2020年2月9日日曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月4日(その7)「〔4日、三ノ輪で〕午前の10時頃であったろう、盛んに飛行機が飛ぶ下に群馬県だ栃木県だと胸章をつけた巡査に引率せられた消防隊、青年団が蟻の這うようにやってくる間に立って「ソレ朝鮮人だ、朝鮮人だ」とわめくものがあったと思う間もなく、パラパラと駆け寄る人の群に囲まれ、にくむべき鮮人1名が捕えられたるとともに、街道にあった何の箱だか大きな箱をかぶせて、その隙間から槍で突き殺すのを目撃した。全く白昼のこととしては嘘のような事実である。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月4日(その6)「4日には何万人も死んだという被服廠跡にも行ってみた。中に入ると、死体の山に足がすくんだ。.....そのわずかの空き地で血だらけの朝鮮の人を4人、10人ぐらいの人が針金で縛って連れてきて引き倒しました。で、焼けポックイで押さえて、一升瓶の石油、僕は水と思ったけれど、ぶっかけたと思うと火をつけて、そしたら本当にもう苦しがって。のたうつのを焼けボックイで押さえつけ、口ぐちに「こいつらがこんなに俺たちの兄弟や親子を殺したのだ」と、目が血走っているのです。」
より続く

大正12年(1923)9月4日
〈1100の証言;台東区/入谷・下谷・根岸・鶯谷・三ノ輪・金杉〉
『いはらき新聞』(1923年9月6日)
「街上でも車中でも 鮮人殺せの叫」
〔4日、三ノ輪で〕午前の10時頃であったろう、盛んに飛行機が飛ぶ下に群馬県だ栃木県だと胸章をつけた巡査に引率せられた消防隊、青年団が蟻の這うようにやってくる間に立って「ソレ朝鮮人だ、朝鮮人だ」とわめくものがあったと思う間もなく、パラパラと駆け寄る人の群に囲まれ、にくむべき鮮人1名が捕えられたるとともに、街道にあった何の箱だか大きな箱をかぶせて、その隙間から槍で突き殺すのを目撃した。全く白昼のこととしては嘘のような事実である。

〈1100の証言;台東区/上野周辺〉
伊藤重義〔当時府立第三中学校生徒〕
確か9月4日頃と記憶しているが、私は父と一緒に我が家の焼跡を見に行った。水筒と握り飯を持って徒歩で出かけた。本郷3丁目まで来て始めて焼跡を見た。上野広小路の松坂屋は全く何も残っていなかった。
御徒町を右へ曲って少し歩いた頃、道端に人だかりがしていたので覗いたら、朝鮮服を着た数人の死体が折重なっていた。人々の話では不逞鮮人らしく、虐殺されたとの事だった。私はとてもまともに見られなかった。恐ろしい事だと思った。
(『関東大震災記 - 東京府立第三中学校第24回卒業生の思い出』府立三中「虹会」、1993年)

渋木直一
〔4日、上野御成街道で〕直次の家は二長町にあって2日に燃えた。箪笥や行李を少し持出して、母や兄の住み慣れたあたりまで逃げて来たのである。近所の人達数軒とお互いに助け合って逃げて来て、ここに一つの村を作っていた。藤田とかいうおかみさんが、茶を汲んでくれた。
「松平子爵の焼跡に不逞人がいた。井戸に毒を投げようとしたのを見て、近所の人達が吟味をしたら、猫いらずと、南京花火を持っていたので、追い回したら天神の方に逃げたとのことだ。そのため昨夜は、夜番させられて、閉口した」と直次は語った。
(渋木三思『軌道に伏して - 震災日記』私家版、1924年)

渡辺留三郎
〔4日、上野〕寛永寺の井戸に水をくみに行った。だが井戸のかたわらに行くと、憲兵が立って人々を追い払っている。剣を突きつけて「戻れーっ、戻らんと突き殺すぞ」とすごいけんまく。「朝鮮人が毒を入れたから、この水飲んだら死ぬぞ」ということである。たいへんなことになったと思った。上野の山に戻ると、朝鮮人が数人、棒切れを持った人々に追い立てられ、逃げまどっていた。
(「ギラリと光る抜刀」『潮』1971年6月号、潮出版社)

〈1100の証言;中央区〉
北林谷榮〔俳優。当時12歳。銀座在住〕
〔火事に追われて浜離宮に行った。門は閉鎖されていた。一人の巡査がよじのぼって開けたので、中に入り助かった。でも何日か後に、その巡査は処罰されたという噂を聞き、子どもながらに、ひどいと思った〕あのときは大日本在郷軍人会というものがあって、在郷軍人が自警団を組織して、竹槍を持ってテントを張って、「どこへ行くんだ!」といって、誰何してちょっと発音がおかしいと、「貴様、朝鮮人だろう」と猛り狂っていたんです。いつもうちに御用聞きにくる炭屋なんかがそのときだけは鉢巻して在郷軍人の服を着て居丈高になっていました。町内にテントを張って、このときとばかりに肩で風切っていたんです。
それを見ていると、その野蛮さがにくたらしくて、むかついて。浜離宮の巡査の件も、自警団の件も。
それから何日かたってから、これも朝鮮人だかどうかわからないんですが、竹槍で刺されて仰向けに死んでいる、裸の上に印半纏をひっかけた死骸を見たんです。とにかく裸で黒い印半纏の人が竹槍で突き刺されて仰向けに死んでいて、太陽がさんさんとあたって、9月1日から4、5日後ですから、蝿がたかって、その死体が水脹れみたいに脹らんでたの。殺されるところを見たんじゃないけど、殺されたのが放置されているのを見ました。そこを通る人はみんな「あれは朝鮮人だ」と言っているのを見ました。
(北林谷榮『九十三齢春秋』岩波書店、2004年)

〈1100の証言;豊島区〉
『国民新聞』(1923年10月21日)
9月4日午前1時頃府下巣鴨宮下1522居住鮮入学生閔麟植(25)の屋外の騒々しさに格子戸から首を出した所を待ち構えていた府下巣鴨町1570小松原鋼二(21)のために二連発銃で銃殺された。犯人は直に取押えられ収監さる。

つづく




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