からしてかなり高位の聖職者が前面に躍り出て、背後の善男善女にほらのありたけを吹きまくり、左端上部の石の上にとまった本物のオウムと右端の驢馬や犬、猪などが呆れている。

76「肉食のハゲ鷹」

77「綱が切れるぞ」

そうして、七六、七七番の強烈至極な諷刺が来る。七六番は「肉食のハゲ鷹」と詞書され、戦争中は百姓ゲリラであったに違いない男が三ツ叉の鋤をもってこの鳥に襲いかかっている。羽は半分がたは剥ぎとられて、いま致命的な一刺しを見舞われようとしている。この醜い鳥が何物であるかは、鳥の肛門の直下におかれた一人の人物が表象をしている。・・・これはローマ教皇にほかならない。
ローマ教皇を肛門からひり出すことの出来るものは、これは教会以外にありえない。
ゴヤはもうヤケ糞にでもなったかのようにして教会そのものを、教皇をさえ槍玉にあげ、ゲリラとともにこれを刺し殺そうとしている。
現在、異端審問所はない。ナポレオンの一言によって廃止されてしまった。
しかし、スペインには「夜とイエズス会は必ず戻って来る」という言い方があったように、それが戻って来る可能性はないか・・・。
もしそれが戻って来て、ハゲ鷹の肛門からひり出された教皇を見出したとしたら、しかも鋤で教会を刺し殺そうとは・・・。これはもう絞首刑ものである。
事実、後年にいたって「夜」とともに復活して来た異端審問所は、彼を召喚している。二度目である。

さて次に、七七番「綱が切れるぞ」である。
下から見上げている民衆を尻目に、何カ所も結び目やら、別の紐などでつくろったところのある綱の上で綱渡りをしている者が誰か。長いあいだそれは論議の種であった。
高位聖職者らしい服装をしてはいるものの、これはジョセフ・ボナパルト、つまりはホセ一世であろう、ということになっていた。・・・
・・・ゴヤ生前からのコレクターであり、かつ尊敬者でもあったバレンティン・カルデレーラのコレクシオンには、一八二〇年のセアン・ベルムーデス版によるもう一つ別の版があったらしいということも、専門家の間ではうすうす知られてもいた。
プラド美術館も、なかなかこの原デッサンを公表しなかった。
理由は、単純明瞭である。
デッサンと一八二〇年の地下版では、この危っかしい綱渡りをしている聖職者は、畏れ多くも教皇の、例の盾のような形の三重冠を頂いていたのである。
つまりこの綱渡り男は、時の教皇ピウス七世にほかならぬ。
かくて、鳥の肛門からひり出された教皇は、民衆の頭上で綱渡りをさせられている。
それにしても物凄いものを刻んだものである。ゴヤの反教会の念々は、ここに到って頂点に達している。
なおピウス七世は、一八世紀末に追放されたイエズス会の復活を許し、スペイン異端審問所の再開をも認可した人であった。

七九番「真理は死んだ」、八〇番「復活するかしら?」、八一番「物凄いけだもの」、八二番「これが本当なのだ」については先に触れたのでくりかえさない。七八番「奴はうまく身を守る」についても。

69「虚無だ」

74「最悪なのはこれだ!」

かくて、いままで言及を延ばして来た六九番「虚無だ」、と七四番「最悪なのはこれだ!」について触れなければならない。

六九番の「虚無だ(Nada)」もまた議論の余地のあるというか、議論の種になる作である。ほとんど真暗な、しかし闇のなかに魑魅魍魎どもがよってたかっている画面の前面中央から右へかけて、下半身はすでに地に埋められてしまっている痩せ衰えた瀕死の人が、骸骨よりももっと怖ろしい顔を見せ、最後の、あらんかぎりの力を振り絞って起き上り、下半身を埋めている土の上におかれた石か板に、Nada(虚無だ)と書きしるしている図である。
これをどう解するか。そこに様々な議論が出て来る。背景の魑魅魍魎のなかの一人は、秤をもっているが、その秤皿はびっくりかえっている。宗教画の伝統では、秤は大天使ミカエルがもっていて死者の魂の重さをはかることの表象であったし、通常は平等と正義をあらわした。その秤の皿がひっくりかえっているとならば、死者には重さがはからるべき魂などはない、死の前に平等も正義も何もあるものか、ととるべきか。
もしそうであるとすれば、この瀕死寸前の人が垣間見た死の世界が、神も仏もなくて「虚無だ」と解さなければならないであろう。
またもしそうであるとすれば、ゴヤは反教会どころか、無神論者である、ということになる。唯物論者である、ということにすらなるであろう。
神がいなければ、死者の行く手にあるものは救済でも天国でも地獄でもなくて、「虚無だ」ということにならざるをえない。しかし、これもまたあまりに「強烈」である。
だが、あまりに強烈であろうがなかろうが、論理の必然であることも間違いではないであろう。
私には、ゴヤが戦争とそれにもとづく飢えや伝染病などで、あまりに多くの、生きるべき人々が、ほとんどわけもなくと言いたくなるほどにばたばたと、残酷に殺され、かつ死んで行く様を見て、あるときに神も仏もない、「虚無だ」と考えたとしても自然であると思われる。
・・・たとえ「虚無だ」と思う時があったとしても、だからと言ってゴヤを無神論者、唯物論者としてしまうこともまた誤りであろう。

そうして次に、無智蒙昧な民衆にとりまかれて聖職者のさし出しているインク壷によって、鵝ペンを手にして何やら文句を書きつけている狼の図が来る。七四番、「最悪なのはこれだ!」と 詞書されていて、狼が書いている文句は、

Misera humanidad, la culpa es tuya. Casti
人間たることの悲惨、答は汝にあり。カスティ。

というものである。
これは一八世紀イタリアの詩人ジャン=パティスタ・カスティの詩句の奇妙なスペイン語訳である。
これと一対になるべき句は、おそらくローマの詩人プラウトゥスの、

Homo homini lupus
人は人に対して狼なり。

であろう。

現代の開始期の、まさにその時に当ってゴヤによって深刻な警告を受けていながら、あたかも聾者ででもあるかのようにして一向に聴き入れようとせず、殺戮に殺戮を重ねて来たのは、われわれの歴史そのものなのである。「答は汝にあり」。
ここで聾者なのはゴヤではない。
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