2022年10月29日土曜日

〈藤原定家の時代163〉寿永3/元暦元(1184)年1月15日~20日 義仲、征夷大将軍に任命 行家、反義仲挙兵するも、義仲が派遣した樋口兼光に敗れる 宇治川合戦(義仲、義経に敗れ、勢多へ敗走)      

 



寿永3/元暦元(1184)年

1月15日

・源義仲、征夷大将軍に任命される。この間、義仲軍より行家が離れ、源氏では信太義広のみとなる。

1月16日

・義仲が近江に派遣した郎従の報告では、「敵勢数万に及ぶ、あへて敵対に及ぶべからず」と(「玉葉」)。都は大騒動となる。13日には「九郎の勢僅か千余騎」という報告であった。新手の範頼軍や「武田の党」の一条忠頼(武田信義の子)などが加わっている。義経軍も、伊勢の平信兼、伊賀平氏の支援、安田義定などの軍事貴族が参加し強化されていた。

「去る夜より京中鼓動す。義仲近江の国に遣わす所の郎従等、併せて以て帰洛す。敵勢数万に及び、敢えて敵対に及ぶべからざるの故と。今日法皇を具し奉り、義仲勢多に向かうべきの由風聞す。その儀忽ち変改す。ただ郎従等を遣わし、元の如く院中を警固し祇候すべし。また軍兵を行家の許に分け遣わし追伐すべしと。凡そ去る夜より今日未の刻に至るまで、議定変々数十度に及び、掌を反すが如し。京中の周章喩えに取るに物無し。然れども晩に及び頗る落居す。関東の武士少々勢多に付くと。」(「玉葉」同日条)。

1月16日

・源行家、和泉で反義仲の挙兵。河内石川城へ拠る。義仲、樋口兼光600余を河内に派遣。19日、石川城攻め落とされ、行家は敗走(高野に逃亡)。

兼光は、京都に戻る途中で義仲が上洛軍に討たれたことを聞き、義経に降参。兼光の降参は、配下にいた武蔵国の豪族庄四郎高家が義経の軍勢に属した兄弟と話し合って実現した(『平家物語』)。兼光の軍勢に属した信濃国の千野光弘は降参に応ぜず、武門の名誉を重んじた死の前進を選び、義仲滅亡後の京都に向かって軍勢を進める。

1月17日

・廣常弟の天羽庄司上総直胤・千葉常清、復権(「吾妻鏡」)。

1月19日

・義仲軍は、樋口次郎兼光が行家攻撃のため河内出陣とはいえ、入洛時5万の兵は僅か1千程となる。義仲は、近江勢多(今井四郎兼平7~800)・宇治(根井小弥太行親・楯親忠・進親直・志太義広・楯親忠500)・淀(信太義教300)に派兵。法皇御所(五条内裏)警備は那波弘澄100。

平信兼や伊勢の在地武士の援軍を得た義経軍は、1月半ばに京に向けて進軍開始。

総大将範頼(大手軍3万5千余又は8千、武田信義・千葉常胤)、美濃から琵琶湖沿いに近江・瀬田川から京を攻める。

搦手義経・中原親能(搦手軍2万5千余又は1千、安田義定・佐々木高綱・梶原景時)、伊勢国鈴鹿郡から加太(かぶと)越えで伊賀国柘植・倉部に進み、そこから大和街道本道に入り、伊賀上野を通り、南山城から北上する計画(まず、後白河と後鳥羽の身柄の確保を目的とする)。(『源平盛衰記』巻第35「義経範頼京入」)

このルートは、伊賀国北部に展開する小松家家人の平田家継(平貞能の兄)の勢力圏を通っており、家継が義経軍に参加したかどうかは定かではないものの、義経の進軍を支援したことは確実である。

1月20日

・宇治川合戦。義仲軍、宇治川を要害にして、橋板を外し、川綱を張るが破られる。

『平家物語』による(史実ではない)

義経に従う大将軍は安田義定・大内惟義、侍大将は畠山重忠、長野重清、三浦義連、梶原景時・景季、熊谷直実・直家、佐々木高綱、渋谷重助(重資)、糟谷(糟屋)有季ら。義仲軍は宇治川の橋を引いて岸に乱杭をうち大網を張って逆向木を繋いで迎撃。義経は、川岸が狭いため川端の在家を焼払う。ついで、矢倉を作りそれに乗り、先陣きった者は鎌倉殿に注進すると告げる。佐々木高綱と梶原景季の先陣争い。

雪解けで急流の宇治川。畠山重忠が先陣を受けるが、梶原景季・佐々木高綱が先陣争い。畠山隊が義仲軍の川岸の太網を切り渡河を助ける。畠山重忠、途中自分同様、馬を射られた烏帽子子の大串重親を岸に投げ上げ救う。

義経(26)、入京。

義経軍は、宇治川を突破し、梶原景時の部隊が一番手となり大和大路から京中に進入、六条河原に向う。木曽四天王根井行親、六条河原で討死。

義仲は、瀬田・宇治川に、また行家に対応するため河内に兵を派遣しているので都の軍勢は僅か。義仲は、院御所(六条殿)に向うが、義経軍(範頼、義経、河越重頼・重房、佐々木高綱、畠山重忠、渋谷重国、梶原景季ら)が来襲。御所を警固する。

読み本系の『平家物語』は、義仲最期の日の松殿姫君との別離を伝えている。義仲は、権門の女性を正室に求めていたところ、松殿姫君(基房の娘)を見染めて強引に聟になったと伝えられる。

義仲は、越後中大家光(ちゆうだいいえみつ)が宇治が破られて義経の軍勢がせまっていると進言しても、松殿姫君の側を離れようとしなかった。このままでは敵中に取り込められると家光が自害して諌めたことでようやく、今井兼平と合流すべく瀬田をめざして進む決意をした。義仲が向かう先には、兼平を追撃する範頼の率いる上洛軍本隊がいた。

義仲は、院御所となっていた六条西洞院の平業忠邸(六条殿)に赴いて後白河院を連行しようとするが、ここにも鎌倉の軍勢は進軍しており、義仲に攻めかかる。義仲は、六条河原と三条河原の間で、攻撃をかわしながら鴨川を渡り、栗田口を抜け、松坂を越え、四の宮河原に落ち延びる。この時、義仲主従は12騎。    

一方、瀬多で範頼軍に大敗した今井四郎兼平50騎は、琵琶湖畔打出ヶ浜に辿り着く。義仲もまた打出ヶ浜に辿り着き、ここで兼平と再会。兼平が軍旗を掲げると、そのうち木曾の兵300が集結し、義仲は一条忠頼(甲斐源氏)6千・土肥実平軍2千に最後の戦いを挑む。乱戦の中、木曾の兵は次々と討たれ、手塚光盛も討死、7騎で近江に入った所で、義仲は最後まで随従した巴御前を、本国に最後の状況を伝える使者とするため、戦場から落ちさせる(読み本系『平家物語』は松殿姫君との別れの場面が詳しく、語り物系『平家物語』は巴との別れが詳しい)。


つづく


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