2022年10月31日月曜日

〈藤原定家の時代165〉寿永3/元暦元(1184)年1月20日(③) 乳母子の今井兼平と主従二人だけになってしまったあと最期を迎える義仲(『平家物語』巻第9「木曾最期」)   

 

国芳〈粟津ヶ原大合戦義仲ノ四天王今井四郎兼平力戦して寿永三年正月三十三才にて英名をとどむる〉


寿永3/元暦元(1184)年
1月20日(③)

『平家物語』の記述(史実ではない)

巴と別れた義仲が粟津にたどり着いた時、軍勢は5騎。読み本系『平家物語』は、義仲、今井兼平、手塚別当、手塚太郎、多胡家兼(家包とも)と記している。彼らは、逃げているのではなく、範頼本隊の中に突っ込んでいるため、進めば進むほど戦いは厳しくなる。その後、手塚太郎は離れて見えなくなり、手塚別当は討死にした。多胡家兼は、敵方に知る人も多く、殺さないように生け捕られる。最後に残った今井兼平は、義仲自害の時間を稼ぐため、音声も高く名乗りを上げ、弓戦で足止めをした。義仲(31)は、兼平を気にしながら後ろを振り返ったところを、兜の内側に矢を射こまれ落馬し、相州三浦の住人石田次郎為久に討取られる。義仲の最期を見届けた兼平(33)は、太刀を口にくわえたまま自ら落馬し、自害。

〈乳母子(めのとこ)の今井兼平と主従二人だけになってしまったあと最期を迎える義仲(『平家物語』)〉

「今井の四郎、木曾殿、主従二騎になッて宣(のため)ひけるは、「日来(ひごろ)はなにともおぼえぬ鎧(よろひ)が、今日(けふ)は重うなッたるぞや」。今井四郎(いまゐのしろう)申しけるは、「御身(おんみ)もいまだつかれさせ給はず。御馬もよわり候はず。なにによッてか、一両の御着背長(おんきせなが)を重うほおほしめし候べき。それは御方(みかた)に御勢(おんせい)が候はねば、臆病(おくびやう)でこそ、さはおぼしめし候へ。兼平一人(かねひらいちにん)候とも、余(よ)の武者千騎(むしやせんき)とおぼしめせ。矢七つ八つ候へば、しばらくふせぎ矢仕(つかまつ)らん。あれに見え候、粟津(あはづ)の松原(まつばら)と申す、あの松の中で御自害候へ」とて、うッてゆく程に、又あら手(て)の武者、五十騎ばかり出できたり。」(巻第9「木曾最期」)

「「君はあの松原へいらせ給へ。兼平は此(こ)の敵(かたき)ふせぎ候はん」と申しければ、木曾殿宣ひけるは、「義仲都にていかにもなるべかりつるが、これまでのがれくるは、汝(なんじ)と一所(いつしよ)で死なんと思ふ為なり。所々(ところどころ)でうたれんよりも、一所(ひとところ)でこそ打死(うちじに)をもせめ」とて、馬の鼻をならべてかけむとし給へば、今井四郎馬よりとびおり、主の馬の口にとりついて申しけるは、「弓矢とりは、年来日来(としごろひごろ)いかなる高名候へども、最後の時不覚(ふかく)しつれば、ながき疵(きず)にて候なり。御身は、つかれさせ給ひて候。つづく勢(せい)は候はず。敵(かたき)におしへだてられ、いふかひなき人の郎等(らうどう)に、くみおとされさせ給ひて、うたれさせ給ひなば、「さばかり日本国(につほんごく)にきこえさせ給ひつる木曾殿をば、それがしが郎等のうち奉(たてま)ッたる」なンど申さん事こそ口惜しう候へ。ただあの松原へいらせ給へ」と申しければ、木曾、「さらば」とて、粟津の松原へぞかけ給ふ。」(巻第9「木曾最期」)

今井はすぐ前で、「あなたは、まだお疲れになってはおりませぬ」、「味方がいなくなったので、臆病になって、そう思し召すのでしょう」と言って、義仲を諭し力付けたが、ここでは、「あなたはもうお疲れになっております」と言う。絶望的な状況になったことを覚悟した今井の、義仲に対する配慮、武将として朝日の将軍の名に恥じない最期を遂げさせたいとする心づかいが表現されている。
「木曾殿は只(ただ)一騎、粟津(あはづ)の松原へかけ給ふが、正月廿一日、入相(いりあひ)ばかりの事なるに、うす氷ははツたりけり、ふか田ありとも知らずして、馬をざツとうち入れたれば、馬の頭(かしら)も見えざりけり。あふれどもあふれども、うてどもうてどもはたらかず。今井がゆくゑのおぼつかなさに、ふりあふぎ給へる内甲(うちかぶと)を、三浦石田(みうらのいしだ)の次郎為久(じろうためひさ)おッかかッて、よツぴいてひやうふつと射る。いた手(で)なれば、まツかうを馬の頭(かしら)にあてて、うつぶし給へる処に、石田が郎等二人(ににん)落ちあうて、つひに木曾殿の頸(くび)をばとツてンげり。太刀のさきにつらぬき、たかくさしあげ、大音声をあげて、「此の日ごろ日本国(につぽんごく)に聞えさせ給ひつる木曾殿をば、三浦の石田の次郎為久がうち奉ッたるぞや」となのりければ、今井四郎いくさしけるが、これを聞き、「今は誰(たれ)をかばはむとてか、いくさをもすべき。これを見給へ、東国の殿原(とのばら)、日本一(につぽんいち)の剛(かう)の者の自害する手本(てほん)」とて、太刀のさきを口にふくみ、馬よりさかさまにとび落ち、つらぬかッてぞうせにける。さてこそ粟津(あわづ)のいくさはなかりけれ。」(巻第9「木曾最期」)
その後、巴御前は、頼朝に捕われる、和田義盛に妻として貰いうけられ、義盛滅亡時、越中石黒で出家という。

兵500余で河内に出陣し行家を討つため長野城攻撃の樋口次郎兼光も、縁故のある武蔵源氏児玉党に降伏。児玉党は、自分たちの勲功と引き替えに兼光助命を義経に願い出、義経もまた院の御所に奏上し、一旦は認められるが、側近の公卿・殿上人・局の女房たちが反対し死罪となる。
義仲旗下の海野・望月・藤沢・祢津・泉・臼井など、頼朝旗下に入る。
鎌倉に人質の義仲嫡男義高は、大姫や木曾から来た海野幸氏により鎌倉を逃れるが、武蔵入間河原で堀親家の郎党に討たれる。
「蒲の冠者範頼・源九郎義経等、武衛の御使として、数万騎を卒い入洛す。これ義仲を追討せんが為なり。今日、範頼勢多より参洛す。義経宇治路より入る。木曽、三郎先生義廣・今井の四郎兼平已下軍士等を以て、彼の両道に於いて防戦すと雖も、皆以て敗北す。蒲の冠者・源九郎、河越の太郎重頼・同小太郎重房・佐々木の四郎高綱・畠山の次郎重忠・渋谷庄司重国・梶原源太景季等を相具す。六條殿に馳参し、仙洞を警衛し奉る。この間、一条の次郎忠頼已下の勇士、諸方に競走す。遂に近江の国粟津の辺に於いて、相模の国住人石田の次郎をして義仲を誅戮せしむ。その外錦織の判官等は逐電すと。」(「吾妻鏡」同日条)。
「仍って人を遣わし見せしむるの処、事すでに実なり。義仲方軍兵、昨日より宇治に在り。大将軍美乃の守義廣と。而るに件の手敵軍の為打ち敗られをはんぬ。東西南北に散りをはんぬ。即ち東軍等追い来たり、大和大路より入京す(九條川原辺に於いては、一切狼藉無し。最も冥加なり)。踵を廻さず六條末に到りをはんぬ。義仲勢元幾ばくならず。而るに勢多・田原の二手に分かつ。その上行家を討たんが為また勢を分かつ。独身在京するの間この殃に遭う。先ず院中に参り御幸有るべきの由、すでに御輿を寄せんと欲するの間、敵軍すでに襲来す。仍って義仲院を棄て奉り、周章対戦するの間、相従う所の軍僅かに三四十騎。敵対に及ばざるに依って、一矢も射ず落ちをはんぬ。長坂方に懸けんと欲す。更に帰り勢多手に加わらんが為、東に赴くの間、阿波津野の辺に於いて打ち取られをはんぬと。東軍の一番手、九郎の軍兵加千波羅平三と。その後、多く以て院の御所の辺に群参すと。法皇及び祇候の輩、虎口を免がれ、実に三宝の冥助なり。凡そ日来、義仲が支度京中を焼き払い北陸道に落つべし。而るにまた一家も焼かず、一人も損せず、独身梟首せられをはんぬ。天の逆賊を罰す。宜しきかな。義仲天下を執るの後、六十日を経る。(藤原)信頼の前蹤(ぜんしよう、平治の乱のときのこと)に比べ、猶その晩(おそ)きことを思う。」(「玉葉」同日条)。


つづく


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