2022年10月24日月曜日

〈藤原定家の時代158〉寿永2(1183)年11月17日~21日 後白河、法住寺殿に兵を集める 法住寺合戦(義仲クーデタ) 義仲は合戦には勝利するが、京都で政治的に孤立     

 



寿永2(1183)年

11月17日

・後白河、鼓判官平知康を使者に義仲に京退去を命じ(挑発)、兵を法住寺殿に集める。

法住寺殿には荷車を使ってバリケードが築かれ、逆茂木を引き堰を掘るなど、義仲を挑発(「吉記」18日条)

「院中の武士、多田蔵人太夫行綱己以下、済々なり。義仲に相従うの輩、大略参入するか。」(「藤原経房日記」)。

「平旦人告げて云く、院中武士群集す。京中騒動すと。何事を知らず。また人云く、義仲院の御所を襲うべきの由院中に風聞す。また院より義仲を討たるべきの由、彼の家に伝聞す。両方偽詐を以て告言の者有るか。此の如き浮説に依って彼是鼓動す。」(「玉葉」同日条)。

「世上物騒、逐日倍増す。然る間浮言多く出来す。御所の警固法に過ぐ。義仲また命に伏すの意無きに似たり。事すでに大事に及ぶ。」(「玉葉」同18日条)。

11月18日

・後白河院のもとに引き取られていた北陸宮が、法住寺殿から姿を消した。北陸宮は嵯峨に隠棲して野依宮(のよりのみや)とも呼ばれるようになったと、『平家物語』は伝える。藤原定家は、園城寺を本山とする天台宗寺門派の桜井僧正法円が北陸宮(還俗宮)であるとの風説を伝える。義仲と後白河院の権力抗争の板挟みとなることを嫌った側近が御所の外へ導いた。

11月19日

・法住寺合戦(義仲クーデタ)

後白河院の法住寺御所に集まった軍勢は、後白河院が再編成した京の武者、美濃源氏土岐氏や宇多源氏など院御所に仕える武者、院御所に出仕する高僧に従う権門寺院の衆徒、印地打ちや河原者といった浮浪人。兼実は、後白河院自らが軍勢を集める状況を「もっぱら、至愚の政なり」(『玉葉』)と批判している。総大将は、「鼓判官」の主人公壱岐(いき)判官中原知康。この日の知康の武装は、四天王の絵を描いて貼り付けた兜をかぶり、鎧を着ずに直垂を着し、右手に金剛鈴(こんごうれい、密教の修法に用いる鈴)を持ち、左手に鉾(仏教の祭祀用具)を持って法住寺殿四面の築垣(ついがき)で舞を舞ったという。これに先だって行われた義仲調伏の祈祷の効力を高めようとしたのであろうが、周囲の人々は知康の所行を物狂いとしか思わなかった。

知康は、壱岐守知親の子で仁安3年(1168)右馬允に任じ、左兵衛尉、左衛門尉を経て、寿永2年(1183)7月、検非違使の宣旨をこうむり従五位下に除された。今様や鼓に長じていたので、後白河院の近臣になり鼓判官と呼ばれた。

義仲の側に参加した武者は、根井行親、樋口兼光、今井兼平ら信濃国で挙兵した時から従ってきた人々が中核。他には志田義広や近江源氏の山本義経らに限られ数的には劣勢。義仲の北陸進撃に合流した今参りの郎党の多くは、朝敵の汚名を着ることになる戦いまでつきあう必要はないと判断して、義仲のもとを去った。

・この日辰刻(午前8時前後)、義仲は七条河原に集結させた軍勢を後白河院の法住寺御所に向けた。義仲は主力を西門に配置し、東門に搦手の軍勢(樋口兼光)を差し向けた。

昼頃戦端が開かれ、大手の義仲が法住寺殿の西方七条河原から、志田義広がその少し南の最勝光院の八条の門から攻撃。今井兼平・樋口兼光は法住寺殿の東側、瓦坂(現、智積院の南あたり)から新熊野社を攻めた。攻撃が始まると、総大将の知康や院の招きに応じて集まった人々はすぐに逃亡。

義仲は北門周辺に火を放って出口を塞いだので、脱出しようとした人々は源仲兼が守る南門に集中した。多田行綱は、後白河院方として出陣して七条末まで軍勢を進めたが、義仲の動きを牽制することもできぬまま、戦わずに退いた。義仲と戦ったのは、美濃源氏の土岐光長・光経父子と信濃国の赤塚判官代の一族など一部の人々であった。義仲方の武者は後白河院の姿を知らないので、高位の者を見つけると思いつくままに捕らえ、討ち取っていった。『平家物語』巻8によれば、翌日六条河原に懸け並べられた首の数は630余たといい、『百錬抄』には院中の輩の首111とある。

この戦いで、天台座主明雲、前園城寺長吏円恵(えんえ)法親王(後白河の第四皇子)をはじめとした高位の人々や、主水正清原近業(ちかなり)のような朝廷の将来を担うことになる官人が命を落とした。他に源光長・越前守藤原信行・近江守高階重章らが討死。

権中納言藤原頼実は、武士の衣装を着ていたので危うく首を切られるところを、たまたま顔を見知った一般の人が本人と証言したので何とか命拾いをした(「玉葉」11月22日条)。

「愚管抄」(巻5)によれば、明雲を討った武士が義仲に手柄を語ると、義仲が「なんでうさる者(そんな者がなんだ)」と言ったので、首を西洞院川に捨てたという。明雲は、延暦寺のトップで、平家全盛時には「ひとへの平家の護持僧(むやみやたらに平家を支持する僧)」(愚管抄」巻5)と評された。延慶本「平家物語」では、後白河は自分の身代わりになった明雲の非業の死を悼んでいるが、参議藤原定能によれば「殊に御嘆息の気も無」かったという(「玉葉」11月25日)

後白河院も、信濃源氏の根井小弥太と矢島行綱に捕らえられ、五条内裏(摂政藤原基通邸五条東洞院清浄光院)に軟禁された(12月に六条西洞院の大膳大夫成忠邸に移す)。

南門を守る源仲兼は多くの者が御所から脱出してもまだ守っていたが、木曽方の錦織義弘から誰も残っていないことを知らされて南に向かって脱出し、摂政近衛基通と出会って宇治まで護衛することになった。

合戦には勝利したものの、義仲は京都で政治的に孤立し、京都周辺で義仲の支持勢力として残ったのは、信濃・上野から引き連れてきた郎等を中心とした直属の軍勢、頼朝に対して敵意を持つ志太義広、近江源氏の山本一族ぐらいになっていた。

「義仲の軍兵、すでに三手に分ち必定寄すの風聞、猶信用せざる処、事すでに実なり。余の亭大路の頭たるに依って、大将の居所に向かいをはんぬ。幾程を経ず黒煙天に見ゆ。これ河原の在家を焼き払うと。また時を作ること両度。時に未の刻なり。申の刻に及び官軍悉く敗績す。法皇を取り奉りをはんぬ。義仲士卒等、歓喜限り無し。即ち法皇を五條東洞院摂政亭に渡し奉りをはんぬ。武士の外、公卿侍臣の矢に中たり死傷の者、十余人と。」(「玉葉」同日条)。

「早旦大夫史隆職告げ送りて云く、権大納言師家内大臣に任じ、摂政たるべきの由仰せ下されをはんぬと。伝聞、座主明雲合戦の日、その場に於いて切り殺されをはんぬ。また八條圓恵法親王、華山寺の辺に於いて伐ち取られをはんぬ。・・・抑も今度の乱、その詮ただ明雲・圓恵の誅に在り。未だ貴種の高僧此の如き難に遭うを聞かず。仏法の為希代の瑕瑾たり。悲しむべし。」(「玉葉」同22日条)。

「前摂政家領等、違乱有るべからずの由、義仲本所に示すと。然る間新摂政皆悉く下文を成し、八十余所義仲に賜うと。狂乱の世なり。」(「玉葉」同28日条)。

「解官 中納言籐朝方 参議右京大夫同基家 太宰大貳同實清 大蔵卿高階泰経 参議右大弁平親宗 右中将播磨守源雅賢 右馬頭源資時 肥前守同康綱 伊豆守同光遠 兵庫頭藤章綱 越中守平親家 出雲守藤朝経 壱岐守平知親 能登守高階隆経 若狭守源政家 備中守源資定 左衛門の尉平知康(大夫の尉) この外衛府二十六人と。」(「玉葉」同29日条)。"

「午の刻南方火有り。院の御所辺と。再三進入すと雖も、戦場たるに依って、敢えて以て通ぜず。・・・後聞、御所の四面皆悉く放火す。その煙偏に御所中に充満し、万人迷惑す。義仲軍所々に破り入り、敵対に能わず。法皇御輿に駕し、東を指して臨幸す。参会の公卿十余人、或いは鞍馬、或いは匍匐、四方に逃走の雲客已下その数を知らず。女房等多く以て裸形。武士伯耆の守光長・同子廷尉光経已下合戦す。その外併しながら以て逃げ去る。義仲清隆卿堂の辺に於いて追参し、甲冑を脱ぎ参会す。申す旨有り。新御所の辺に於いて御車に駕す。時に公卿修理大夫親信卿・殿上人四五輩御供に有り。摂政の五條亭に渡御すと。」(「吉記」同日条)。

「今日伯耆の守光長已下の首百余、五條河原に懸く。人以て目すと。義仲検知すと。」(「吉記」同21日条)。

越前守藤原信行はこの戦闘で討たれ、若狭守は源政家に替わり義仲与党の近江源氏山本義経がなる(「吉記」12月10条)。義仲は北陸道諸国に対する支配強化したかに見えるが、与党の筈の河合系斎藤友実を解官している点からみて、基盤自体が分裂、京都における義仲の立場は孤立・弱化している。


つづく



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