2022年10月6日木曜日

〈藤原定家の時代140〉寿永2(1183)年6月 篠原の合戦 「前の飛騨の守有安来たり、官軍敗亡の子細を語る。四万余騎の勢、甲冑を帯びるの武士、僅かに四五騎ばかり、その外過半死傷す。その残り皆悉く物具を棄て山林に交る。大略その鋒を争う甲兵等、併しながら以て伐ち取られをはんぬと。盛俊・景家・忠経等(已上三人、彼の家第一の勇士等なり)、各々小帷ニ前ヲ結テ、本鳥ヲ引クタシて逃げ去る。希有に存命すと雖も、僕従一人も伴わずと。凡そ事の體直なる事に非ず。誠に天の攻めを蒙るか。敵軍纔に五千騎に及ばずと。彼の三人の郎等、尤も将軍等、権盛を相争うの間、この敗有りと。」(「玉葉」)      

 


〈藤原定家の時代139〉寿永2(1183)年5月 上総広常殺害 陳和卿による東大寺大仏再建開始 平家軍(追討軍)壊滅 般若野の合戦 倶利伽羅峠の合戦 志保山の合戦 「去る十一日、官軍の前鋒勝に乗り、越中国に入る。木曾冠者義仲、十郎蔵人行家、および他の源氏等迎へ戦ひ、官軍敗績し、過半死し了んぬと云々」(「玉葉」) より続く

寿永2(1183)年

6月1日

・篠原の合戦

倶利伽羅峠の戦いと同じ頃、志雄山(石川県羽咋郡宝達志水町)に向かった行家率いる義仲の別働隊は、平氏の部将越中前司盛俊の軍勢に攻めたてられていた。

義仲の本隊が倶利伽羅峠の勝利の勢いで追討使本隊を追撃すれば、行家を破って意気上がる追討使の別働隊に背後を襲われる危険があった。そのため、義仲は、志雄山にいる別働隊を攻めるため、潰走する本隊から離れて軍勢を北上させた。

義仲の軍勢が向きを変えたことで、倶利伽羅峠で崩れた追討使の本隊は、篠原(石川県加賀市)で一息ついて態勢を立て直し、退却してきた別働隊を収容して陣容を立て直すことができた。

篠原に陣を敷いた追討使の軍勢は、義仲が接近してくるぎりぎりまで粘って滞陣し敗残部隊を収容して、戦わずに退くのが最良の方法であった。しかし、篠原に留まった人々の中には、京都に戻るつもりはなく、ここを死に場所と考えて最後の一戦を望む人々が多く混じっていた。

ここに、『平家物語』を代表する悲話のひとつとなる「実盛最期」の物語が展開する。

篠原合戦では、俣野景久(大庭景親の弟)・伊東祐清(祐親の子)・斎藤実盛といった東国の平氏家人が、ここを最期の場所と思い定めて戦いに臨んでいる。

追討使の畠山重能・小山田有重の軍勢は、彼らが武蔵国から率いてきた重代の家人を中核としていた。この軍勢は木曽義仲の乳母子今井兼平の軍勢と互角にあたりあい、500騎の軍勢が200騎に減らされても、秩序を保って退いた。

一方、樋口兼光と合戦した追討使の侍大将高橋長綱の軍勢は、しばらくは互角に戦ったものの、状況が不利になると次々と脱落者が現れ、蜘蛛の子を散らすように軍勢が消えていった。高橋長綱の軍勢は、戦って死んでいった壊滅ではなく、いつの間にか人がいなくなる消滅という表現が当てはまる減り方である。駆武者とよばれる人々は、朝廷や国府の命令によって出陣しただけなので、主君と郎党のように命をかけて最後まで戦う絆を持たない。主従制による人と人との絆を組織の原型とする東国の軍勢は、大将が引いてよしの合図をするまで集団を崩さない戦い方をした。しかし、組織の命令によって集められた武者は、不利になると各自の判断で退いていった。

斉藤別当実盛と手塚太郎金刺光盛との一騎打ち。実盛は名乗りをあげず討死。瀬尾兼康、源義仲軍倉光次郎成澄に捕縛、倉光三郎成氏に預けられる。平通盛、かろうじて京へ。越中前司平盛俊・藤原景高・足利忠綱ら、鎧を捨て放髻(烏帽子無しの頭)で折れた弓を杖に戻る。

平氏の侍大将武蔵三郎左衛門尉有国は死を覚悟して軍勢を突進させて林光明の甥野宮光宗に討たれる。

高橋長綱は、「和きみをうちたりとも、まくへきいくさにかつへきにはあらす」(長門本『平家物語』)と、負け戦で首をひとつとっても大勢に影響はないと組み敷いた若武者入善為直(にゆうぜんためなお)を見逃そうとして、逆に首を取られた。

伊豆国の伊東祐親の子祐清や相模国の俣野景久も討ち死にし、平清盛の家人として名の通った備前国の難波経遠は馬を射られて自害した(長門本『平家物語』)

敗勢が明らかになって名のある武者が死に支度をはじめた頃、維盛は「ひけ、後日のいくさにせよ」と退却を命じた。篠原宿は加賀国であり、生き残るためには、平氏の勢力圏として維持されている若狭国か近江国まで退却する必要があった。追討使は、「平家、とつてもかへさす、やがて京へそ、のほられにけり」(長門本『平家物語』)と時間稼ぎの防ぎ矢もせず、全力で逃げ帰ったと伝える。義仲の軍勢を足止めをしようと留まれば、敵の中に取り残されるので、全力で後退するのが最もよい方法であった。

斉藤別当実盛:

義仲の父義賢が悪源太義平に討たれ、義仲も殺されそうになった時、木曽の中原兼遠のもとへ預けてくれた義仲の命の恩人。出陣にあたって、宗盛から侍大将の武装で出陣することの許可を貰い、篠原合戦では500騎の軍勢を率いて戦う。自分を知る武者は義仲のもとに誘おうとするであろうから、実盛の顔を知らない武者を選んで戦い、信濃国一宮諏訪社祀官の一族手塚光盛に名乗らずに討たれてる。義仲は実盛の兜を多太神社に奉納。後年、芭蕉は実盛の兜を拝して、「むざんやな甲の下のきりぎりす」と詠む。

官軍は合戦で過半が死傷し、残った者は物具を捨てて山林に入ったが、落武者狩りにあって、そのほとんどが討ち取られるという悲惨な有り様であった。

「前の飛騨の守有安来たり、官軍敗亡の子細を語る。四万余騎の勢、甲冑を帯びるの武士、僅かに四五騎ばかり、その外過半死傷す。その残り皆悉く物具を棄て山林に交る。大略その鋒を争う甲兵等、併しながら以て伐ち取られをはんぬと。盛俊・景家・忠経等(已上三人、彼の家第一の勇士等なり)、各々小帷ニ前ヲ結テ、本鳥ヲ引クタシて逃げ去る。希有に存命すと雖も、僕従一人も伴わずと。凡そ事の體直なる事に非ず。誠に天の攻めを蒙るか。敵軍纔に五千騎に及ばずと。彼の三人の郎等、尤も将軍等、権盛を相争うの間、この敗有りと。」(「玉葉」寿永2年6月5日条)。

「三人の郎等大将軍」とは、「彼の家(平家)第一の勇士」といわれた越中前司盛俊・飛騨守景家・上総判官忠経の3人。忠経は維盛の御家人、盛俊・景家は宗盛の御家人であり、後者の通常の統率者である重衡が不在。指揮命令系統が不明確で、威望ある最高司令官が不在という連合軍の弱点が露呈した。

敗戦の第一因が、決戦を前にした有力郎等間の、主導権争いにあったという。これは意地や名誉など個人レベルの争いを超えた、一門内二大軍事集団間の面子や利害にかかわる対立である。

重衡を欠いている分、維盛の果たすべき役割は大きい。今回は、維盛の乳父たる忠清は、従軍していなかった。代わって補佐するその子忠経程度の実績では、一門主流側の平盛俊・伊藤景家といった大物郎等を説得できない。この状況では、維盛に全軍の合成力を実現するのは無理である。


つづく

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