2017年8月5日土曜日

明治39年(1906)9月11日 木下尚江(数え38歳)が社会主義を捨て秋水・堺と決別する 木下尚江の活動の足跡(「平民新聞」 「毎日新聞」 弁護士 「火の柱」 「良人の自白」 キリスト教社会主義 「新紀元」 二葉亭四迷との出会い 母の死...)

汽車道からのみなとみらい
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明治39年(1906)
9月11日
・木下尚江(数え38歳)、社会主義を捨て秋水・堺と決別。
佐野町から帰った翌日の9月11日、木下尚江は麹町元園町の堺家を訪ねた。秋水が7日に上京して、まだ堺家に同居していた時であった。その2人に向って木下は、社会主義運動から離脱する旨を伝えた。
9月13日、木下尚江は「旧友諸君に告ぐ」という訣別の辞を書いた。
「諸君よ、僕は断然政党運動を脱退したる也。是れ僕が政党運動を不必要となすが為に非ず、政党運動を以て愚挙となすが為めにも非ずして、僕自身の性格が到底政党運動に不適当なるを知りたると、政党運動以外に於て僕の専ら力を致すべき事業あることを確信するに至りたるとの為に外ならず。既往数年間僕は二途にも三途にも迷ひ来れり。今ま始めて自らの位置と職分とを覚ることを得たり。故に今敢て絶つべからざるの旧交厚誼に背き、明白に諸君を離れて孤立独住の寂寞を甘んずる也。」

《木下尚江の活動の足跡》
■「平民新聞」に拠る活動
木下尚江は明治34年5月、片山、堺、幸徳等と社会民主党を結成。それは届出るとすぐ禁止になったが、以後彼は社会主義者として行動。
彼は「毎日新聞」に席を置くかたわら、明治36年~38年、週刊「平民新聞」の主要な一員として、積極的に働いた。
彼は非戦論を擁護し、徴兵制の残酷さを指摘し、忠君愛国思想の空虚さを批判し、国家至上主義を嘲笑する論説を書きつづけた。

日露開戦後の間もない明治37年3月、彼は、戦時の国庫債券募集の不成績を暴露して発行禁止を食った「二六新報」を擁護する文章を「毎日」に載せた。
「或は妻を離別して出陣せるものあり。或は子を殺して出陣せんとしたるものあり。而して堂々たる新聞記者筆を揃へて讃称して曰く義士なり勇者なりと。是れ不倫を煽揚するものなり。・・略・・然れ共世を挙つて謳ふて曰く『忠君愛国』、吾人は如何ばかり多大の割引をなすも、是等を目して重厚なる愛国心と言ふこと能はざるなり。・・・略・・・軍国時代の故を以て吾人新聞記者は言論の自由、其七分以上を失へり。此時に当つて甘言は理非曲直を問はずして喝采せられ、苦言は善悪邪正を問はずして排斥せらる」
この文章のために、掲載した3月25日の「毎日新聞」は発売禁止になり、発行人と木下尚江とは起訴された。罰金20円。

一方「平民新聞」の記事によって、堺、西川、幸徳等が起訴されると、弁護士の資格を持つ木下尚江は法廷でその弁護に当り、平民社にとっての最も強い楯となった。

■小説「火の柱」
木下は「毎日新聞」が徳富蘆花に小説を頼もうとして成らなかったとき、自らかって出て明治37年元旦から小説「火の柱」を連載した。(~3月20日)。
この小説は、木下自身をモデルにした、キリスト教社会主義者で非戦運動の闘士、篠田長二を主人公とするもの。「平民週報」という名で「平民新聞」が活躍の舞台とされ、その談話室を中心に活躍する人々は、幸徳、堺、石川、西川その他の人をモデルにしたもの。小説の中で、反戦運動をしているロシアの社会民主党員からの手紙が着く場面があるが、それは週刊「平民新聞」において事実となって現われた。
開戦後の3月13日発行「平民新聞」第18号に、公開状「与露国社会覚書」が掲げられ、次号にはその英訳が載せられた。その文章は欧米の社会党系の新聞に転載されている間に、ロシアの社会民主党の目にとまり、その機関誌「イスクラ」は、それに答える公開状を載せ、それは7月24日の「平民新聞」第37号に訳載された。

「火の桂」の最後の場面では、篠田の書いた反戦主義の原稿が探偵の手に入り、そのため日露の国交断絶の日に篠田が逮捕されることになっていた。

■小説「良人(りようじん)の自白(じはく)」
その5ヶ月後、明治37年8月15日から、木下尚江は第二の小説「良人(りようじん)の自白(じはく)」を「毎日新聞」に連載。前篇は11月10日まで、中篇は翌明治38年4月1日~6月3日、後篇はその年7月1日~10月16日まで掲載。
「火の柱」は全く素人であった彼によって書かれた反戦主義そのものの小説であったが、「良人の自白」は社会小説でありながら、恋愛小説の観をも呈していた。

作品は、東大法科を卒業したばかりの主人公白井俊三が家族制度の絆に縛られて、気に入らぬ結婚生活に入る話からはじまり、無実の罪を着て入獄し、そこで子供を産む下層の女お玉、小作争議の指導者である、俊三の幼友達の野間与三郎、主人公俊三の堕落、人妻との姦通と彼女の自殺、俊三の離婚、芸者への耽溺、自暴自棄の俊三が自分を尊敬するお玉にまで手を出そうとすること等、多くの事件が続く。
後篇途中から、俊三は恋人松野を追ってアメリカに渡り、社会主義大会に出席する消息が出、やがてロシアに渡るが、そこで暴漢に撃たれて死ぬ。その消息が郷里の人々の間に伝えられる。
最後は、下層社会出身のお玉と与三郎との将来に希望がかけられているところで、この小説は終る。
「良人の自白」は社会悪を摘発した小説であったが、同時に、俊三という知識階級人の異性関係における腐敗、自棄、執着の連続とも言うべきものが作品の主脈をなしている。この小説は、男性の告発であり、木下の過去の異性関係をフィクションの中で自ら暴いた自己告発の小説である。

■キリスト教
木下は明治28年、廃娼運動をしていたとき、諏訪で1人の娼妓を知り、その女を救おうとしているうちに、その女と通じてしまう。また彼は妾を囲っていなから、廃娼運動の演説をしていた。ある演説会で、彼は、聴衆から偽善者と罵られたことがあった。
彼は自己の人格的矛盾に悩むことが多く、絶えず自分自身を責め苛んでいた。「良人の自白」は、そういう内的な彼自身の心の露頭の描出であり、それを書いて以後、彼は心の問題から目をそらすことができなくなった。正しき恋愛によらざる結婚と男女関係とは、すべて神の目からすれば罪悪だという考えを彼は棄てることができなかった。

木下は22歳の頃からキリスト教の影響を受け、24歳のとき、北村透谷の「厭世詩家と女性」を読んで「恋愛は人生の秘鑰(ひやく)なり、恋愛ありて後人生あり」という言葉に接し、「まさに大砲をぶちこまれた様な」感銘を受けた。
にもかかわらず彼の蹉跌はその後、社会運動家としての彼の地位が高まるにつれて数を重ねるに至った。
同時にその反省が常にキリスト教に縛りつけていた。

■キリスト教と社会主義思想の葛藤
明治34年4月、社会民主党が結成され、1日にして禁止された少し後、木下と幸徳・片山が横須賀へ演説に行った。
その汽車の中で幸徳が木下に言った。
「木下、君、どうぞ神を捨てて呉れ。君が神を棄ててさえ呉れれば、僕は甘んじて君の靴のひもを解く」
木下は返事をためらった。
そのとき、キリスト教から完全に脱却できないでいた片山潜が、木下を助けるように言った。
「幸徳きん、君が神様に征服されないように用心したまえ」
幸徳は重ねて、
「必ず君に捨てさせる。必ず捨てさせて見せる」
と言った。

木下は時々、自分が本当の社会主義者ではないと思うことがあった。
第1回非戦論演説会の日、片山潜が、働く者、労働経験のある者のみが社会正義を主張し得ると言い、「諸君、手を出せ」と叫んだ。傍で聞いていた木下は、自分の手は白い、遊民の手であると思い、自分は社会主義者ではない、自分は「ただ社会主義を利用したのだ。社会主義の理論を借り、同志を利用したにすぎない」という自責の念に駆られた。

幸徳がアメリカへ去り、「新紀元」が創刊された明治38年暮に神田三崎町の森近運平のミルクホール平民舎2階で同志の者の会があったとき、話題は我々の将来という問題になった。
そのとき木下は、「人格という事に注意せねばならぬと思うがどうだろう」と言った。同志たちはそれに反感を覚えた。人格論は個人主義者の言うことである、人格は貴族富豪の代名詞で、それは労働者にとっては仇敵だ、という言葉が彼に投げつけられた。
散会後、彼は追放されたような気持ちでそこを去った。

■キリスト教社会主義
日露戦争が終りに近づき、平民社の運動が非戦論から別個の領域に移行しようとしたとき、幸徳はカによる革命を考えはじめ、木下は前に戻って良心の問題に直面していた。

明治38年9月、平民社解散が決定したとき、沈黙していた木下が石川三四郎(旭山)に言った。
「旭山、大いにやれよ!」
「やれと言うた所で、何をやるのかね、下宿屋でもやろうか」と石川がふざけて言った。
「いや、そうじゃない。雑誌を発行しないか、クリスチャン・ソシアリズムのを」と木下が言った。
キリスト教をもっと研究したいと考えていた石川は、その言葉に啓示を得て「新紀元」創刊を企てた。キリスト教社会主義という名目に良心を託す人々によって「新紀元」は始められた。
新紀元社は石川を責任者とし、木下と安部磯雄を指導者としていた。新宿駅の西側にある石川三四郎の家で、藁家(わらや)の6畳、3畳、2畳という小さなものであった。そこで毎週1回日曜説教を行い、隔週に聖書研究会を開いた。そして毎月1回、社員と社友の晩餐会を開いた。集まる青年たちは、赤羽巌穴、逸見斧吉、小野有香、横田兵馬等の10名ばかり。木下と石川は彼等の思想に最も近い人として、徳富蘆花と内村鑑三の協力を願い、蘆花は「黒潮」の続編を執筆することになったが、それは中絶され、蘆花は榛名山に籠ってしまった。その縁により蘆花の弟子、前田河広一郎が石川の助手として同居していた。

「新紀元」創刊の明治38年の末頃、木下は、凱旋した兵士たちに参政権を与うべきであるとの趣旨で普選論を掲げた。
しかし彼は、兵士たちが戦場において自己の立場に目覚めるどころか、逆に盲目になり、愚物になって帰り、天皇神聖論と戦勝気分の中に眠り込んでしまうのに気がついた。
■思想と文学とにおける動揺、二葉亭尾四迷との出会い
木下は明治39年に入ると「新紀元」に執筆するかたわら、「毎日新聞」に、「良人の自白」の続篇としての「新曙光(しんしよこう)」を書いた。

そのとき、桂内閣が退いて西園寺内閣が成立し、日本平民党と日本社会党の結社届が受理された。新しい社会へのかすかな希望を漂わせた。木下は社会党に対する期待を「新紀元」第6号で述べたが、自分はその結社に参加しなかった。

「新曙光」は「良人の自白」の続篇であった。
小作人の与三郎と娼妓出身のお玉を中心にした共同農場が、ある地主の土地の提供によって作られ、色々な困難に逢いながら建設が進められて行くのがその筋である。
しかし、このユートピアには本質的に悪の問題がなく、それ故に実在性がなかった。
罪の意識を背景とする実在感に動かされた時のみ、木下の精神は動くのであった。
木下はこの小説に情熱を感ずることができなくなり、掲載は中絶しがちに6月9日まで続いた。このユートピアが戦争の到来でおびやかされるところがその末尾であった。

この作品執筆中の春のある日、長谷川辰之助(二葉亭四迷)が毎日新聞社に木下を訪ねて来た。
木下は生れながらの知己であるような親しみを長谷川に感じた。二葉亭四迷は、横山源之助から木下のことを聞いていたと言い、うしろに立っている外国人を紹介した。ピルスーツキーと言う、ポーランドの革命党員で、シベリアの流刑地から逃れて来たいうことであった。木下は社会主義熟から醒めていた時であったので、外国の革命家に興味を抱かなかったが、長谷川に対しては関心を持っていたので、この機会に長谷川を知ったことを嬉しく思った。

この頃、彼の思想は動揺しており、それと共に改めて「文学」というものに対して、疑問と希望とを感じていた。木下は、文学とは何か、という問題につき当っていた。
この時以来、木下はしばしば長谷川に逢い、文学の話を聞こうとした。
長谷川辰之助はこのとき数え年42歳で、木下より4歳年長。
長谷川は明治37年2月から「朝日新聞」の社員であった。ロシアについての雑文を書き、ゴリキーやガルシンの翻訳をしていたが、まだ「其面影」を書き出していない時であった。
「朝日新聞」は銀座6丁目の滝山町に、「毎日新聞」は5丁目の東角にあったので、木下と長谷川は、いつも銀座の箱館屋という店の2階で逢った。木下は、長谷川から文学についてのその本心を引き出そうとするのだが、文学の話となると長谷川はそれを避けた。長谷川は、話がそこへ行くと、眉の間に皺を寄せて、横向きになり黙してしまった。ある時は、目を天井へ外らして、煙草をふかしながら、「はゝはゝ」と軽く笑うだけであった。2人とも黙りこくったまま、じっと相対し、しばらくそうしていると、長谷川は「また逢おう」と言って出て行くのであった。

木下が受けた印象では、長谷川は一個の「苦悩」というものそれ自体であり、また「魔」というものがあれば、それは長谷川のことのような気がした。長谷川の様子を見ると、木下は、腹違いの兄の傍にでもいるような安らかさと懐かしさとを感じた。

■母の死
この年3月11日、国家社会党の山路愛山が会主となって、日本社会党と共同で電車賃債上反対市民大会が開かれたが、その前夜木下は銀座街頭でその会を知らせるチラシを撒いた。
当日、逮捕されることをも予想して、彼は聖書、手拭、切手などをポケットに入れて日比谷の会に行った。その日は雨で、改めて15日に会を開いたところ、彼の家は家宅捜査を受けた。

この頃、木下は、母の久美子が病重く、床についていたので、絶えずそのことを気にかけていた。自分が入獄、裁判などということになれば、それが母にとってどんな打撃になるかと思うと彼は少しも心が安まらなかった。

電車賃値上反対市民大会の時から2月ほど経った明治39年5月6日、彼の母久美子は数え年68歳で死んだ。小説「新曙光」は6月9日に終った。23日には幸徳がアメリカから帰って来た。幸徳帰国を迎えて木下は、日本社会党へ幸徳とともに加わった。母の死が、それまで木下を拘束していたものから彼を解放した。

しかし、彼の真の関心は社会運動にも、幸徳が披瀝した新しい急進思想にもなかった。彼の心は、外的世界での闘争から離れかかっていた。

6月末、彼は7年あまり在社した「毎日新聞」を辞めた。島田三郎の「毎日新聞」は経営的に行きづまっていたが、木下は奔走して、困難打開の道をつけて、長い間恩顧を受けた島田に報いた。

木下には妻操子との間に子供がなかった。彼には妹伊和子があった。伊和子は菅谷透に嫁して女児を1人産んだが、寡婦となり、平民社にも出入りして、演壇に立ったこともあった。父は尚江が19歳の時に死んでいたので、母を失ったこの兄妹は孤独感を強く感じ、親しく行き来していた。


出典『日本文壇史』第10巻(伊藤整)






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