2022年10月10日月曜日

〈藤原定家の時代144〉寿永2(1183)年7月24日(都落ち前日) 宗盛、出陣中の諸将を都に呼び戻す(小松家、頼盛には届かず) 安徳天皇は法性寺に移る 法性寺の後白河は基通の密告により密かに比叡山に入る 「君臣合体の儀、これをもつて至極たるべきか」(「玉葉」) 

 

2010-07 龍安寺

〈藤原定家の時代143〉寿永2(1183)年7月20日~23日 宗盛・重衡が都落ち密議 京都四方の守り(忠度、資盛・師盛・貞能、知盛・重衡、頼盛) 義仲が東坂本到達 行家が大和から北上 行綱らは河尻であばれる 後白河が法性寺殿に移る より続く


寿永2(1183)年

7月24日

・平家都落ち決定。

宗盛は、出陣中の諸将をいったん都に呼び戻す。

この時、宗盛は後白河院に対して「資盛卿においては、宣旨を給はる人なり。院より召し遣はさるべし。自余の輩に至りては、私に遣はし了んぬ。直ぐに召し返すべきの由、内府申さる」(「吉記」同日条)。早速、院司高階泰経が院宣を奉じて、平資盛と貞能に帰京するように命じるが、結局25日の夕方、平氏一門がすでに都を去ったあと、資盛・維盛・貞能らの小松家の軍勢がようやく京に戻ってくる。

「この一両日、江州の武士台獄に登る。今夜夜打ち有るべきの由風聞す。仍って忽ち法性寺御所に行幸し給う。暁天に及ぶと。この辺恐れ有るに依って、余女房を相具し法性寺家に渡る。」(「玉葉」同日条)。 

・平頼盛を山科(六波羅東)に派遣。頼盛には都落ちの連絡が届かず。

・夜、後白河法皇(57)、法住寺殿から逐電し行方知れずとなる。実は、秘かに延暦寺に入る(法住寺殿~鞍馬~横川)。

・比叡山上の近江の武士が、24日夜に夜討ちをかけてくるとの風聞があり、安徳天皇はその夜あわただしく閑院から法住寺殿に避退し、内侍所(ないしどころ、神鏡)も鴨川を越えて京外に出た。神鏡は、皇位の標識として歴代の天皇が受け継いできた三種の神器の一つであり、女官の内侍が奉仕していたので内侍所とも呼ばれていた。他の二器、剣・璽(勾玉)はつねに天皇とともにあり、行幸には剣璽役が捧げ持ってゆく。神鏡は、天皇の御座とは離れた宮中温明殿(うんめいでん)内の唐櫃(からびつ)の中に納められ、福原遷都の時以外、平安京の外に出たことはない。院は前々日諸卿を召して、天皇と神鏡の洛外である法住寺殿への移動の可否を諮っていた。

この日夜、後白河は、宗盛に「いざという時どのように対処されるのか、その時になって慌てないよう詳細をうかがっておきたい」と尋ねると、宗盛は「考えるまでもなく、院の御所に駆けつけます」と返答。

平家一門とその軍勢が法住寺殿に入りこんできたら監視の目も厳しくなり、脱出は難しくなる。同夜半、天皇が行幸してくるどさくさに紛れて、法皇は密かに法住寺殿を脱出、鞍馬経由で比叡山に登った(以上『吉記』15日条)。

戦局極めて不利ななか、宗盛と重衡が都落ちを推進した。

「去月(七月)二〇日比(ころ)、前内府(宗盛)および垂衡ら密議して云はく、法皇を具し奉り海西に赴くべし、もしくはまた法皇宮に参り住むべし」(『玉葉』寿永2年8月2日条)とある。選択肢として後白河の法住寺殿に立て籠もる案も浮上している。

『玉葉』8月2日条には、つづけて摂政基通が20日ごろの「密議」の内容を聞き、冷泉局(大納言藤原実定(さねさだ)の妹)を使って法皇に密告したとある。後白河は7月上旬ごろから基通に「愛恋」の気持ちをいだいており、「密議」のその日「御本意を遂げ」た(『玉葉』8日18日条)。冷泉局が両者の「媒(なこうど)」となったとあるから、基通は彼女の密告を手土産に法皇の寝所に渡ったということになる。

基通は、父基実が清盛の娘盛子(白川殿)を妻としただけでなく、彼も清盛の別の娘寛子を妻にしており、平家の後押しで関白ついで摂政になった人物である。基通は父基実が若死にしたことで、叔父基房がその遺産継承を主張した時に、清盛が介入して基通が継承するまで養母平盛子(清盛の娘)が預かるとして基房の相続を認めなかった。近衛家存亡の危機を平氏に救ってもらっていた。

冷泉局は、かつて盛子の女房であり、清盛の盟友で清盛没後跡を追うように亡くなった権大納言藤原邦綱の妻の一人、「愛物(あいもつ、お気に入り)」だった。

いわば平家の身内ともいうべき両者が、男色を通して都落ち近しの機密情報を、いちばん漏れてはいけない相手に漏らしてしまった。基通は平家と深い関係にあったからこそ、落ち目集団と一体であるのに展望がもてず、後白河の「鍾愛(しょうあい)」を渡りに船、と庇護の主を乗り換える決断をした。事情を知った基通の叔父の兼実は、後白河・基通2人の関係を、「君臣合体の儀、これをもつて至極たるべきか」と痛烈に皮肉った(『玉葉』8月18日条)。

すでに養和元(1181)年9月、四方の反乱軍の強大さに、平家はいったんは都落ちを決意したことがある。が、兼実の後白河への直言により、「西行の事、忽ちに然るべからず、関東すでに攻め来たるの時、その儀有るべし」となった(『玉葉』29日条)。後白河は、その時の気配を感じたに違いない。彼は平家の西海行きにつきあおうとは毫も思っていない。密告のあった後、タイミングを見計らって、7月23日朝、本拠の法住寺殿に移った。いざという時の行幸に備えるのが口実だが、平安京内の御所と違って広大な空間である。隅々まで監視の目が届かない。勝手知ったる地で遁走にも便利である。

「夜半に法皇密かに法性寺を出させ給いて、鞍馬の方より廻りて横川へ登らせ御坐まして、近江の源氏がり比由つかわしけり。」(「愚管抄」同日条)。 

・大和からの源行家に備えて宇治で待機中の平資盛・貞能、摂津源氏多田蔵人行綱が淀川河尻方面で荒掠との情報に、宗盛の指示により河尻に向うが誤報と判明。

「十郎蔵人行家伊賀を超え、すでに大和の国宮河原に着くの由、別当僧正殿下に申さる。資盛卿貞能を相具し帰参すべきの由、泰経の奉行として仰せ出さると。追討を奉る者、未だこの例を聞かず。而る間猶帰洛せず。本これ宇治一坂辺に宿す。件の所より八幡南を廻り、河尻方に向かう。これ多田の下知と称し、太田の太郎頼助、或いは鎮西の粮米を押し取り、或いは乗船等を打ち破り、或いは河尻の人家を焼き払うと。この事を鎮めんが為、先ず行き向かうと。」(「吉記」同日条)。 


つづく

0 件のコメント: