2022年10月28日金曜日

〈藤原定家の時代162〉寿永3/元暦元(1184)年1月5日~13日 平家・義仲和議成立の噂 義仲が後白河を奉じて北陸へ下向するとの噂 数でまさる平氏の軍勢   

 



寿永3/元暦元(1184)年

この年

・この年、藤原定家の最初の子定継(後の光家)、誕生。母は藤原季能の女。

・京中に群盗横行。

1月

・この頃、源(久我)通親、高倉範兼娘・高倉範季養女・後鳥羽天皇乳母の範子を側室とする(続いて前摂政松殿師家の姉で木曾義仲の側室であった藤原伊子を側室に迎える)。範子は法勝寺能円法印の妻だが、能円が平氏と共に西下したので、後鳥羽天皇養育を理由に離縁、通親と結婚。天皇の乳母と結婚した通親は乳父という権威を得て、天皇の後見にあたる。一方で、法皇近臣の立場を確立し新元号「元暦」選定などで、平家や義仲によって失墜させられた後白河院政の再建を担う。
通親は範子の連れ子の姉を後鳥羽天皇の宮中に入れ(承明門院、土御門天皇の母)、妹(按察局信子)を次男の通具の妻とする。通親との再婚後、範子は通光・定通・通方などを生む。

・絵師藤原為久、鎌倉へ赴き、4月、勝長寿院に聖観音像を描き、8月、帰京。
・平家、福原に本拠構築。
大手口(東):生田森(平知盛、平重衡)。搦手口(西):一ノ谷(平忠度)。山手口(北):夢野(平通盛、平教経、業盛)。長田奥古明泉寺、平盛俊。計6~7千余。

1月5日
・兼実、源雅頼からの情報として、範頼率いる上洛軍が墨俣川を渡ったことを聞く(「玉葉」)。義仲は警備の軍勢を墨俣川に派遣しているので、いよいよ義仲と頼朝の両軍が接敵した(「吾妻鏡」)。
1月8日
・義仲、坂東武士が美濃・伊勢に到着との報をうけ兵を派遣。

1月9日
・平家と源義仲和議成立の噂(「玉葉」)。

「伝聞、義仲と平氏と和平の事すでに一定す。この事去る年秋の比より連々謳歌す。様々の異説有り。忽ち以て一定しをはんぬ。去年月迫の比、義仲一尺の鏡面を鋳て、八幡(或る説熊野)の御正体を顕し奉る。裏に起請文(仮名と)を鋳付けこれを遣わす。茲に因って和親すと。」(「玉葉」同日条)。
1月12日
・義仲が後白河院(58)を奉じて北陸へ下向するとの伝聞(「玉葉」)。
「伝聞、平氏この両三日以前使を義仲の許に送りて云く、再三の起請に依って、和平の儀を存ずるの処、猶法皇を具し奉り、北陸に向かうべきの由これを聞く。すでに謀叛の儀たり。然れば同意の儀用意すべしと。仍って十一日の下向忽ち停止す。今夕明旦の間、第一の郎従(字楯と)を遣わすべし。即ち院中守護の兵士等を召し返しをはんぬと。」(「玉葉」同日条)。

「今日払暁より未の刻に至り、義仲東国に下向の事、有無の間変々七八度、遂に以て下向せず。これ近江に遣わす所の郎従飛脚を以て申して云く、九郎の勢僅かに千余騎と。敢えて義仲の勢に敵対すべからず。仍って忽ち御下向有るべからずと。これに因って下向延引すと。」(「玉葉」同13日条)。

「或る人云く、関東飢饉の間、上洛の勢幾ばくならずと。実否知り難きか。申の刻、人伝えて云く、明後日義仲法皇を具し奉り、近江の国に向かうべしと。事すでに一定なりと。」(「玉葉」同14日条)。

1月13日
・平氏から義仲へ、軍勢を上洛させるには三つの課題があると提示。
①義仲が後白河院を伴って北陸に移動するという噂は本当か、②丹波国で平氏の軍勢と義仲の郎党との間で小競り合いがあったので軍勢の移動の安全を図るよう徹底すること、③行家が渡辺(大阪市)で一矢を射るべく用意をしているとの風間があるので対処してほしい。

義仲は、①については、噂はあるが、そのようなことは考えていないと伝える。②は、平氏との境界線にいる家人が状況を把握していなかっただけなので、連絡すれば済む。③に対し、義仲は正月17日に樋口兼光に行家の籠る石川城(大阪府河南町)を攻めることを命じ、500騎の軍勢を派遣。この軍勢は石川城を攻め落とすが、義仲最期の日に合戦の圏外にいることになる。行家の挙兵は、義仲の軍勢を分散させたことで、後白河院に対して貢献したことになる。

義仲が本気であることを確認した平氏は、安徳天皇の御座所を屋島から福原旧都に移すべく行動した。ところが、頼朝のもとに参陣したいと考えている阿波・讃岐の在庁宮人などが淡路を拠点に、頼朝の叔父義嗣・義久を大将として反平氏の兵を挙げた(『平家物語』)。

平氏は備前国下津井(倉敷市)にいた敦盛・通盛・教経など門脇家の軍勢を派遣してこれを鎮圧。これに続いて、西国各所で反乱が続き、平氏はその都度軍勢を派遣して転戦した。『平家物語』が教経の武勇を記す「六箇度合戦」の一段である。

平氏が一ノ谷に軍勢を集めたことでおこった西国の反乱を鎮圧している間に、義仲は頼朝の上洛軍に攻め滅ぼされてしまった。
〈この頃の平氏の状況;数でまさる平氏の軍勢〉

平氏が勢力圏として確保しているのは、山陽道の播磨・美作・備前・備中・備後・長門・周防の七ヵ国、山陰道の伯耆・出雲・石見、南海道の阿波・讃岐・土佐、九州の豊前・肥前・肥後といった国々。対馬国は国守中原親光が頼朝の重臣大江広元・中原親能の縁者であることから、平氏襲来の噂だけで高麗に亡命したが、平氏は軍勢を進めなかった。南九州も、豪族間対立による国衙襲撃事件(阿多忠景の乱)などはあったが、平氏は軍勢を派遣しなかった。平氏は瀬戸内海を囲む地域を中心に勢力圏を築いていた。

一方、追討使は、義仲追討のために上洛した範頼・義経が鎌倉から率いてきた軍勢、朝廷に仕えているので京都を支配する者に従う人々の率いる軍勢、追討使の権限で畿内諸国の国衙を通じて集めた軍勢である。これらを合わせても、平氏の軍勢には及ばなかった。兼実は「関東飢饉の間、上洛の勢幾ばくならず」(「玉葉」)と記している。頼朝の命令なので、有力御家人は上洛したが、連れてきた郎党が少ないということである。


つづく

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