2022年10月23日日曜日

〈藤原定家の時代157〉寿永2(1183)年11月2日~12日 頼朝に代って義経が上洛 行家、平家追討のため播磨へ出発 後白河、南都北嶺の権門寺院に対し義仲調伏の祈祷を指示       

 



寿永2(1183)年

11月2日

・頼朝の上洛には兵糧など問題あり、弟の「九郎御曹司」が代官として上洛するという情報が伝わる(「玉葉」)。

4日の参議藤原経房の日記「吉記」には、「舎弟字九郎冠者、その名は義経」と明記されている。

義経、先遣隊となる。その頃、頼朝は有力御家人の上総介広常を「謀反心ノ者」(「愚管抄」)として誅殺するなど、御家人に不信感があり、頼朝の存在を都に知らせるためには弟を派遣するのが重要と考える。但し、都の事情通である斎院次官藤原親能らに義経を補佐させ監視する。

「粮料蒭等叶うべからざるに依って、忽ち上洛を停止し、本城に帰り入りをはんぬ。その替わり九郎御曹司(誰人や、尋ね聞くべし)を出立し、すでに上洛せしむと。」(「玉葉」同日条)。

「伝聞、頼朝の上洛決定延引しをはんぬ。その弟九郎冠者、五千騎の勢を副え上洛せしむべしと。」(「玉葉」3日条)。

11月4日

・義経、美濃不破関に到着という(「玉葉」)。10日、近江にあり。18日、伊勢神郡に到着という。

「伝聞、頼朝使供物に於いては江州に着きをはんぬ。九郎猶近江に在ると。澄憲法印を以て、御使として義仲の許に遣わす。頼朝使の入京、欝存すべからずの由と。悦ばずの色有りと雖も、なまじいに領状するか。勢無きに於いては強ち相防ぐべからざるの由、申せしむと。」(「玉葉」同10日条)。

11月8日

・源行家、平家追討のため僅か270騎を率い播磨へ出発。この出陣により、行家はその後、後白河院と義仲の衝突の圏外に出ることができた。これに先立ち、河内源氏の石川義兼は兼実のもとに赴き、行家の出陣に加わるので所領(大阪府河内長野市)に戻ると伝えている(「玉葉」)。

「今日、備前の守源行家、平氏を追討せんが為進発す。見物の者語りて云く、その勢二百七十余騎と。太だ少たり如何。今日義仲すでに打ち立つ。只今乱に逢う事の如し。院中已下京都の諸人、毎家鼓騒す。抑も神鏡劔璽、無事迎え取り奉るの條、朝家第一の大事なり。仍って余竊にこの趣を以て行家に含めをはんぬ。」(「玉葉」同日条)。

11月9日

・重衡を大将軍とする300騎の平家軍が備前国に押し寄せ、備前国在庁検非違使所別当の惟資を大将とする国衙軍1千騎と戦い、昼の合戦では惟資を負傷させる勝利を収めたが、同夜に惟資の夜襲を受けて反撃されたと行家の使者が京に報告している(「吉記」)。

また11月28日には、安芸国志万庄(しまのしょう)の使者が、重衡の軍勢の先陣が室泊(むろのとまり、兵庫県たつの市御津町の室津港)に到着したと伝えてきた。室は瀬戸内でも有数の良港として知られた交通の要衝。

「前の兵衛の尉国尚、備前の守行家の随兵として西国に下向す。途中より書状を送りて云く、去る九日、三位中将重衡大将軍として、三百余騎の勢を以て、備前の国東川に寄せしむの間、当国検非違使所別当惟資・国武者相共に合戦す。惟資手を負う。武蔵の国住人□四郎介並びに子息打ち取られをはんぬ。仍って惟資国府を引き山に入りをはんぬの後、惟資西川より千騎ばかりの勢を以て、申の刻ばかりに寄せしむの間、平氏の兵勝ちをはんぬ。少々物具を脱ぎ棄つと。件の日暮れをはんぬ。明暁すでに寄せしむの由、国人申せしむと雖も、検非違使所別当即時に寄せしむの間、酉の時ばかりに押し寄せ合戦す。平氏方五十四人討ち取られ、源氏方国人雑人二十人ばかり打たれをはんぬてえり。」(「吉記」同28日条)。

11月10日

・後白河院は南都北嶺の権門寺院に対し、義仲調伏の御敵降伏の祈祷を行うよう指示。

この日、醍醐三宝院の勝賢僧正(信西入道の子)が担当となった大威徳転法輪調伏法(だいいとくてんぽうりんちようぷくほう)に供僧として参列した覚禅の記録が、真言密教の図像集『覚禅抄』に残っている。この調伏法は、南都北嶺の権門寺院の高僧を一斉に招き、護国の修法として行われた。このことを聞いた義仲は、後白河院を攻める決断をした。

また、義仲の動きは後白河院の側にも伝わり、双方が軍勢を集め始めた。

後白河院側は、伊勢国まで進出していた源頼朝の先遣隊が京都に入ることを期待するが、総大将源義経は中原親能と打ち合わせ、伊勢の国内に残る平氏家人の追討を擾先させた。

『平家物語』に描かれる、義仲が後白河院の使者を愚弄するエピソード

①後白河院の使者藤原光隆にわざと信濃国の田舎料理で饗応して怒らせ、交渉の本題に人らせなかった「猫間」と、②院近習中原(平)知康を愚弄した「鼓判官」。

「猫間」

後白河院の使者猫間中納言(藤原光隆)をもてなす饗応の準備にあたり、何を用意するか尋ねた根井戸行親に対し、義仲は信濃の料理でよいと回答した。義仲は山盛りの飯や平茸(ひらたけ)の汁をおいしそうに食したが、藤原光隆は義仲が用意した膳に閉口して箸をつけることもできなかった。結局、光隆は用件も言わずに帰っている。義仲は相談に入ることを拒否するため、光隆が箸をつけられないような田舎料理を出した。宮廷の儀礼では、饗応の膳は一箸つけるだけで、残すのが作法であるが、義仲は、光隆に対し、膳を平らげなければ話に応じないとせまった。用件が何かわかっていたうえで、聞く意思のないことを態度で示した。

「鼓判官」

義仲が後白河院の近習中原知康を愚弄する物語である。法住寺合戦の直前、後白河院は中原知康を義仲のもとに派過し、勢力を回復してきた平氏を追討すること、洛中の狼籍を鎮めることを命じようとした。この対面で、義仲は知康が鼓判官と呼ばれていることを話題にし、「万(よろず)の人に打たれているのか、張られているのか」と愚弄した。知康はこの一言に怒り、後白河院に対して義仲とは交渉の余地なしと報告した。

11月12日

・平資盛(26)が後白河院近臣知康の許に使を送ったとの風聞(「玉葉」)。

人びとは神器をともなっての帰降かと思ったらしいが、たんに居心地のよい後白河の懐へ復帰の哀願だった。ところが同じころ、『右京大夫集』では資盛は愛人の右京大夫に、「前に申しておいたように、今は死んだも同然と思っているのだから、誰もそう思って私の後世を弔ってください」と書き送っている(217番歌詞章。彼女への手紙は「都出でての冬、僅かなる便りに付けて(寿永二年の冬、ちょっとした使いに託して)」とあるから、この月の院側近への使いに託したのだろう。後世を弔えというしおらしさと院への哀訴のコントラストは、この人物の不実と再起への藁をもつかむ思いを示しているだろう。

「伝聞、資盛朝臣使を大夫の尉知康の許に送る。君に別れ奉り悲歎限り無し。今一度華洛に帰り、再び龍顔を拝さんと欲すと。人々疑う所、若しくは神鏡劔璽を具し奉るかと。」(「玉葉」同日条)。


つづく


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