2022年10月30日日曜日

〈藤原定家の時代164〉寿永3/元暦元(1184)年1月20日(②) 延慶本『平家物語』(「宇治川先陣」)に見る宇治川合戦

 

『宇治川合戦図屏風』 東京富士美術館蔵

寿永3/元暦元(1184)年

1月20日(②)

〈延慶本『平家物語』(「宇治川先陣」)に見る宇治川合戦(史実ではない)〉

前年(寿永2年)11月20日辰刻(午前8時前後)、関東軍は軍兵6万余を二手にわけ、範頼を大将とする3万5千余騎が瀬田へ、義経を大将とする2万5千余騎が宇治に向かった(軍勢の数は誇張されている)。なお、延慶本・覚一本共に、義経・範頼は鎌倉から進軍して、義仲が平等院に立てこもったという噂を聞き、義経は範頼と分かれて伊賀方面から宇治に向かったことになっている。しかし、実際は、義経は伊勢に滞在していて、伊賀を経て宇治に向かった。

一方の義仲の軍勢は分散していた。樋口兼光は行家を攻めるために500余騎で河内に向かっており、今井兼平は500余騎で瀬田に、志太義広は300余騎で宇治に向かった。京都に残る義仲の軍勢は100騎に過ぎず、火急の場合は、後白河を具して西国に向かう準備をしていた。

兼平と義広は、それぞれ瀬田川・宇治川の両方に掛かる橋の橋桁を引き、向こう岸には、乱杭を打ち、大綱を張り、逆茂木(さかもぎ)を繋いで流し掛け、関東軍を待った。橋桁を引くとは、橋桁に渡されている板を外して、橋を通行不能にすることで、外された板は楯としても利用された。乱杭は、川底に不規則に杭を打つことで、さらに杭には綱を張り巡らす。それが大綱であり、小網もある。逆茂木は棘のある樹木を束ねたもので、それを杭に繋いで水面に漂わせる。

これらは、大河を隔てた対戦では当時ふつうに行われていた防衛処置で、いずれも敵の軍勢、特に騎兵の進行を阻止するためのものであった。騎兵主体であったこの頃の戦闘は、敵の騎兵の進行を阻止することが防衛のためには重要であった。

陸上戦では、楯を何枚も並べ連ねた掻楯(かいだて)や逆茂木・堀(空堀)・土塁・柵などが設置された。こうした敵の騎兵の進行を阻止するための施設や設備に、敵に矢を射掛けるための櫓(やぐら)などを設置した臨時の防衛施設のことを当時は城郭といった。したがって、治承・寿永期の城郭は近世城郭のような堅固なものではない。騎兵主体の戦闘では堅固な常設の城郭は必要ない。そして、こうした臨時の防衛施設を設置するために、また攻撃側はそうした施設を破壊するために、非戦闘員である工作員などが必要となってくる。

当時の騎兵は弓箭(ゆみや)を佩帯(はいたい)し、それを主要兵器とする騎兵である。

義経軍は宇治川に臨んだ。しかし、宇治川は防衛施設が施されていただけでなく、おりしも水かさが増していた。また川端は狭く、2万5千余騎の軍勢のすべてが川に臨めなかった。そこで、義経は、「雑色(ぞうしき)」や「歩行走(かちばしり)ノ者」達を集め、軍勢すべてが川に臨めるように、川端にならぶ300余の民家を、家財を取り出させたうえで焼き払うことを命じた。これにより、老人・女性・子供・病人などの逃げ遅れたり、動けない者が焼け死んだという。

様々な目的で戦場周辺の民家を焼き払うという行為は珍しいことではなかったらしい。治承4年12月、南都攻めの重衡は、夜中の明かりを求めて周辺の民家を焼き払わせた。その火が折からの強風に煽られて興福寺や東大寺に引火し、南都焼き討ちという結果となる。また、覚一本(巻9)によれば、義経は、一ノ谷合戦の前哨戦の三草山合戦では、平氏軍を夜襲する際に、重衡と同じく明かりを求めて進軍路に沿った民家を焼き払っており、「三草山の大松明」として有名。屋島合戦でも、屋島の対岸の牟礼・高松の民家を焼き払ったことは延慶本・覚一本(巻11)にも『吾妻鏡』文治元年(1185)2月19日条にもみえる。

民家を焼き払い、川端が広くなったところで、義経は高い櫓を作らせ、そこに登って軍勢に指示を与えた。まず軍勢のなかの「水練(すいれん)」・「河立(かはだち)」・「潜(かづき)」の上手に、「セブミ(瀬踏)」をして、川の状態を知らせる(河の浅瀬や水流の穏やかな箇所を探る)ことを促した。更に、瀬踏をする者は裸で無防備なので、敵の攻撃を逸らしてかれらを守り、自由な瀬踏を行わせるために、橋桁を外した橋を渡る者を募った。

まず、平山季重(すえしげ)が馬を下り、橋桁を渡った。続いて佐々木定綱・渋谷重助(しげすけ)・熊谷直実・直家親子の4人がこれに続いた。

敵はかれらに対して「入江ノ葦刈ガアシヲタバネテツクガゴトシ」(延慶本)と矢を射掛けてくる。季重等5人は橋を渡るのに精一杯で反撃はできない。しかし、かれらは甲胃で身を守り、ほどなく対岸に辿り着き、反撃を開始した。義仲の郎等藤太左衛門兼助(とうたざえもんかねすけ)が射落とされたのを皮切りに次々と射られていく。

こうして敵が橋を渡った者達を相手にしている間に、義経側の水練のうち「天下一ノ潜ノ上手」という佐々木の都等鹿嶋与一が水中に潜り、敵の乱杭や逆茂木を取り除き、大綱・小網を切断した。

これで、渡河の準備は整ったが、積極的に渡河しようとする者がいない。そこに畠山重忠が進み出ると、次々と進み出る者が現れた。そうしたなかで飛び出しのは梶原景季と佐々木高綱であった。両人は鎌倉を発つ前に頼朝からそれぞれ薄墨、生飡(いけずき)という名馬を賜っていた。景季も生飡を所望したが適わず、高綱に与えられた。その生飡で川を渡り、先陣を取ったのは高綱であった(宇治川先陣争い)。

かれらに続いて全軍が川に入った。このように騎兵が集団で渡河することを「馬筏」というが、延慶本では、馬筏で渡河する際に敵から射掛けられる矢に対する防御の方法とか、渡河中の馬の扱いなどについての心得を、先陣を行く高綱が全軍に下知する。

こうして義経軍は馬筏で宇治川を渡った。義仲軍もさかんに矢を射掛けてくるが、多勢に無勢、義仲軍は崩れて京都の方へ落ちていく。それを追い、義経軍も入京する。


つづく


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