2022年10月20日木曜日

〈藤原定家の時代154〉寿永2(1183)年10月1日~14日 頼朝の三箇条奏上 頼朝を本位に復する(従五位下・右兵衛佐に還任) 瀬尾(兼康)最期 寿永2年10月宣旨(頼朝の東海・東山両道諸国の国衙在庁指揮権の獲得)       

 



寿永2(1183)年

10月1日

・頼朝の使者が京都に入り、後白河院に三箇条の奏上を行う(「玉葉」10月4日条)。武士に押領された寺社領を元に戻すこと、公領荘園を本主に戻すこと、平氏の家人が帰順を求める場合には厳罰に処さないことの三箇条である。第一条と第二条は朝廷に対して土地の領有関係を元に戻すことを提案したもの、第三条は平氏の支持勢力を切り崩すために帰順の容認を求めた提案である。頼朝は、義仲を亡ぼした後の平氏との合戦を思い描いていた。

10月1日

・足利義清、祖父義国・曾祖母藤原基(有)綱女・祖母源有房女を供養する為、大般若経を奉納。

10月9日

・頼朝、入京を促されるも、奥州藤原秀衡や佐竹氏が気になって動けず。

この日、前兵衛佐源頼朝を本位に復する(平治の乱以前の位階に戻す。従五位下・右兵衛佐に還任)(「百錬抄」)。反逆者の汚名からの解放。

後白河は、先の頼朝の回答には平家が押領した分だけで、頼朝方が押領している荘園と国衙支配の回復には触れられていないので、それが不満で返答(頼朝の復位)を遅らせた。

この日、院近臣の静憲法印が来て兼実と世間話。頼朝はすぐには軍隊を上洛させないだろう、一つには、奥州の藤原秀衡らが、自分が上洛した後に入れ替るかもしれないこと、二つには、数万の勢を率いて入洛したら、京中は(義仲の場合のように)とてもたえられないであろう、この二つの理由で上洛を延引している、という頼朝の考えが語られ、「凡そ頼朝の体(てい)たらく、威勢厳粛、その性強烈、成敗分明、理非断決」という静憲の賛辞を記している。おそら兼実も同意見であったろう。

「頼朝使者を進す。忽ち上洛すべからずと。一ハ秀平・隆義等、上洛の跡に入れ替わるべし。二ハ数万騎の勢を率い入洛せば、京中堪うべからず。この二故に依って、上洛延引すと。凡そ頼朝の体たらく、威勢厳粛・其性強烈・成敗分明・理非断決と。今度使者を献じ欝し申す所は、三郎先生義廣(本名義範)の上洛なり。また義仲等平氏を遂げず、朝家を乱すこと尤も奇怪なり。而るに忽ち賞を行わるの條太だ謂われ無しと。申状等その理有るか。・・・今日小除目有りと。頼朝本位に復すの由仰せ下さると。」(「玉葉」同日条)。

10月12日

・義仲の軍勢、播磨・備前両国を進んで、この日、備中の妹尾兼康を滅ぼす。

瀬尾兼康は、北陸道の合戦で義仲方の倉光成澄に捕らえられ、道案内役で備中に下った時、離反して挙兵した。義仲に攻め立てられ、緑山(総社市)に籠って子の兼通と自害した(延慶本『平家物語』)

「伝へ聞く、義仲随兵の中、少々備前国を超ゆ、しかるにかの国ならびに備中の国人等勢を起す。みな悉く伐ち取り了んぬ。即ち備前国を焼き払ひ帰去し了んぬ」(「玉葉」10月17日条)

『平家物語』では、瀬尾のもとに集まった兵は、馬・武具・従者などを平家に差し出し故郷に隠退していた老人たちで、柿渋を引いた麻の直垂に衣服の裾をからげてはしょり、粗末・簡単な武具を応急修理して着け、山狩りに用いる靫(うつほ、矢を入れる容器)や竹製の粗末な箙(えびら、同)に矢を少々さしていたとある。当時の徴兵された民衆兵の姿を彷彿とさせる記述である(巻八「瀬尾最期」)。

妹尾兼康;

父祖が正盛・忠盛が西国国主に補任されたことを契機に主従関係を結んだとされる。備前の難波経遠と並び称される先祖相伝の家人であるが、「片田舎の者」で「忠清・景家体(てい)の者」(上総介忠清・飛騨守景家兄弟)とは重みが違っていた。兼康は備中国都宇郡妹尾郷(岡山市南区妹尾付近)を本拠とする武士で、備中湛井川用水の開削・整備での活動ぶりが伝承されている。

10月13日

・後白河院が頼朝のもとに派遣した密使中原康貞が帰京。

10月14日

・後白河法王、頼朝に東国沙汰権を許可する 「寿永2年10月宣旨」を出す。中原親能が発給に関る。

骨子は、

①「東海・東山諸国の年貢、神社・仏寺ならびに王臣家領の荘園、もとの如く領家に随うべき」

②「不服の輩有らば、頼朝に触れて沙汰致すべし

東海・東山道19ヶ国について国司権限を越える公権(統治権)を王朝から授権。謀反の政権として出発した東国の「王権」(鎌倉の武権)が、王朝によって公式に承認される(国家内部に正規の地位を与えられる)。

この時に頼朝が実効支配していた地域は、伊豆、相模、武蔵、安房、上総、下総、下野、常陸であったが、この宣旨によって頼朝は、若狭、近江、伊賀、伊勢まで軍勢を自由に動かし、国衙に対して必要な物資の提供や、軍勢を編成して指揮下に入るよう命令できるようになった。

このとき頼朝は北陸道にも同様権限を要求、王朝側は一旦これを認めるが、義仲を憚って北陸道には宣旨を下さず。しかし、義仲の本拠信濃は東山道の一国として頼朝の統治下に入ったことになり、この宣旨に対する義仲の怒りは大きい。また、この宣旨を伝える「鎌倉殿御使」(義経)が各地に派遣される。しかも、やがて頼朝の派遣した軍勢は早くも東海・東山両道西端の伊勢・近江に姿を現す。

「東海・東山諸国の年貢、神社・仏寺ならびに王臣家領の荘園、もとの如く領家に随うべきの由、宣旨を下さる。頼朝申し行ふに依るなり。」(「百練抄」10月14日)。

「東海・東山・北陸三道之庄園国領、本の如く了知すべきの由、宣下せらるべきの旨、頼朝申し請ふ。仍って宣旨を下さるるの処、北陸道許りは義仲を恐るるに依り、其の宣旨を成されず。」「又聞く、頼朝の使、伊勢国に来ると雖も、謀叛の儀に非ず。先日の宣旨に云く、東海。東山道等の庄土、不服の輩有らば、頼朝に触れて沙汰致すべしと云々。仍って其の宣旨を施行せんが為、且は国中に仰せ知らしめんが為、使者を遣す所也と云々」(「玉葉」閏10月22日条)。

頼朝の東海・東山両道諸国の国衙在庁指揮権の獲得は、一方で王朝と関東の国家並立の状態に終止符がうたれたことを意味する。治承年号使用は停止され、東国独立国家は可能性に終り、頼朝の軍事政権は形式的には後白河王朝の隷属化に入ることになった。

これによって頼朝の周辺で深刻な路線対立が生み出され、東国自立路線を主張する上総介広常は、この年末、嫡子能常(よしつね)ともども謀殺されることになる。


つづく


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