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1901(明治34)年
9月30日
9月30日 この日付け子規『仰臥漫録』。
「昨夜十二時過ようよう寝る
眠(ねむり)さむ 上野の梟鳴く どこやらの飼鶴(かいづる)鳴く 牛乳の車通る 隣の時計四時を打つ
明方僅に眠る 睡眠足らず
(略)
中田氏新聞社よりの月給(四十円)を携え来る
明治二十五年十二月入社月給十五円 二十六年一月より二十円 二十七年初め新聞『小日本』を起しこれに関することとなりこれより三十円 同年七月『小日本』廃刊『日本』の方に帰る 同様三十一年初め四十円に増す この時は物価騰貴のため社員総て増したるなり」
(「病室前の糸瓜棚 臥して見る所」の絵あり)
「余書生たりしときは大学を卒業して少くとも五十円の月給を取らんと思えり その頃は学資とりつきの月給は医学士の外は大方五十円のきまりなりき その頃の五十円といえば今日の如く物価のの高きときの五十円よりは値打ち多かりしならん さて余が書生時代の学費はというに高等中学在学の間は常盤会の給費毎月七円をもらい大学在学の間は同給費十円をもらいたり(この頃は下宿料余円が普通なり) されど大学へ入学以後は病身なりしため故郷よりも助けてもらいし故一ヶ月十三円ないし十五円を費やしたり しかるに家族を迎えて三人にて二十円の月給をもらいしときは金のするはいうまでもなく故郷へ手紙をやりて助力を乞えば自立せよと伯父に叱られさりとて日本新聞社を去りて他の下らぬ奴にお辞誼(じぎ)して多くの金をもらわんの意は毫もなく余はあるとき雪のふる夜社よりの帰りがけお成道(なりみち)を歩きながら蝦蟇口に一銭ののこりさえなきことを思うて泣きたい事もありき 余はこの時まだ五十円の夢さめず縦(よ)し学資たらずとも五十円位は訳もなく得られるものと思えり されど新聞社にては非常に余を優遇しあるなり 余はかくて金のために一方(ひとかた)ならず頭を痛めし結果ついに書生のときに空想せし如く金は容易に得らるるものに非ず 五十円はおろか一円二円さえこれを得る事容易ならず 否一銭一厘さえおろそかに思うべきに非ず こは余のみに非ず一般の裏面に立ち入らば随分困窮に陥り居る者少からぬようなり 五十円など到底われらの職業にては取れるものならずということを了解せり 金に対する余の考えはこの頃より全く一変せり これより以前には人の金はおれの金というような財産平均主義に似た考えを持ちたり 従って金を軽蔑し居るしがこれよりは以後金に対して非常に怖ろしきような感じを起こし今まではさほどにあらざりしもこの後は一、二円の金といえども人に貸せというに躊躇するに至りたり
三十円になりてようよう一家の生計を立て得るに至れり 今は新聞社の四十円とホトトギスの十円を合せて一ヶ月五十円の収入あり 昔の妄想は意外にも事実となりて現れたり 以て満足すべきなり」
10月
朝鮮、朴斉純外相来日、中立化案を打診
10月
坪内逍遙「馬骨人言」(読売新聞)
10月
月末、南方熊楠、勝浦~那智に移る。ここで菌類・藻類の採集に明け暮れる。
冬、那智・一の滝の下で小畔四郎(当時日本郵船に勤め、生涯熊楠の門弟として粘菌研究に協力)と知合う。後、小畔は、航海寄港地採取した標本を熊楠に送り、経済援助もする。また、親友上松蓊を紹介、上松も物心両面から研究支援をする。那智滞在4ヶ月、和歌山に一旦戻る。
10月
米、インディアン5部族に市民権付与。
10月
第1回国際労働組合会議開催(コペンハーゲン)。
10月
ハーグに常設仲裁裁判所設置。
10月
ベルギー議会、失業者基金設立。
10月
舞鶴鎮守府開帳。長官は海軍中将東郷平八郎。
10月1日
関西美術会、第1回展覧会を京都御苑内で開催。
10月1日
関税定率法及付属輸入税表一部改正、酒造税法中改正、酒精及酒精含有飲料税法、麦酒税法、砂糖消費税法、それぞれ施行。
10月1日
京大・三高・京都府教育委員会共催の風俗改良演説会開催。板垣退助らを招き、岡崎博覧会館で。聴衆は4千人。
10月1日
鉄幹(28)と晶子(23)、木村鷹太郎の媒酌により結婚(入籍は明治35年1月13日)。
10月1日
英、共済組合事務局会議開催。政府に国民年金導入を求める議案を、満場一致で決議。
10月1日
アフガニスタンのアミールのアブドゥル・ラフマーン、没。
3日、ハビーブッラー・カーン、即位(~1919)。
10月2日
10月2日 子規に宛てて中村不折からパリ到着を知らせる葉書が届く。
「不折は六月二十九日に出発、八月十五日頃パリに到着した。ハガキは八月二十日頃に投函したのである。
トゥルディエ衝のホテルに落着いた、同宿の日本人が九人いる、部屋代五十フラン、食費百フラン、と知らせてきた。当時のレートは二フラン一円であった。不折は後便でラファエル・コランに師事したといってきたが、その束修(そくしゆう)のほかに諸雑費がかかる。現在の金員に直して月に百二十万円程度は必要で、それでも相当な倹約生活であった。パリの高い物価と弱い円のせいである。だが、官費留学ではない不折は、渡航費用も含めた全経費を画業だけで稼ぎ出していた。
(略)
子規が浅井忠に紹介されて不折と会ったのは明治二十七年三月、神田淡路町の新聞「小日本」編集部の楼上であったが、子規は当時、洋画に対して懐疑的であった。編集者としての子規がもとめていたのは、すぐれた「画工」だったからである。しかし不折が持参した見本を見て、洋画家への認識をあらためた。それから半年ほど、不折と東京市内の展覧会を見て歩いた。上野で雪舟の屏風を見たとき、素人目にはつまらぬ絵を、不折が「結構布置(けつこうぶち)」と何度もいうのに子規は驚き、かつ悟るところがあった。
不折に教えられ得られた眼力が身動きならぬ病人をどれほど慰め得たか、と子規はしみじみ回想した。
中村不折は刻苦の人である。一日中飲まず食わずで勉強することさいさいで、人に仕事を頼まれればことごとく引受け、また期日を誤ることがなかったので、書肆は大いに重宝がった。そうやって貯めた金で明治三十二年には、子規庵から程遠からぬ場所に住居と画室を建てた。さらにその後二年を経ず、独力でフランス留学を果たしたのである。
・・・・・不折は背が低くて顔は鬼のようである。髯はぼうぼうだ。生来耳が悪いから声が大きい。それでいて熱血の論客で、程のよい話し方というものを知らない。子規はその面影を脳裏に浮かべつつ、意気軒昂はよいが、弱者後輩をむやみに軽蔑するな、耳が遠くて人の話を誤解しがちであると承知せよ、他者の対話にわりこむな、と不折宛の手紙に書いた。そして、西洋では広く見物し、うまいものを食べて太って帰れ、あまりあくせく勉強すると上手になりすぎるぞ、と付け加えた。
浅井忠、不折、それから漱石、みな欧州へ行ってしまった。叔父加藤拓川にも政府から欧州勤務の話がきているようだ。自分だけが六尺の病床に釘付けされて日夜苦しんでいる。子規は遠い空の下にある友人たちを思って悲しんだ。」(関川夏央、前掲書)
10月2日
英海軍初の潜水艦、就役。
つづく