2022年10月19日水曜日

〈藤原定家の時代153〉寿永2(1183)年9月1日~27日 宗盛、後白河に和親・帰京の意志ありを明言 北陸・山陰両道は義仲の押領下に置かれ、国守の吏務が不可能な状況 後白河が派遣した中原康貞、鎌倉着 「「近日、京中の物取り、今一重倍増す」(「玉葉」) 義仲、平家追討のため山陽道へ向う         

 


〈藤原定家の時代152〉寿永2(1183)年8月18日~28日 故高倉天皇第4皇子尊成親王、神器なしで践祚 後鳥羽天皇(3歳) 北陸宮を押した義仲は憤る 平家太宰府に到着 「或る人云ふ、平氏の党類余勢まつたく減ぜず、四国ならびに淡路・安芸・周防・長門ならびに鎮西諸国、一同与力し了んぬ。」(「玉葉」) より続く


寿永2(1183)年

9月

・この月、宗盛は法皇に書を呈し、「自分には法皇に背く意志はまったくない、都落ちは不意のことで慌て騒ぎ、当座の難を遁れるため、天皇を連れて都を遠く離れさすらうはめになった、しかしこの上はひたすら仰せのままに行動する」と奏し(『玉葉』11月14日条)、和親・帰京の意志ありを明言。大宰府を拠点に態勢の立て直しをする構想が思うにまかせず、現状の長びくことが明らかになったのが、弱気につながった。

9月1日

・兼実、この頃政治に嫌気がさしていたようで、右大臣辞任を願い出るものの許されず、「遁世の志」があるとまで述べている(「玉葉」9月1日条)。しかし、世間では兼実待望論が高まっていた。『玉葉』9月4日条によれば、義仲のもとに兼実を登用しないことを不当と訴える落書があったという。

9月3日

・北陸・山陰両道は義仲の押領下に置かれ、国守の吏務が不可能な状況(「玉葉」。

「凡そ近日の天下武士の外は、一日存命の計略無し。仍って上下多く片山(かたやま、へんぴな山)・田舎等に逃げ去ると。四方皆塞がり(四国及び山陽道安藝以西・鎮西等、平氏征討以前、通達(とどこおりなく通ること)能わず。北陸・山陰両道、義仲押領、院分已下宰吏一切吏務能わず。東山・東海両道、頼朝上洛以前また進退能わずと)、畿内近辺の人領、併せて苅り取られをはんぬ。段歩残らず。また京中の片山、及び神社・仏寺・人屋在家、悉く以て追捕す。その外適々不慮の前途を遂げる所の庄公の運上物、多少を論ぜず、貴賤を嫌わず、皆以て奪い取りをはんぬ。この難市辺(いちのあたり)に及び、昨日買売の便(びん)を失うと。天何ぞ無罪の衆生を棄てるや。悲しむべし。此の如きの災難、法皇嗜慾の乱政、源氏奢逸の悪行に與するより出ず。然る間、社稷を思うの忠臣、俗塵を遁るの聖人、各々非分の横難に逢う。殆ど成仏の直道を怠る。哀れむべしてえり。ただ前世の宿業のみ。」(「玉葉」同日条)。

全国の「四方」が平家・反平家勢力の軍事占領で「みな塞が」って京都が陸の孤島化している状況、院分国はじめ知行国支配を担う「宰吏(国司の唐名、ここでは目代など)」が一切職務を果たせず、「荘公の運上物」も京都に届くことが「たまたま不慮」、思いがけない僥倖だといわれるような事態。品薄のため市場の売買は止まり、「上下」の都人は「多く片山田舎に逃げ去る」、食と安全を求めて疎開せざるを得なくなっている。この災難は、「法皇嗜欲の乱政と源氏奢逸の悪行」と断じる。

『平家物語』覚一本にも、「およそ京中には源氏みちみちて、在々所々に入りどり(取り)おは(多)し。加茂、八幡の御領とも言はず、青田を刈てま草(秣)にす、人の倉をうちあけて物をとり、持ッて通る物をうばひとり、衣装をはぎ(剥ぎ)とる。「平家の都におはせし時は、六波羅とて、たヾおほかた(大方)おそろしかりしばかり也。衣装をはぐ(剥ぐ)まではなかりし物を、平家に源氏かへおとり(替え劣り)したり」とぞ人申しける」(巻8鼓判官)とある。人心を失うのは時間の問題である。

9月4日

・後白河法皇、院庁の左史生中原康貞を頼朝へ派遣。この日、中原康貞、鎌倉着。5日、頼朝と対面。10日頃、頼朝次官として上洛。20日、帰洛。頼朝の後白河法皇へ申状(「謀叛の賊義朝の子」の汚名を除く。神社仏寺・諸院宮人領の返還。不服者を追討するので宣下して欲しい)。10月13日、再度鎌倉へ派遣。

「伝へ聞く、先日頼朝の許に遣はす所の院庁官、この両三日以前に帰参す。巨多の引出物を与ふと云々。頼朝折紙に載せ、三か条の事を申すと云々。」(「玉葉」10月1日条)。

「・・・一 勧賞を神社・仏寺に行わるべき事 ・・・寺領元の如く本所に付すべきの由、早く宣下せらるべく候、 寺領元の如く本所に付すべきの由、早く宣下せらるべく候、・・・一 奸謀者と雖も、斬罪を寛宥せらるべき事、右平家郎従落参の輩、縦え科怠有りと雖も、身命を助けらるべし。所以は何ぞ、頼朝勅勘を蒙り事に坐すと雖も、更に露命を全うし、今朝敵を討つ。後代またこの事無きや。忽ち斬罪行わるべからず。但し罪の軽重に随い、御沙汰有るべきか。・・・」(「玉葉」10月4日条)。

9月5日

・京を制圧する混成軍団によって、住宅や寺社への乱入・追捕や、畿内近辺の田忠の刈り取り・押領が繰り広げられている。

「近日、京中の物取り、今一重倍増す。□塵の物、途中に持ち出すこと能わず。京中の万人、今に於いては一切存命能わず。義仲院の御領已下併せて押領す。日々倍増し、凡そ緇素(しそ、僧俗)貴賤涙を拭わざるは無し。憑(たの)む所ただ頼朝の上洛と。彼の賢愚また暗以て知り難し。ただ我が朝の滅亡、その時すでに至るか。」(「玉葉」5日条)。

延慶本『平家物語』には、「資財雑具東西南北へ運隠スホドニ、引失事数ヲ不知。穴ヲ掘テ埋シカバ、或ハ打破、或ハ朽損ジテゾ失ニケル」(第4「木曾都ニテ悪行振舞事 付知廉ヲ木曾ガ許へ被遣事)とあり、資財・雑具を京の郊外へ運び隠したり、土中に穴を掘ってそれらを埋めたりする民衆の姿が生々しく描かれている。こうした状況のなかで、混乱を収拾できない義仲に厳しい批判の目が向けられ、関東の頼朝の上洛に都の人々の期待が集まっていった。

9月6日

・藤原(松殿)基房、行家のもとに使者を送り、兼実が摂関になることの非を伝えたとされる(「玉葉」9月6日条)

9月12日

・院御所の法住寺殿において、醍醐寺勝賢(しようけん)によって三十五日間の転法輪法が始められる。転法輪法は、転法輪菩薩を本尊として怨敵破砕を祈る調伏法であるが、この修法は賊軍となった平氏軍の調伏だけでなく、義仲の京からの追放をも意図していた。

9月18日

・北陸宮(6)、後白河法皇に迎えられ加賀から帰京。復権。入京後は以仁王の三条高倉御所に入り、高倉宮を通称とするようになる。皇位継承問題は結論が出ており、政治的に無害な存在となっていたので、身の安全は保証されていた。

9月19日

・後白河院は西に向かって出陣しない義仲を御所に呼び出し、平氏が西国を荒らしているので討伐するよう厳命し、節刀を授けた。

院は「平家追討」を名目に、義仲を遠ざけ、密使を送ってきた頼朝に接近。

この頃、義仲にとって八方塞がりの状況。東の朝は上洛準備に入っており動向には目が離せない。長門国で勢力の立て直しに成功した平氏の先鋒は、淡路国まで再進出している京都の政局は不安定で、後白河院の政略によって義仲は常に揺さぶられている。

ここで、後白河院は政局を大きく変える強烈な一手を打ったことになる。

9月20日

・義仲軍、樋口次郎兼光を都に残し、平家追討のため山陽道へ向う。

「伝聞、義仲一昨日参院す。御前に召され勅に云く、天下静かならず。また平氏放逸し、毎事不便なりと。義仲申して云く、罷り向かうべくんハ、明日早天向かうべしと。即ち院手に御劔を取りこれを給う。義仲これを取り退出す。昨日俄に下向すと。」(「玉葉」同21日条)。

「人伝えに云く、行家を追討使に遣わすべきの由、院より再三義仲に仰せらる。義仲左右を申さず、俄に以て逃げ下る。行家を籠めんが為と。」(「玉葉」同23日条)。

樋口兼光、源行家が後白河法皇に義仲を讒言、北陸道支配権が頼朝に与えられる動きあり、と義仲に伝える。

9月27日

・法金剛院領の越前今立郡河和田荘で、義仲に従う河合系斎藤氏の検非違使友実が、地頭下司と称して預所女房美濃局から荘務を奪ったとして訴えられ、この日、後白河院庁下文によって乱妨を停められる。


つづく

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