2025年12月30日火曜日

旧統一教会「自民だけで290人応援」と韓鶴子総裁に報告か、内部文書に山上徹也被告の「会員記録を削除」とも…韓国紙報道(読売) / 「安倍首相、選挙支援に非常に喜んだ」旧統一教会、内部報告文書で言及(ハンギョレ新聞) ;  ■高市早苗首相の名前も32回登場 / 徳野元会長は安倍元首相と同席した自民党の萩生田光一幹事長代行(当時)にエルメスのネクタイも贈呈       

 

 


 記事のうち日本に関係の深い部分をDeepLで訳した。

この通りならば、安倍政権の時に、統一教会による日本の政治乗っ取りが進行していたって解釈になるのかな。それにしても。

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海底トンネル推進幹部への「日本式政治家管理法」教育の経緯

「自民党議員290人の選挙応援」…日本モデルを韓国に移植する夢か

安倍氏と会い支援要請受け「最低20万票」…高市氏も32回言及

ソウル市長補欠選挙前に「村事業・住民委員『撃破』」組織固める


(ソウル=聯合ニュース) イ・ウィジン、チェ・ウォンジョン記者 = 警察が確保したとされる3千余ページに及ぶ統一教内部文書には、統一教が日本の選挙に対応した状況も詳細に記されていた。日本に定着させた「政教癒着」モデルを韓国に移植しようとしたのではないかとの分析が出ている。

28日、統一教内部文書である「TM(True Mother・真の母)特別報告」によると、徳野栄治前統一教日本協会長は2018~2022年、韓鶴子総裁と尹永浩前世界本部長に計222回報告した。

統一教組織は中・参議院議員や自民党総裁など選挙局面ごとに動向を把握するのに忙しく動き、「応援」する候補を選別した。地域区ごとに数万人に及ぶ組織的な「票の集中」が行われる一方、後援に積極的に関与した状況も捕捉された。

徳野前協会長は「『選挙応援』を通じて国会議員や自民党トップクラスの重鎮幹部たちとより深い信頼関係を築いていくことが最も現実的で効果的な『アプローチ』だ」とし「日韓トンネルプロジェクトが社会的影響を与えられるよう組織的戦略を駆使しながら推進したい」と述べた。

2021年の衆院選直後には「我々が応援した国会議員の総数は自民党だけで290名に達する」と総裁に報告したこともある。

安倍晋三前首相も参院選を20日ほど控えた2019年7月2日、統一教関係者らと20分間面会し、故郷の友人である北村恒夫候補への応援を要請した。

徳野前会長は「(安倍首相が)北村恒夫議員を我々の団体がどこまで応援するか決意を聞きたがっていた」とし、「『これまでの票は10万票だったが今回は30万票を目標とし、最低20万票は死守する』と宣言すると、非常に喜んで安心しているようだった」と伝えた。

彼は安倍前首相に「今後も日本をより正しい方向に導いてほしいという激励の意味」として高級ネクタイも「贈呈」したという。文書は2021年11月、統一教会に近い議員12名を挙げ、安倍前首相を筆頭に掲げたこともあった。

文書には高市早苗現首相の名前も32回言及された。2021年の初の自民党総裁選挙出馬時には「安倍首相が強く推薦しており、神奈川県の後援会が我々と親密な関係にある」とし「(高市氏が)総裁になることが天の最大の願い」と記した。

文書は日本に「政教癒着」モデルを根付かせようとする野心を隠さない。選挙に積極的に介入して自民党に影響力を行使すると同時に、内閣にも参加して日韓海底トンネルなどの懸案を推進するという構想だ。

2018年12月当時、嶺南圏を担当した統一教5地区長の朴某氏は、地区幹部ら10数名とともに日本を訪問し、徳野前協会長と会った。朴氏は「政治家復帰のための組織的な投入と過程、結実についての説明を受けた」と報告した。

全在洙前海洋水産部長官が金品を受け取ったと指摘された時期に、5地区は当時、韓日海底トンネル実現を目標に活発に動いていた。

徳野前会長は「日本は政治家と『コンタクト』(連絡)を取り後援会を結成し、時には政治家を教育し我々のイベントに参加させる」とし「韓国ではまだ『ギブ・アンド・テイク』関係が模索中であり確立されていないため、非常に刺激的だった」と伝えた。






 

今年もいよいよ押し迫ってきた 近くのお寿司屋さんで晩ごはん 2025-12-29

 12月29日(月、昨日)晴れ

昼間、年末特有のあれこれ忙しかったので、夜は帰省中(東京から)の次男をいれて、近くのお寿司屋さんですませた。

タイミングよく、マグロは今日解体したばかりのものだった。

お酒も戴いたけど(八海山と浦霞)、長居しないで一時間半で撤収した。

お蔭で体重にさしたる変化なく終わって、これは良かった。





大杉栄とその時代年表(724) 1907(明治40)年4月5日~11日 有島武郎(30)神戸着、帰国。神戸港には父の有島武が来ていた。 武は、この年、数え年66歳、母幸子は54歳であった。武郎は長男で、その下に愛子、壬生馬、志摩子、隆三、英夫、行郎の7人の子供があった。

 

有島三兄弟(武郎、壬生馬、里見弴(英夫))

大杉栄とその時代年表(723) 1907(明治40)年4月1日~4日 漱石入社の辞 「大学を辞して朝日新聞に這入ったら逢ふ人が皆驚いた顔をして居る。中には何故だと聞くものがある。大決断だと褒めるものがある。大学をやめて新聞屋になる事が左程に不思議な現象とは思はなかった。余が新聞屋として成功するかせぬかは固より疑問である。成功せぬ事を予期して十余年の径路を一朝に転じたのを無謀だと云って驚くなら尤である。かく申す本人すらその点に就ては驚いて居る。」 より続く

1907(明治40)年

4月5日

東京市電気事業開業。

4月5日

大杉栄「ザーメンホフ博士とエスペラント(一)ザーメンホフ博士よりポロヴコ氏に与へたる私書の一部」(「日本エスペラント」2巻1号)

4月6日

この日の『平民新聞』紙上で、堺、幸徳の連名で「平民社の財政甚だ裕(ゆたか)ならず大いに節約の必要」があるため、両人は社の実務を離れ給与を辞し、竹内兼七が代って経営に任ずる旨を報告。

「元来本社の営業は、家屋と器機と活字とを竹内より借り、三千余円の出資金を流通資本としたのでありますが、廃刊の今日に於ては既に二千余円の負債を生じて居ります」と「謹告」。

4月6日

午前11時、控訴院第二部で大杉栄「神兵諸君に与ふ」発禁事件判決。新聞紙条例第3条(秩序壊乱)違反で軽禁錮1ヵ月となる。地裁判決と同じ。判決を受け入れるが、4月10日、大審院に上告される。

4月7日

大杉栄、夕方、平民社楼上(京橋区新富町6の7)で開かれた「山口孤剣君大杉栄君入獄送別会」に出席。親子丼がでる。参加者は、熊谷千代三郎、ウノーダブルコ、山崎今朝次郎、岡千代彦ら。

4月8日

幸徳秋水(35)、「鎌倉より」(「日刊平民新聞」~11日迄連載)。

4月8日

午前9時、石川三四郎が「青年に訴ふ」に関して、地方検事局の牧野から呼び出され、出頭する。

4月8日

英仏協定によりシャムの独立承認。英仏勢力範囲を確立(メナム川西部は英、東部は仏の勢力圏)。

4月9日

石の随筆「京に着ける夕」(「大阪朝日」9~11日)。大阪朝日創刊9千号記念号。漱石招聘を言い出したのは大阪朝日の鳥居素川だが、大阪朝日社主村山の大阪朝日入社の要請にも拘らず、漱石は東京朝日入社を選ぶ。京都旅行で素川と会った漱石は、素川の苦境を見て、大阪朝日だけに寄稿する。

4月9日

幌内炭鉱暴動

4月9日

東京神田区在郷軍人団創立会。初の在郷軍人団。800余人参集。

4月9日

第16師団の京都設置について、市外深草村・大宮村の誘致競争開始。深草に決定、1908年11月16日に同師団移駐。

4月9日

神戸海上運送火災保険株式会社創立。

4月9日

夜、堺利彦宅で山口(孤剣)君大杉(栄)君(入獄)送別会」を開く。大杉栄、堀保子と出席。

4月10日、検事長倉富勇三郎が上告し、入獄延期となる。

4月10日

中国、川漢鉄道を民営とする。

4月10日

日露樺太境界画定書調印。9月10日公布。

4月10日

東京市、『東京案内』(上・下)編纂刊行。

4月10日

京都府紀伊郡深草村小作人60人、師団新設用地買収費に関し、坪当たり20銭の補償を要求、郡役所に屯集。7月26日再び屯集。

4月10日

官立医学専門学校規定制定。

4月10日

(漱石)

「四月十日(水)、雨後晴。取材のため奈良に行く途中の高浜虚子から使い来て、訪ねてよいかという。「まだ居ります。すぐいらっしゃい。但し男所體だから御馳走は出来ませぬ。御馳走御持参は御随意。」と返事をもたせる。高浜虚子、狩野亨吉の家に来る。書生、昼食に精進料理の準備をしたが、高浜虚子に誘われて、人力車で山端の平八茶屋に行き、鮒の刺身や諸子魚(もろこ)の焼いたもの鯉の羹・鰻など出る。昼食を共にする。他に客いない。萬屋(三条小橋西。高浜虚子が宿泊する)に寄り、高浜虚子と共に入浴する。湯殿には大きい鏡があり、漱石の卓あり、四壁には硝子がはめられ、穏やかな春の光さし込む。浴槽は新しい白木である。道後温泉の思い出など取り止めない話を長時間する。(高浜虚子)夕食後、花見小路で都踊りを見て、萬屋には戻らず、一力でも踊りを見て、千賀菊と玉喜久(共に十三歳)と四人で雑魚寝する。(保津川・比叡山などの遊覧は『虞美人草』の素材になる)

四月十一日(木)、赤口。午前六時頃、高浜虚子と共に、一力を出る。千賀菊・玉喜久に見送られる。萬屋に戻る。午後八時二十分、七条(京都)停車場発の列車で出発する。」(荒正人、前掲書)

4月10日

仏の医学者、赤痢治療用の新血清の発見を発表。

4月11日

有島武郎(30)、神戸着、帰国。数え年26歳の8月から30歳の4月まで3年半

神戸港には父の有島武が来ていた。

この当時、武は東京の麹町下六番町に長屋門のある大きな邸を構えていた。若い時から大蔵省にあって、横浜税関長、国債局長を勤めたが、上司と政治上の意見が合わず、明治26年に退官する。そのあと一家は窮乏したが、そのうち松方正義に推薦されて十五銀行の重役となり、日本郵船会社や日本鉄道会社の重役も兼ねた。その頃から経済状態が立ち起り、明治28年、麹町区下六番町十番地の角に500坪ほどの旗本屋敷を買い、やがて隣接地700坪を買って、そこに立派な庭園を作った。

武郎の父武は、この年、数え年66歳、母幸子は54歳であった。武郎は長男で、その下に愛子、壬生馬、志摩子、隆三、英夫、行郎の7人の子供があった。

武は薩摩藩の川内の出で、大蔵省官吏となり、明治11年には海外に派遣された。彼ははじめ園田男爵家の娘を、次に寺島伯爵家の娘を妻としたが、二度とも離別に終った。そのあとで彼が結婚した山内幸子は、南部藩の江戸詰めの武士の娘であったが、維新後零落して、母静子、弟英郎と苦しい生活を経験していたので、しっかりした女であり、賢夫人と言われた。武と幸子の結婚の媒酌をした太田時敏も南部藩士で新渡戸稲造の遠縁の者であった。

幸子の弟で、山内家の嗣子であった英郎は、明治21年、大阪府収税部の検税課長をしていたが、数え23歳の時、突然脳溢血で死んだ。英郎の死んだ2日後の7月14日、幸子は4人目の男の子を産んで、英夫と名づけられた。英夫は出生と同時に山内家を襲い、そのまま有島家で育てられた。山内家は英郎の母静子が残っているだけであり、静子も間もなく有島家に同居するようになった。静子は宗教心の深い、女丈夫というべき女で、武郎や愛子を一時その麹町区下二番町の家に預って養育し、糖神的な感化を与えたが、英夫もまた同居してからこの祖母の影響を強く受けた。静子は英夫が12歳になった明治32年に死んだ。

有島武は、国粋主義と欧化主義との混った教養を持っていた。横浜税関長の頃は、欧化思想が最も強くなっていた。彼は武郎と愛子とを外人宅に預けて英語を学はせ、妻幸子を教会にやり、またダンスを習わせ、語学を学はせた。横浜税関の新築祝いには、大臣や諸外国の大公使が参列したが、そのとき幸子は洋装して踊った。その頃の横浜は東京よりもはるかに洋風な町で、毎晩のように舞踏会が開かれていた。

しかしその後、武は国粋主義に戻り、子供に厳しい武士的教育をはじめた。武は偏執的なほど物事に熱中する性格で、直観力が強く、独創的な考え方をする人間であった。何かを考え出すと2日も3日もそれに集中して、人と話もしなくなり、時にはそういう状態が続くうちに失神することがあった。

しかし武にはユーモラスな面もあって、自分の言葉が国訛りで、有島をアイシマと発音したことから、長女を愛子と名づけ、次女を志摩子と名づけた。

幸子は才女で、感情の強い頭のよい女で、和歌や絵を習い、会話は率直で人を引きつける魅力があった。時には宣伝的になるほど一種の政治的才能を持っていた。怒ったり泣いたり、ヒステリーを起したりもしたが、それが過ぎると自己批判をし、実際的に事を処理して誤ることがなかった。幸子の友人には、新渡戸稲造の実姉の河野象子があり、中沢弘光の母信子があり、また阿部華厳の母優子があった。

山内英夫は四男であったが、生れてからあと5年あまり下の子がなかったので末っ子として母の懐を独占し、兄や姉たちにいつもはやし立てられた。彼の名前は、死んだ叔父で山内家当主英郎を生かしたものであった。彼が数え8歳のとき、父は日本鉄道会社に入ったので、一家は東京の赤坂氷川町に移り、英夫は赤坂の仲ノ町小学校に入った。同級生に辰野隆(辰野金吾の息子)がいた。その小学校には2学期ほどいたばかりで、四谷見附そばの学習院の初等科2年に転入した。クラスには皇族が5人いた。皇族は外の生徒と違って海軍士官のような金モールの制服を着て、課業中も家従が教室についていた。そして一番から五番までは常に皇族が占める習いになっていた。この学校は、初等科が6年、中等科が6年で、一般の小、中学校より1年だけ修業年限が長かった。一般に平民の子は入れないのだか、兄武郎も壬生馬もここを出たので、彼は学校に早く慣れ、3、4年生の頃には悪戯っ子の一人になっていた。彼の相棒は久邇宮稔彦王で、よく二人で居残りを食った。

中等科には行軍があって、二三泊の野外演習に生徒たちは鉄砲をかついで出かけた。あるとき、四級か五級上にいる志賀直哉という生徒が、報道部という腕章を巻き、鉄砲を持たずに自転車で駆けているのを見て、英夫はうらやましいと思った。英夫は作文、図画、英語などは好んだが、歴史と数学は嫌いで、かつかつ及第するような点をとり、席次はびりから数える方が早かった。不得手の学課にカンニングをやり、時々現場を押さえられた。

彼は巌谷小波のお伽噺、森田思軒訳の「十五少年の漂流」などに熱中し、また村上浪六、村井弦斎、黒岩涙香の小説を読んだ。数え13歳で中等科に進む頃、彼は長兄武郎や次兄壬生馬の影響を受けて、もっと高級な文芸作品に親しんだ。この年彼は徳富蘆花「思出の記」を一夏かかって読んだ。その夏母の郷里の盛岡へ連れられて行ったが、そこに11,12歳の少女がいた。その少女に彼は、「思出の記」の主人公慎太郎の敏子に対するような恋心を覚えた。彼は尾崎紅葉の「金色夜叉」を兄の書棚から取り出して読み、また泉鏡花の作品は特に好きで、中等科時代ずっと読みつづけた。壬生馬は英夫を愛して、どこへでも連れて歩いた。それで壬生馬と仲のいい志賀直哉ともよく一緒になった。"

壬生馬は英夫の六つ年上、志賀直哉は五つ年上であった。しょっちゅうこの二人について歩くうちに、英夫は文学のみでなく、音楽会、芝居、寄席などへ行くことを覚えた。志賀直哉は落語の馬楽(ばらく)が好きで、明治39年、「吾輩は猫である」が出ると、それをわざおぎ浅草の馬楽の自宅まで持って行ってやった。英夫は志賀と親しかっだが内村鑑三のところへは行かなかった。それは武郎が札幌農学校でキリスト教に入ったのを両親が怒っていたせいもあった。英夫は特に落語に凝って、円喬、円右、小さん、小せんなどの噺に陶酔した。

彼は中等科の時代、壬生馬にすすめられて、英訳で「クオレ」を読んだが、明治39年数え19歳で高等科に進むと、トルストイ「復活」を英訳で読んだ。トルストイは長兄の武郎にすすめられたからであった。また彼はゴルキーの「チェルカッシュ」を丸善で取りよせて読み、それに熱中した。

明治40年4月、武郎が帰国したき、山内英夫は数え20歳になっていて、ゴルキーに熱中している頃であった。彼は前年から学習院の「輔仁会雑誌」編輯委員になり、全く文学青年になっていた。


つづく



2025年12月29日月曜日

NECが4G・5G基地局の機器開発中止、国産化後退 防衛用は継続(日経) / ファーウェイは世界で一番通信技術開発に投資してきた結果。5G、6G技術特許もダントツで多い。日本企業は技術開発への投資をケチっておいていかれただけ。


〈全文〉

れは静かに衝撃。NECが通信基地局の開発を断念。日経記事、スクープと思います。

NECには経済誌記者時代の2007年、当時の基地局担当執行役員に「中国ファーウェイの攻勢をどう見ているか」と直撃したことがあります。

その際の答えは、「われわれNECをファーウェイなんかと比べるなど、不勉強も甚だしい」。お怒り含みでした。

確かに当時のファーウェイの世界シェアは3%程度ではありました。

しかしすでに明確に世界での台頭を企図し、EMEAでは猛烈な拡大戦略を仕掛けていました。

その後確か2018年ごろ、別のNEC執行役員に改めて尋ねると「ファーウェイには敵いませんよ」。

そして今、ファーウェイの世界シェアは34%、対して日本勢は1.4%。NECは通信基地局の開発を止めるのだと。ハイテク製造業において開発をしないことは、長期的にはその市場からの退出を招きます。

なぜ今の事態が2000年代に予見できなかったのか。本当のところ予見できていたとしたら、なぜ国内海外同業との連携など手を打てなかったのか。

通信技術は半導体と並んでクリティカル。

「どうせ」「今さら」と斜に構えず、失敗の研究が必要と思います。

 


〈全文〉

ファーウェイのスタートは富士通のOEMからでした。便利な下請けがファーウェイの起点です。

しかし現在では日本勢は歯が立ちません。

何故か?それは通信技術?

もう少し踏み込んで言えば専用LSIの開発能力の差です。通信会社の通信方式は各社様々で、日本勢は汎用プロセッサを使いソフトウェアで違いを吸収してきました。ファーウェイは各社毎に専用LSIに処理を組み込む事で処理を行います。性能の違いは明らかで、消費電力も設置スペースも1/10、部品点数も圧倒的に少ないので信頼性も高い。

通信機器だけではありません。家電もロボットもドローンも兵器も、電子装置が性能や付加価値を主導します。日本が早急に取り組むべきは、LSIの設計技術の復興です。

現状の日本企業の惨憺たる状況

黒田先生の悲痛な叫びにもっと耳を傾けましょう     






 

台湾有事巡る高市首相答弁、「質問した方が悪い」はSNSでどのように広がったのか 外交問題の裏で盛り上がる「事実の2次創作」【データ・インサイト】(共同)

 

予算膨張、「責任」示せず 積極財政に市場が警鐘 歳出改革、効果期待外れ(時事) / (社説)防衛費9兆円台 急拡大が生むひずみ(朝日) / [社説]責任の視点欠く過去最大の予算案(日経) / 防衛費が初の9兆円超 禁じ手の「借金頼み」2026年度も続く 半分以上が兵器購入ローン返済 当初予算案(東京) / 金融市場の金利上昇、円下落が意味するものは…高市政権の「積極財政」への警告 借金頼みに「限界」が迫る(東京)



 

すぐバレる小細工は、かえって市場の信頼を失う → マクロスコープ:高市氏が予算案で講じた「会計操作」、国債発行抑制を強く意識(ロイター) / 国債依存度低下のカラクリ 知恵絞った財務省、膨らむ高市政権の予算(毎日) / 国債30兆円超え回避に奇策 26年度予算案、地方交付税を7000億円減額(日経) / これはマーケットをごまかそうという政府のチィーティングにしか思えない。私の印象は「こりゃひどい。そこまでの奇策がいよいよ必要になったか」だ。(藤巻健史) / このような小手先の会計操作は逆効果で、財政への信認を低下させる。先週金曜日の時点で、この事実に気づいた海外勢は少ないと思われ、今週または年明けの債券市場や為替市場への影響が懸念される。 / 国債の30兆円超えを回避するために、減収分を一般会計から特別会計に付け替えた事は毎日新聞も報じている。姑息な誤魔化しとしか言いようがなく、どこが「責任ある積極財政」か?ただ、高市政権がそれだけ市場の評価を気にしている事の裏返しでもある。          

 


〈全文〉

国債発行額を30兆円以内に収められたのは、地方交付税を会計操作で減額した奇策、と日経は報じた。同様の指摘は東洋経済でも出ていた。

財政規律への「配慮はうわべだけ」と市場が捉えれば、さらなる金利上昇を招くと日経は指摘した。

このような小手先の会計操作は逆効果で、財政への信認を低下させる。先週金曜日の時点で、この事実に気づいた海外勢は少ないと思われ、今週または年明けの債券市場や為替市場への影響が懸念される。

他にも、高市氏は「補正を含んだ予算」と言及しているが、もしそうなら2025年度の補正予算後の一般会計133兆円から11兆円も減額しなければならない。

補正予算で計上する「税収の上振れ」だけ本予算に取り込んで、支出についてはまた補正予算を組む疑いがある。

市場を欺く会計操作も厭わず、予算さえ乗り切れれば「なんでもあり」との姿勢は、市場に背を向けたように映る。









 

大杉栄とその時代年表(723) 1907(明治40)年4月1日~4日 漱石入社の辞 「大学を辞して朝日新聞に這入ったら逢ふ人が皆驚いた顔をして居る。中には何故だと聞くものがある。大決断だと褒めるものがある。大学をやめて新聞屋になる事が左程に不思議な現象とは思はなかった。余が新聞屋として成功するかせぬかは固より疑問である。成功せぬ事を予期して十余年の径路を一朝に転じたのを無謀だと云って驚くなら尤である。かく申す本人すらその点に就ては驚いて居る。」

 


大杉栄とその時代年表(722) 1907(明治40)年4月 明治40年4月、三木露風(数え19歳)は、早稲田系統の雨情野口英吉(同26際)、御風相馬昌治(同25歳)、介春加藤寿太郎(同23歳)、東明人見円吉(同25歳)等とともに、早稲田詩社を組織した。 より続く

1907(明治40)年

4月1日

南満州鉄道、開業

23日、調査部、設置。

この月、地質課、設置。撫順炭田の地質地形調査開始。

①レールの標準軌化・複線化(ロシアの超広軌、日本の狭軌を採用せず、イギリス式標準軌=広軌を採用)、

②大連中心主義:営口に対抗。英・米は主に営口を利用するが、営口は冬季には氷結(大連は不凍港)。長春~大連を長春~営口と同じ運賃とする(大連の方が218km長いが)。

③文装的武備」旅順に大規模病院・工学堂(旅順工科大学)設立。

4月1日

日清汽船会社設立。上海、漢口線に50万円等総計81万円の政府補助金を支出。

4月1日

寿屋(サントリー)が赤玉ポートワイン(赤玉スイートワイン)を発売。

4月1日

小野吉勝「弱者陣頭に立てり(内村鑑三氏とツラピスト)」(「世界婦人」)。

福田英子を破門した内村の行動をキリスト教社会主義者への挑戦と受け止め、これを攻撃。

4月1日

新聞紙条例及び出版法施行。

4月1日

(漱石)

「四月一日(月)、池辺吉太郎(三山)は、『菓京朝日新聞』に「社告」として、紙面改良を掲げ、その終りに、「序ながら御披露仕候/近々我國文學上の一明星が其本来の軌道を廻轉し来りていよいよ本社の分野に宿り候事と相成居り候、而して小説に雑著に其光を輝かす可く候、何如なる星何如なる光、試みに御猜思下さる可く候、本社の分野には従来燦然たる諸星を宿す、燦然更に燦然たる可く候、右御承知下され可く候(以下略)」と予告する。

四月二日(火)、『東京朝日新聞』に再び、「社告」「(前文略)又昨日の紙上にて新入社の文學者あるべき事を御披露致置候處誰れぞ誰れぞとお尋ね少からず實は本人目下旅行中にて未だ執筆の場合に至らず候間彼の如く申上置候處、強ひてお尋ねに付きては名前をも申上べく候/新入社は夏目漱石君/に候、斯人が如何なる文學者にて如何なる才藻詞品を有し候やは本社が之を知るより以前に疾く御承知の方も有る可く又猶御存知なき方は最早やがて紙上にてお知合と成られ候箸に付、此際別段の鼓吹は仕らず候敬白」と報ずる。(鳥居赫雄(素川)は、この発表を見て、漱石に手紙を書き、「小生の苦心も水泡に帰し候」「實は大兄を擁し同じ堡塁に據り天下を引受勇戦仕度存居候も一躓再躓遂に是に至り」と洩らす)


(紙面改良の内容)

第一に、内外の電報を第二ページに集める。第二に、宮廷・政治・経済上の重要記事は二ぺージに収めきれぬので第三ページから第四ページに掲げる。第三に、社会生活上の雑報はこれまで通り第六ページを中心とする。第四に、文学上の作物・批評はこれまで通りの場所に掲載される。挿絵は全紙に亘り掲げられる。中村不折のものもこれまで以上に力を入れ、また二葉亭四迷も休載しないで発表することになるだろう。」(荒正人、前掲書)  

4月1日

啄木(21)、代用教員の辞表提出(岩本武登助役・畠山亨学務委員は慰留)。

19日、高等科の生徒と村の南端平田野において校長排斥のストライキを指示。村内騒擾。

20日、遠藤校長、岩手郡土淵尋常高等小学校訓導兼校長に転任内示。(6月5日付)。

21日、啄木に免職辞令。    

4月1日

漱石、鈴木三重吉作『千代紙』序〔2月23日執筆(鈴木三重吉に送った手紙をそのまま使う。)〕(俳書堂刊)

4月1日

絵葉書の表面に通信文を許す

4月1日

『家庭生活』5巻6号発行。

大杉栄「婦人諸君に与ふ」を掲載

4月2日

上海、『神州日報』創刊。

4月2日

夏目漱石、東京帝国大学講師辞任(東京帝国大学と第一高等学校に辞表提出)。朝日新聞社に入社。月給200円。年1度100枚ほどの長編小説を書く条件。当時月給の最高は池辺三山で170円(交際費100円が加わる)。二葉亭四迷が100円。3日「入社の辞」掲載。

漱石の月給は200円。賞与は年2回で夫々月給1ヶ月分。三山に次ぐ高給。「東京朝日」創刊以来の古参編輯長で石川啄木の入社を世話した佐藤北江は130円、経済部長松山忠二郎は140円。入社前の漱石の収入は東京帝大講師が年収800円、一高講師が同700円、その他を合わせ1800余円で「朝日の給与は、年額にしてそれより千円も多い」と「社史」は計算している。

4月1日付「東京朝日」二面真ん中に二段分をぶち抜いた「社告」。内外からの電報(速報記事)は今後、二面にまとめて載せる、などの紙面改革を報告し、「序ながら御披露仕候」と別行にして大見出しをたて、「近々我国文学上の一明星が其本来の軌道を廻転し来りていよいよ本社の分野に宿り候事(中略)如何なる星如何なる光、試みに御猜思下さる可く候」という予告をだす。

2日の二面にも社告が載る。末尾に、新入社の文学者は誰かとの問い合わせがあったが、本人旅行中でまだ執筆はできないが、じつは「新入社は夏目漱石君」とここだけ活字を大きくしている。

なお、大朝は、4日の二面の片隅に一段扱いで漱石入社が告知されだけ。

「入社の辞」(改題して「嬉しき義務」)。

夏目漱石「入社の辞」(青空文庫)

「大学を辞して朝日新聞に這入ったら逢ふ人が皆驚いた顔をして居る。中には何故だと聞くものがある。大決断だと褒めるものがある。大学をやめて新聞屋になる事が左程に不思議な現象とは思はなかった。余が新聞屋として成功するかせぬかは固より疑問である。成功せぬ事を予期して十余年の径路を一朝に転じたのを無謀だと云って驚くなら尤である。かく申す本人すらその点に就ては驚いて居る。然しながら大学の様な栄誉ある位置を抛って、新聞屋になったから驚くと云ふならば、やめて貰ひたい」。

「朝日」での担任の仕事は、「只文芸に関する作物を適宜の量に適宜の時に供給すればよいとの事」で、「文芸上の述作を生命とする余にとって是程難有い事はない、是程心持ちのよい待遇はない、是程名誉な職業はない、成功するか、しないか抔と考へて居られるものぢゃない」。

「新聞社の方では教師としてかせぐ事を禁じられた。其代り米塩の資に窮せぬ位の給料をくれる。食ってさへ行かれゝば何を苦しんでザットのイフのと振り廻す必要があらう。やめるなと云ってもやめて仕舞ふ。休めた翌日から急に脊中が軽くなって、肺臓に未曾有の多量の空気が這入って来た」。5月3日

4月3日

森林法改正、公布。1908年1月1日施行。

4月3日

漱石、(談話筆記)(桂月のこと)〔4月3日『東京朝日新聞』〕

4月3日

大杉栄「エスペラント語講義 第一一回」(『語学』)

4月3日

有島武郎の日記

「日本に於て私の将来の職業について熟考した。私は確かに、一個の独立人として、自ら立つ位の能力はある。しかしこれ丈では十分でない。過去の歴史に密接な関係を持ち、将来人道に不離の関係を有するものに、果して私はなり得るだらうか。人は、その真摯な賢明な努力によって、全人類と自らを結びつけた時に於てのみ、初めて不滅である。その他の凡てのもの、祈禱、信仰、行為、他一切は、人を不死-即ち、至幸にするのに決して何の役にも立ち得るものでない。この目的に達するまで、休むなかれ」


4月4日

陸海軍(天皇の軍事に関する最高諮問会議である元帥府会議)、「帝国ノ国防方針」「国防所要兵力」策定。天皇の裁可得る。

陸軍はロシア、海軍はアメリカが仮想敵国。

25個師団・「八八艦隊」(ド級戦艦8隻・ド級巡洋艦8隻基幹)。

財政難・情勢が緊急でないためこの増強計画はすぐには実行されず。当時の陸軍は近衛、第1~16師団の17個師団で、第1~3期にわけて2個師団づつ増強する計画(最初の2個師団増強の後、増設なし)。

4月4日

大杉栄「新兵に与ふ」発禁事件控訴審の第一回公判。同月6日に判決言い渡しとされ、午後2時閉廷。

4月4日

(漱石)

「四月四日(木)、晴。暖かい。東本願寺に赴く。高浜虚子の紹介で、大谷句仏(光演)に会う。枳殻邸(渉成因)を見る。西本願寺にも行き、七条(京都)停車場から梅田(大阪)停車場に向う。大阪朝日新聞社主村山龍平に面会する。大阪ホテルの晩餐会に出席する。鳥居赫雄(素川)やその他十二、三人と夕食を共にする。星野旅館(東区高麗橋詰)に泊る。(『大阪朝日新聞』第一両一段に、夏目漱石の入社を知らせる文が掲載される。)

四月五日(金)、快晴。午前九時二十一分梅田(大阪)停車場発(浜松行)で、京都に向う。十時三十分、七条(京都)停車場着。電車で伏見・宇治・桃山に赴く。「○大坂は気象雄大なり」(日記)

四月六日(土)、雨。『京に着ける夕』執筆する。(推定)

四月七日(日)、晴。午後、嵐山に行く。釈迦堂・天竜寺を見る。

四月八日(月)、嵐山に赴き、保津川を下る。仁和寺・妙心寺・等持院を見る。

四月九日(火)、狩野亨吉・菅虎雄と共に、山端(やまばな)の平八茶毘の傍らを通り、高野村に行き比叡山に登る。延暦寺の転法輪堂(釈迦堂 西塔)・根本中堂(東塔)を見て、坂本に降りる。途中で胃病み、峠の茶屋で湯を飲んで治る。(菅虎雄)「はしり堂」で昼食をし、人力車で大津市へ行き、インクラインで京都市内に帰る。

(4月4日の大阪朝日の記事)

「夏目漱石君/懦弱頽廃漸くに其弊に堪へざらんとする現時の文學界に一味清新警抜なる作品を投じ文名嘖々として一世の耳目を聳動せしめつゝある漱石夏目金之助君は今や其の帝国大學第一高等學校等の教鞭を抛ち進んで吾社の聘に應じて入社し其の抱負と本領とを専ら本紙の上に傾倒し讀者諸君の前に清新警抜なる得意の大作を試みんとす、現下文壇の一明星たる漱石君の作品を味はんとせば請ふ今後の本紙を観よ」


四月七日(日)付大阪朝日新聞社京都支局宛手紙(封筒なし)に、「拝啓別封は来る九日御社發刊に掲載すべき原稿に有之候鳥居君に御約束致候處少々時日後れ至急を要し候につき御手敷くながら此旨本社へ電話にで御通知の上使にて同君手元迄御届被下底願上候先は用事迄 早々頓首」と書く。この手紙は、『京に着ける夕』の原稿に添えて、使いの者に届けさせたと推定される。」(荒正人、前掲書)


つづく

2025年12月28日日曜日

石破元総理「なんで我が党は、リベラル デモクラティック パーティー自由民主党って言うんですか?とういうことをもう一度再認識するのは大事なこと。どうも今の感じは『リベラル=左翼』みたいな感じになっちゃって、それは違うでしょ💢」 / 高市首相になったら「ブレーキかかった」 戦中、政府・軍部を糾弾した「反軍演説」 削除部分の復活進まず(東京) / 石破茂前首相「どんなに立派な戦車持ったってね、食料自給率38%ですよ」 改めて農政改革へ持論(スポニチアネックス)       

「何でこんなに下がるのか」鈴木宗男氏が声を荒げたが予算増えず 沖縄振興は自民主導、玉城県政を置き去り(沖縄タイムス)

保守的なケンタッキー州の上院選挙で、民主党ゲイリー・クレモンズ候補が圧勝

大杉栄とその時代年表(722) 1907(明治40)年4月 明治40年4月、三木露風(数え19歳)は、早稲田系統の雨情野口英吉(同26際)、御風相馬昌治(同25歳)、介春加藤寿太郎(同23歳)、東明人見円吉(同25歳)等とともに、早稲田詩社を組織した。

 

三木露風

大杉栄とその時代年表(721) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳⑥終〉 大正4(1915)年 「先生あんたはんは女子はんにおほれやしたことおすか」と尋ねたことがおした。 すると先生は一寸真面目な顔で、「僕だつてあるさ」とおっしゃってどしたわ。(磯田多佳) より続く

1907(明治40)年

4月

韓国、新民会結成

1906年末頃、サンフランシスコの抗日運動団体共立協会の安昌浩、李剛(イ・ガン)らが新民会結成に合意し、大韓新民会趣意書及び通用章程を起草。

1907年2月、米国から安が帰国し、同志を募る。勧誘された梁起鐸(ヤン・ギタク)が公開結社を提案したが、最終的に秘密結社とする案に賛同。

4月、漢城府で新民会を結成。総監督(党首)には梁起鐸、総書記に李東寧(イ・ドンニョン)、会計は全德基(チョン・ドッキ)、会員の資格審査を担当する執行員に安昌浩。李東輝(イ・ドンフィ)など他の創建委員は各道の総監を務めた。

当時の愛国啓蒙団体の主要メンバーが多く参加し、啓蒙運動の中枢的機関となり、1910年頃には会員数が約800人に達した。機密漏洩を防ぐために入会審査は厳重に行われ、入会時には誓約の儀式まで行われた。

1911年、組織壊滅を狙った朝鮮総督府により、のちに105人事件と呼ばれる大規模な弾圧事件が起き、関係者数百名が検挙されて事実上解体。(Wikipediaより)

4月

韓国、ハーグ密使事件。

初め、ホーマー・ハルバート、朝鮮に戻り、高宗にハーグへの密使派遣を提案。2人は前議政府参賛の李相萵(イ・サンソル)を選ぶ(北間島に移住農民のための「瑞甸書塾」を開いた近代教育の創始者)。つぎに、前平理院検事李儁が名乗り出る。

4月2日、イ・サンソルが、続いて李儁が出国

5月8日、ハルバートもハーグへ向かう。イ・サンソルと李儁はウラジオストクで合流、ペテルブルクに向かう。ペテルブルクで前ロシア駐在公使李範晋と会い、各国語に通じる前公使館付参事官李瑋鐘(李範晋息子)を同行するよう勧められる。

4月

樺太庁設置、初代長官は樺太守備隊楠瀬幸彦(陸軍大将)が兼務。初代長官以外は文官が就任。

4月

「新報」第2代主幹天野為之、引退、編集・営業一切を植松考昭(31)・三浦銕太郎・松岡忠実・松下知陽に託す。4名は合名会社を組織、植松が代表社員・主幹となる。

植松考昭:

1876(明治9)年彦根藩士の家に生れる。1896年東京専門学校卒、1898年「新報」社入社。在学中より片山潜と交際。1897年11月、片山・高野房太郎らが「労働世界」を創刊すると記者となる。「新報」社入社後も「労働世界」に起稿、「新報」にも片山論文を掲載。1909年夏、片山を「新報」社に入社させる。1912年(大正元)年9月に急逝(36歳)するまで「新報」の急進的自由主義の原型を確立。元老政治を批判(藩閥官僚・政党ともに憲政の敵手たる元老政治の支柱となっている)。論説「議院改革」(3月5日~4月15日)で普選を要求。

4月

田中正造・福田英子ら5名、栃木県収用審査会に意見書提出。

4月

新村忠雄、上野の東京勧業博物会見学の際、京橋区新富町の平民社を訪問、始めて幸徳秋水と会う。

新村忠雄:

明治20年4月26日生まれ。埴科郡屋代町の高等小学校卒業、1年間補習科。明治38年3月、17歳で上京、浅草須賀町のキリスト教会で過す。39年5月帰郷、養蚕を手伝う。40年1月15日、「平民新聞」創刊後ただちに定期購読。

4月

税法整理案審査会開く。会長大蔵大臣坂谷芳郎。

4月

栃木県に安蘇郡立佐野高等女学校(現・栃木県立佐野東高等学校)開校。

4月

東京で2番目の映画常設館、神田新声館、3番目の浅草三友館が開業。

4月

岩野泡鳴「自然主義的象徴詩論」(「帝国文学」)

4月

早稲田詩社、結成

三木露風は尾上柴舟の車前草社に入って短歌を作っていたが、その志は詩作にあった。彼は明治39年10月、「雨ふる日」、「古径」、「鐘鳴る昼」等の連作を上田敏の「芸苑」に発表した。「芸苑」は、明治35年2月上田敏が文友館から出し、一冊きりで廃刊したが、明治39年1月から、馬場孤蝶、生田長江、森田白揚等とともに再興して左久良書房から刊行していた。三木露風は明治38年10月に出た上田敏の「海潮音」の影響を受けたが、上田敏もまた露風の才能を認めて、明治40年に入ると、毎月のようにその作品を「芸苑」に載せた。

三木露風は「芸苑」に作品を発表するとともに、尾上柴舟の車前草社から離れて、詩作に専念するようになった。明治40年4月、三木露風(数え19歳)は、早稲田系統の雨情野口英吉(同26際)、御風相馬昌治(同25歳)、介春加藤寿太郎(同23歳)、東明人見円吉(同25歳)等とともに、早稲田詩社を組織した。露風以外の4人は、人見束明が明治38年11月から麻生茂という醸造家の出資で出していた詩の雑誌「白鳩」に執筆していた。「白鳩」は、明治39年4月で廃刊となった。

相馬御風は明治39年に早稲田大学の文科を卒業したが、その年すでに歌集の「睡蓮」を公にしていた。彼は卒業後抱月の下にあって「早稲田文学」の編集に当っていた。明治40年4月、島村抱月は彼に言った。

「友人がばらばらに詩を作っているのも個性を出すためにはよかろうが、気心を知り合った者同志で詩社を作り、意見を交換しながらお互に切磋琢磨して行ったならば詩作効果が上るのではないか。人見君などと相談して見たまえ。もし詩社が出来たら舞台として『早稲田文学』の一部を貸してもよい。」

この抱月の言葉に勇気づけら打て、相馬は人見を訪ねた。そして同年輩の4人の外に若くて天才的な存在であった三木露風を誘い、5人で早稲田詩社を作った。同じ頃、河井酔茗が中心となって詩草社が作られたので、この二つの詩社はこの年の新しい詩壇の動きとして注目され、論評ざれた。「早稲田詩社」同人の作品は、「早稲田文学」のみでなく、「太陽」、「中央公論」、「文章世界」、「趣味」、「文庫」、「新潮」等に発表されるようになり、その同人たちはそれぞれ若手の詩人として注目されるようになった。 (日本文壇史より)

4月

東京自動車製作所技師内山駒之助、ガソリン自動車第1号製作。

4月

東海セメント株式会社創立。静岡県、資本金30万円。


つづく

2025年12月27日土曜日

防衛省が私物“おねだり”した潜水艦乗組員ら処分 一連の不正による処分者は100人超(FNN) / 川崎重、潜水艦用エンジン不正は66台(共同) / 防衛省が川重を指名停止処分 契約不履行相当額を返納させる方針(毎日) / 特定秘密の違法運用で19人処分 防衛省相次ぐ不正、処分269人に(朝日)

大杉栄とその時代年表(721) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳⑥終〉 大正4(1915)年 「先生あんたはんは女子はんにおほれやしたことおすか」と尋ねたことがおした。 すると先生は一寸真面目な顔で、「僕だつてあるさ」とおっしゃってどしたわ。(磯田多佳)

 

茶屋「大友」があった祇園新橋、吉井勇歌碑の辺り(2016-04写す)

大杉栄とその時代年表(720) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳⑤〉 大正4(1915)年4月6日~5月16日 「これは黒人(くろうと)たる大友の女将の御多佳さんにいうのではありません。普通の素人としても御多佳さんに素人の友人なる私がいう事です。女将の料簡で野暮だとか不粋だとかいえばそれまでですが、私は折角つき合い出したあなたに対してそうした黒人向の軽薄なつき合をしたくないから長々とこんな事を書きつらねるのです。」 より続く

〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳⑥終〉


『週刊朝日』(昭和10年12月8日号)に、「文豪夏目漱石二十年忌」という特集の座談会がある。出席者は西川一章亨、津田青楓、磯田多佳、梅垣きぬ(金之助)、塚本ひさ、夏目小一郎(直矩の長男、朝日新聞社社員)、大道鍋平朝臣(朝日新聞本社出版編集部長、漱石が京都旅行の折、大阪朝日新聞社社員として漱石を訪ねている)である。

梅垣きぬは、金之助という漱石の本名と同じ源氏名の芸者。芸者の野村きみ(通称お君さん)とともに大の漱石好きで、京都に来ていることを聞き及び、会いたいと多佳に仲介を頼み容れられる。

塚本ひさは、宿屋「北大嘉」の女将。「北大嘉」は、木犀町三条上ルの鴨川沿いにある、開店して間もない繍洒な宿屋であった。女将の塚本ひさは、西園寺公望の親類筋に当たる金持ちの妾だと噂される人だが、余り座敷にも顔を見せず、地味な身なりをしているとの評判であった。

この座談会で北野天神の件に関する多佳の発言。


大道 天神さまが大分たゝつてゐますね。

磯田 あんなんかなはんわ。あれは先生が天神様は二十五日といふことをお知りな

かつたからどすわ。


多佳が約束したのは24日ではなくて25日で、漱石の勘違いだと言っている。

そして、多佳の面白い発言。


「先生あんたはんは女子はんにおほれやしたことおすか」と尋ねたことがおした。

すると先生は一寸真面目な顔で、「僕だつてあるさ」とおっしゃってどしたわ。

磯田多佳、戸籍名たかは、明治12年(1879)36月21日生まれで、漱石より一まわり下。

父、磯田木間太は元舞鶴藩士で、明治維新後に京都に出て祇園新橋縄手辺りに住み、当時祇園から太棹(ふとざお)の芸者に出ていたともと結婚、多佳が生まれた。兄弟は、姉が料亭一力の女将おさだで、後に多佳が経営をする九雲堂(陶器店)を譲ることになる長兄もいる。

祇園新橋縄手東入ルにあった母ともが経営する「大友」(母の名から名づけられた)で母から芸を習い、若い頃からお座敷に出る。

文芸を好み、和歌は池辺義象、俳句は水落露右、書は李北海、絵は浅井忠、久保田米僊、岸竹堂らに学び、源氏物語も読む。知遇を得た文人墨客は、尾崎紅葉、高浜虚子、谷崎潤一郎、長田幹彦、巌谷小波、吉井男ら多数。

明治45年初夏、谷崎潤一郎は初めて「大友」で長田幹彦とともに多佳に会い、それ以来馴染みになっている。谷崎の言葉をかりると、


多佳女の文学のたしなみは、昔の遊女が和歌俳譜の道を心得てゐた、あの伝統を引くもので、祇園の梶とか百合とか云ふやうな女の跡を継ぐものであるから、文学好きと云つても純然たる旧派に属するのであって、京都の花街には古くからある型の一つなのである(『漱石とその時代』)


容姿容貌については、特に美人というでもなく、「それ者(しや)上りらしいなまめかしさ凄艶さもなく」色黒で器量もよくなかったが、眼がいかにも利発そうだったという。また洒落がたいそう上手で、洒落好きの漱石とも気があった。小柄な女であったらしい。

谷崎潤一郎が初めて会った時、潤一郎は数え年で26歳、多佳は34歳。この頃の「大友」は、床の下を白川が流れる舟板塀の家で伽羅をたいていたという。


多任は戦時中には南禅寺辺りに疎開していたが、終戦の少し前の昭和20年5月15日に死去した。享年66歳。

多佳が亡くなった時は谷崎潤一郎は岡山県津山市に疎開しており葬式には参加できなかったが、一周忌の案内は谷崎の元に届く。谷崎は戦後、神戸には戻らず、昭和21年3月に京都に住まいを見つけていた。


…今年の五月、「磯田おたかさんが亡くなられてけんに一周忌を迎えましたので生前親しく芸事を通じて交りし者が集りまして故人の為に追善の演芸会を催しましておもいでのありし日を忍びたいと存じます」、と云う松本さだ女の案内状を貰った時は、私は既に京都の住人になっていた。会は五月二十五日の午後一時から知恩院境内の源光院と云う寺で催され、出し物は大友の客筋であった旦那衆の人々が語る荻江節、清元、一中節、宮薗節等の外に、袖香炉、短夜、露の蝶、桶取、花の旅等の京舞があるとのことであった。…… 会場の源光院と云う寺もよかった。それは円山公園を北へ、知恩院の山門の方へ抜けて粟田口へつゞく廣い舗装道路がある、あの道の、山門の前を少し行って、雑草のあいだに僅かに通じている細い径をだらだらと西へ下った北側にあって、知恩院の塔頭ではあるが、今は某氏が知恩院から借りた形式で、私邸に使っているのであると云う。こゝの庫裡の二階には、嘗て上田敏がいたこともあり、又一郎氏も、今の南禅寺畔に家居する前、十年ばかりもこゝに住んでいたそうであるが、多佳女は此の寺院の庭の閑寂なのを愛して、しばしば此処へ来てひとり静かに三味線などを弾いていたものだそうで、故人に取っても因縁の深い場所なのであった。…


谷崎潤一郎『磯田多佳女のこと』(昭和22年9月、全国書房)


「大友のお多佳さんで通っていた祇園の多佳女が去年(昭和二十年)の五月に亡くなったことを知ったのは、同じ年の六月であったと思う。当時私は作州津山に疎開していたので、多佳女の嗣子又一郎氏から熱海西山の善居へ宛てて出された死亡通知が、漸くその時分に廻り廻って私の手もとに届いたのであったと記憶する。私は多佳女に又一郎氏と云う嗣子があったことをも、又一郎氏が実は多佳女の姪の子に当る人であることをも、それまで知らなかったのであるが、しかし故人には実子がなかった筈であるから、此の人は多分故人と血のつながりのある人で、養子に貰われたのであろうとは、ほゞその時に想像した次第であった。平時ならば葬式には間に合わなかったとしても直ぐ飛んで行くところであったが、当時はどうにもならなかったので、私は取りあえず南禅寺北之坊町に住む又一郎氏に宛てて、悔み状にいさゝかの香花料を添えて送った。すると折返して又一郎氏から丁寧な挨拶状が来たが、それによって私は、多佳女が亡くなったばかりでなく、あの吉井勇の歌で名高い新橋の大友の家、 ── 何十年来多佳女が住み馴れた、あの白川の水に臨んだ家までが、建物疎開のためにあとかたもなく毀ち去られた事実を知った。…」


谷崎が初めて京都を訪ねた明治45年、谷崎は新進作家として名前が出ていたが、磯田多佳も2年前には雑誌に載ってた。 谷崎潤一郎『磯田多佳女のこと』より


明治四十三年七月一日発行の「新小説」に、「代表的婦人」と云う欄があって、豊竹呂昇、富田屋八千代、上村松園、伊賀おとら、鳩山春子、日向きむ子、江木栄子、福田英子、平塚明子、榊原蕉園、花月しづ、立花屋橘之助等々各方面の婦人の略歴と談話筆記とを載せている中に多佳女のも見えるが、それに依ると、

女史は明治十二年新橋縄手東大妓楼大友に生る、姉は現に有名なる祇園一力楼の女将おさだにして、幼きより読書の趣味深く、長じて校書の班に列するに及び故紅葉子小波山 人故米倦画伯などの知遇を得て益々文垂の趣味を解するに至り、一時文学蛮枝の名高か りしが、幾程もなく廃籍して陶器店九雲堂を開き、今はそを実兄に托して身を閑散に置き、専ら文垂の趣味にあくがれ居れり、歌は池辺義象氏に俳句は水落露石氏に画は故浅井忠氏に学び、歳三十二、現住は新橋縄手東。


本項、おわり

利上げしたのに円安 → 金融市場の金利上昇、円下落が意味するものは…高市政権の「積極財政」への警告 借金頼みに「限界」が迫る(東京) / 【社説】日本が歩む金融正常化の道 大混乱を起こさずに実験を終えられるのか(WSJ) / 円・国債売り止まらず 利上げ後もインフレ加速警戒、見えぬ火消し役(日経) / 再び巡り来た「積極財政」 歴史は忘却とともに過ちを繰り返すのか(朝日) / 最大最強の野党であるマーケットが放漫財政と財政ファイナンスにお灸をすえる時がついに来たようだ。(藤巻健史)  / アベノミクスの“生みの親”浜田宏一イェール大学名誉教授  ⇒ アベノミクスが始まった時代と現在とは全部違っている。「金融政策をアベノミクスと同じにせよ」と言うことは間違いである。 /  「金利をあげても円安とはアベノミクスのまるマネの『責任ある積極財政』なるものに対して国際マーケットがダメ出ししているという事だろう。・・・高市政権は全く経済が分かってないと思う。」(三木谷浩史) / Japan has reached the end of the road.(日本は行き詰まりに達した) / 日本人を相対的に貧しくした円安 日銀のわずかな利上げでは効果なし(朝日) / 「会見中に円安が進むという、全くトンチンカンな結果」 / 英紙が「責任ある積極財政」を危惧 高市首相は「債務危機は起きない」という“危険な妄想”にとりつかれている(クーリエ・ジャポン) / 「物価高下でもいまだに「物価を上げる金融政策」を続けるのは、「デフレ脱却」という問題意識に執着したアベノミクスのブレーンたちがいま、高市早苗政権のブレーンとして再び影響力を及ぼし始めていることと無縁ではないだろう。」    


〈全文〉

「借りて、借りて、借りまくっている日本」

昨日のThe wall street journalの社説「日本が歩む金融正常化の道」

米国の一流紙も日本の財政の問題を取り上げ始めた。外国人が日本の惨状(財政赤字、日銀財務の悲惨さ)に気がついてしまう。。

1900年代後半は日本の時代、世界のマーケットは日本経済の動向を逐一観察し、

ていた。しかし経済力の落ちた現在の日本は興味の対象から外れ(ある意味、幸いなことに)日の財政、日銀財務の惨状は世界の注目を浴びずに済んでいた。しかし、ここまで事態が悪化すると、死臭を嗅ぎとるハイエナのごとき世界の投資家、投機家が集まってくる。マーケとは無慈悲なのだ。

The wall street journalいわく「より心配なのは、日本の国家財政への影響だ。数十年間の超低金利環境で、日本政府はさまざまな公共事業を通じた景気刺激策と社会的支出のために、借りて、借りて、借りまくった」

――>

「借りて、借りて、借りまくった」お金を日本政府は「使い、使い、使いまくった」のだ。これを読んでもまだ「日本は緊縮財政」と「ド素人のなんでも教、教祖様たちは言うのだろうか?」

 



〈全文〉

「再び巡り来た「積極財政」 歴史は忘却とともに過ちを繰り返すのか」

朝日新聞原真人編集委員の「多事奏論」。一昨日の記事。

原さんはこの敦煌を「高市政権発足が事実上固まった10月の自民党総選挙の後、国債は売られ、長期金利は急上昇している。円はドルに対して一時10円も安くなり、財務省の口先介入では円高に戻らなくなった。この市場からの警告は無視すべきではない」で締めているーー>まさにその通り、。最大最強の野党であるマーケットが放漫財政と財政ファイナンスにお灸をすえる時がついに来たようだ。並のお灸ではないと思う。

 


全文〉

(もうプレゼント数を使い果たしたので全文リツイートできませんが、「円安」=「物価高」=オーバーツーリズム、すべて、アベノミクスの遺産なわけで、それをまたぞろやろうというのはどうかしている。自分たちの首を絞める経済政策、自分たちを危険にする外交路線転換、こんなに負の結果が短期間に積み上がっているのに、世論支持が依然高率だとすれば、日本人たちの「社会脳」が認知バイアスに慣れてしまったということだろうかね。とっても危険な日本のファシズム2.0)

日本人を相対的に貧しくした円安 日銀のわずかな利上げでは効果なし:朝日新聞 

「物価高下でもいまだに「物価を上げる金融政策」を続けるのは、「デフレ脱却」という問題意識に執着したアベノミクスのブレーンたちがいま、高市早苗政権のブレーンとして再び影響力を及ぼし始めていることと無縁ではないだろう。」


 

 

▼多分、いまもコレなんでしょうね

 


 


2025年12月26日金曜日

【創業者が退場】非常勤の名誉会長に/複数にわたる不適切会計の疑い/監査法人が「意見不表明」/辞任で混乱は収束する?/第三者委員会による調査結果の焦点/カリスマ不在で成長軌道へ戻れるか【ニュース解説】(東洋経済) / ニデックを支配してきた「永守イズム」の壮絶、「計画未達は罪悪であり大恥であり大不幸である、赤字は犯罪である」は何をもたらしたか(東洋経済) /  ニデック不適切会計問題の真相、岸田社長も認めた「短期的収益追求」の病根とは何か、2022年にグループ内でいったい何が起きていたのか(東洋経済)    

 

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大杉栄とその時代年表(720) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳⑤〉 大正4(1915)年4月6日~5月16日 「これは黒人(くろうと)たる大友の女将の御多佳さんにいうのではありません。普通の素人としても御多佳さんに素人の友人なる私がいう事です。女将の料簡で野暮だとか不粋だとかいえばそれまでですが、私は折角つき合い出したあなたに対してそうした黒人向の軽薄なつき合をしたくないから長々とこんな事を書きつらねるのです。」

 

御池大橋西詰にある漱石の句碑、旅館「北大嘉」跡

大杉栄とその時代年表(719) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳④〉 大正4(1915)年3月26~4月2日 「私が行った時には、大友(お多佳さんの家)から宿へかえって臥せっておりましたが、いつもの病気でたいしたこともない様子で、まあまあと一安心しました。そこへまた皆さんがお見舞いを兼ねて来てくださいます。なかなか賑やかなことでした。」 より続く 

〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳⑤〉 

大正4(1915)年

4月6日

鏡子夫人、青楓とともに東山に行く。絵を画いていると多佳が来る。うぐいすの話などをする。

4月8日

午後4時多佳来る。一中節(いっちゅうぶし)を聞かせてくれと頼むと「大長寺」「根曳の松」を唄う。多佳12時帰る。

多任は浄瑠璃の一中節(漱石は「通行」が好きで何度も聞いたという)や河東節の名手で、長唄や古い地境「四条の橋から」や頼山陽作「ひがし山」を好んだ。


4月11日

鎮子夫人、銀閣寺、黒谷見物。午後3時多佳来る。一中節「かみすき」、河東節「熊野」語る。夜きぬ、きみ来る。10時に多佳帰る。

4月12日

午後3時多佳来る。小説のこと松枝東洋城について話す。


4月15日

加賀正太郎・千代子夫婦来て、津田、西川、多佳、岡本橘仙、漱石、鏡子で山崎の別荘を見に行く。多住と京都駅で別れる。


岡本橘仙:

彼女が芸者をしている頃、中島某に落籍されるが、中島は病身で天折。

明治35年、画家の浅井忠が留学より帰り京都に住み、多任と親交が始まる。38年、芸者を廃し、浅井の愛妾となり、40年9月に浅井の協力で陶器と焼物の店「九雲堂」を開店する。九雲堂では栗田の青山、仏セーブル焼、京焼とを合わせて製したような雅味深い陶器に、薄田泣聾の手跡のある薄茶茶碗や、与謝野晶子の徳久利など、他店では手に入らないものが集められていた。

明治40年12月、浅井が死去し、店は長兄に譲り、実家の「大友」に戻る。しかし、生涯二度と芸妓には戻らなかった。

明治45年頃、京都三条の旅館万屋の主人、岡本橘仙の「おもいもの」になる。「好伴侶」で「余所の見る眼も羨しい」、意気投合した愛人となって、その関係は生涯続く。

4月16日

帰京の日、午後、加賀正太郎と多佳来る。京都駅発午後8時58分一等寝台で鏡子と東京に向かう。津田、西川、多佳、きぬ、きみ、塚本ひさ、加賀正太郎、岡本橘仙に見送られる。


4月17日

午前中東京に着く。


4月18日

京都で世話になった人たちを中心に18通の手紙を出す。


多佳宛の手紙。

滞京中は色々御世話になりましたことにあなたの宅で寐てゐたのは甚だ恐縮ですあゝいふ商売をしてゐる所で寐てゐられでは嘸(さぞ)迷惑でしたらう私も愉快に帰りたかつたが是非に及ばなかったのですどうか御母さんや何かによろしくいって下さい帰る時には御見送りをありがたう無事に帰りました昨日はたゞ漫然としてゐましたが今日からは働らき出しました手紙や雑誌が山の如く机の上に積んであります一々返事を出したり用を片付けなくてはなりません此手紙は十四本目です(加賀さんのは十三本目)一中節や河東節は大変面白う御座いました是も木尾町へ偶然宿をとった御蔭かも知れません色々御世話になった御礼をする積ですがまだそんな所へは手が届きませんあなたは浮世絵がすきらしいが浮世絵の写真版になった本はいやですか色彩は無論ありませんからどうかと思ひますが一寸伺ひます、ぬめの額は右の次第ですぐは書けません、東京の生活はあなたのと違って随分猛烈に色々な事が押し寄せて来ますから当分待って下さい右迄御機嫌よう妻よりもよろしく申します 以上

四月十八日 夏目金之助

磯田多佳様

岡本さんに礼状を出さうと思ひますが名前がよく解らないからあなたからよろしく願ひます


次の多倍への手紙は、5月3日付。『硝子戸の中』を送ってもらったのに届かない、といってきた手紙への返信と思われる。


御多佳さん「硝子戸の中」が届かないでおこっていたそうだが、本はちゃんと小包で送ったのですよ。さっき本屋へ問合せたら本屋の帳面にも磯田たかという名前が載っているといって来たのです。私はあの時三、四十冊の本を取寄せてそれに一々署名してそれを本屋からみんなに送らせたのだから間違はありません。もしそれが届いていないとするなら天罰に違ない。御前は僕を北野の天神様へ連れて行くといってその日断りなしに宇治へ遊びに行ってしまったじゃないか。ああいう無責任な事をすると決していいむくいは来ないものと思って御出で。本がこないといっておこるより僕の方がおこっていると思うのが順序ですよ。それはとにかく本はたしかに送ったのです。しかし先年北海道の人に本をやったら届かないというのでその人に郵便局をしらべさせたら隅の方にまざれ込んでいた例もあるから、ことによると郵便局に転がっているかも知れない。もう一冊送る位は何でもないけれども届かない訳がないのに届かないのだから郵便局にひそんでいやしないかと思うのですが、それを問い合せる勇気がありますか。もし面倒なら端書をもう一遍およこし。そうしたらすぐ送ります。

君の字はよみにくくて困る。それに候文でいやに堅苦しくて変てこだ。御君さんや金ちゃんのは言文一致だから大変心持よくよめます。御多佳さんも是からソウドスエで手紙を御書きなさい。

芋はうまいが今送ってもらいたくない。その外これといって至急入用なものもない。

うそをつかないようになさい。天神様の時のようなうそを吐くと今度京都へ行った時もうつきあわないよ。以上。

五月二日夜 夏目金之助

磯田多佳様


漱石はこの時期に至っても、天神様の梅見をすっぽかされたことを怒っている。

さらに5月16日付の手紙でも、執念深くこの件について書いているのである。多佳の手紙の内容はよくわからないが、「約束した覚えはない」と書き送ったものと思われる。


今日小包と手紙が届きました、小包の中には玉子素麺と清水焼のおもちゃと女持の紙入がありました(それは妻にすぐやりました)。いい紙入です。あいつのような不粋なものには勿体ない位です。どうもありがとう。この間の茶碗と昆布もたしかに頂きました。両方ともあつく御礼を申ます。

あなたをうそつきといった事についてはどうも取消す気になりません。あなたがあやまってくれたのは嬉しいが、そんな約束をした寛がないというに至ってはどうも空とぼけてごま化しているようで心持が好くありません。あなたは親切な人でした。それから話をして大変面白い人でした。私はそれをよく承知しているのです。しかしあの事以来私はあなたもやっぱり黒人(くろうと)だという感じが胸のうちに出て来ました。私はいやがらせにこんな事を書くのではありません。愚痴でもありません。ただ一度つき合い出したあなた - 美くしい好い所を持っているあなたに対して冷淡になりたくないからこんな事をいつまでもいうのです。中途で交際が途切れたりしたら残念だからいうのです。私はあなたと一カ月の交際中にあなたの面白い所親切な所を沢山見ました。しかし倫理上の人格といったような点については双方ともに別段の感化を受けずに別れてしまったように思うのです。そこでこんな疑問が自然胸のうちに湧いてくるのです。手短かにいうと、私があなたをそらとぼけているというのが事実でないとすると私は悪人になるのです。それからもしそれが事実であるとすると、反対にあなたの方が悪人に変化するのです。そこが際どい所で、そこを互に打ち明けて悪人の方が非を悔いて善人の方に心を入れかえてあやまるのが人格の感化というのです。しかし今私はあなたが忘れたといってもそう思えない。やっぱりごま化しているとしか考えられないのだから、あなたは私をまだ感化するほどの徳を私に及ぼしていないし、私もまたあなたを感化するだけの力を持っていないのです。私は自分の親愛する人に対してこの重大な点において交渉のないのを大変残念に思います。これは黒人たる大友の女将の御多佳さんにいうのではありません。普通の素人としても御多佳さんに素人の友人なる私がいう事です。女将の料簡で野暮だとか不粋だとかいえばそれまでですが、私は折角つき合い出したあなたに対してそうした黒人向の軽薄なつき合をしたくないから長々とこんな事を書きつらねるのです。私はあなたの先生でもなし教育者でもないから冷淡にいい加減な挨拶をしていれば手数が省けるだけで自分の方は楽なのですが、私はなぜだかあなたに対してそうしたくないのです。私にはあなたの性質の底の方に善良な好いものが潜んでいるとしか考えられないのです。それでこれだけの事を野暮らしく長々と申し上げるのですからわるく取らないで下さい。また真面目に聞いて下さい。

東京もあたたかになりました。絵の展覧会を見たり、露西亜の音楽会をききに行ったりして、のらくらしています。今日は早稲田へ、ベースボールを見に行きました。弥次馬の応援の騒々しいことは、大友の六畳に寝ているよりも百倍がたこっちのほうが盛です。また宅へ帰って湯に入って、塵埃を払った所です。こんなことをしていますが、心の中は大変忙がしいのです。そうしてこれからがいよいよ忙がしくなるのです。

白川の蛙の声はいいでしょう。私は昨日の朝の真中へ椅子を持ち出して、日光を浴びながら本をよみました。私にはこの頃の温度が丁度適当のようです。

本は売り切れてもう一冊もありませんから、小売屋から取寄せてそれを送ることにしましょう。京都の郵便局になければこっちでさがしたって判る筈がありません。書留郵便でないから、調べてくれるにしても出ては来ません。こんなことは滅多にないことです。この間、芝川さんが来てくれました。もうこの位にしてやめにします。以上

五月十六日夜 夏目金之助

御多佳さん

病気はもういいのですか。御大事になさい。(大正4年 磯田多佳宛書簡)

 

漱石は、北野天満宮の約束が果たされなかったことにこだわりました。そして、多佳との約束を花柳界での軽ごとの約束だとみなしています。そして、無粋であることを承知しながらも、素人ととしての付き合いがしたかったと綴っている。

しみじみと、

春の川を隔てて

男女哉

と詠んだ、どうしようもない隔たりを感じているようだ。


つづき


本人の辞任はもちろん、任命責任も問われるべき → 官邸幹部「核兵器保有論」韓国のケースからみる現実性のなさ、日本がすべきは「非核三原則」の維持と世界的な核不拡散・核兵器禁止の推進だ(東洋経済) / 《本人直撃》「日本は核保有すべき」発言をしたのは“核軍縮担当”の首相補佐官だった! 高市首相が更迭しない理由は…(文春オンライン) / 高市首相を「無反応は賛成と同じ」と猛批判 核武装論で小沢一郎議員「取り返しのつかないことになる」(中日スポーツ) / 立憲野田代表「今回の発言者は核軍縮担当、不拡散担当 その担当が(核保有)を言うのはどうしようもない 高市総理の非核三原則見直し論もこういう人のつぶやきも影響してる可能性がある」 / 核保有発言「けしからん話」 中谷氏、首相に対応要求(時事); 中谷元・前防衛相は、政府高官が「日本は核を保有すべきだ」と発言したことに関し、「けしからん話」と批判。発言が公になった以上、首相は高官の進退も含め対応すべきだと述べました。 / 官邸幹部「日本は核兵器保有すべき」 政権内の議論は「ない」と説明(朝日)   

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文春さん、明確にその名を公表いただきありがとうございます

日本会議で講演するような人物がいかに戦争したい日本会議メンバーを前に勇ましいことばかりを言って、憲法を毀損しているかよく分かりますね

高市早苗の「(安倍晋三の)国葬反対のSNS発信8割隣の大陸」発言も日本会議で行われたもの… https://t.co/qTU8GNGuSV pic.twitter.com/mZSrDyWtgn

— ふっちゃん@anti-racism (@ashitawawatashi) December 24, 2025



 

2025年12月25日木曜日

新しい戦前がやって来る。軍備増強のための増税。「既に決定している」と。 → 高市首相「継戦能力高めていく」 安保3文書の前倒し改定めぐり(朝日) / 1回紛争に巻き込まれるとウクライナのように長期にわたる 継戦能力を高めなきゃいけない その財源はすでに決定している 2027年1月から所得税に1%上乗せする   

「水源が中国関係者に買われた」とSNSで拡散、和歌山知事が「偽情報」と否定…きっかけはアベマ番組 : 読売新聞オンライン

志賀原発の敷地内に推定活断層 国土地理院が認定、北陸電力は否定(朝日) ← 国土地理院の指摘を北陸電力は否定? コレ、あり得るの?

大杉栄とその時代年表(719) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳④〉 大正4(1915)年3月26~4月2日 「私が行った時には、大友(お多佳さんの家)から宿へかえって臥せっておりましたが、いつもの病気でたいしたこともない様子で、まあまあと一安心しました。そこへまた皆さんがお見舞いを兼ねて来てくださいます。なかなか賑やかなことでした。」

 

夏目鏡子

大杉栄とその時代年表(718) 《番外編》 〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳③〉 大正4(1915)年3月23~25日 「「先生お目覚めどすか」いうて、なんの気なしにふと先生を見たやおへんかいな。そしたらこう鼻の頭から、額もびしょびしょの汗どすのや。たらたらと流れているようやおへんか。あたしびっくりしましてな、「先生! おあんばいが悪るおすか」申しましたら、「いや、なにー」いうて、両手で洗面場をつかまえて、ぺちゃんぺちゃんとそこへ坐っておしまいるやおへんかいな。さあ、えらいこっちゃ、こらどむならん、こんな所へお坐りやしたらいかんいうて、あたしが腰を持ち上げるようにして、おこたのとこへお伴れしたんどす。」 より続く

〈漱石の四度目(最後)の京都訪問 : 漱石と磯田多佳④〉 

大正4(1915)年

3月26日

二十六日(金) 終日無言。平臥。不飲不食。午後に至り胃の工合少々よくなる。医者来る。(漱石の日記)


3月26日以後、漱石の体調は悪く、一日中、床に臥せって、画帳や短冊に思いつくままに絵を描いて過ごした。

3月27日

二十七日(土) 夕方から御君さんと金之助と御多佳さんがくる。三人共飯を食う。牛乳を飲んで見ている。御多佳さん早く帰る。あとの二人は一時過迄話している。・・・・・ (漱石の日記)


3月28日

二十八日(日) 昨夜三(人)が置いて行った書帖や短冊に滅茶苦茶をかいては消す。・・・・・

医者来。人工カルゝルスをくれる。(漱石の日記)


3月29日

二十九日(月) 又畫帖をかく。午後御多佳さんがくる。晩食後合作をやる。(漱石の日記)

(以下、4月8日まで日記欠)


3月30日

だいぶ気分が良くなったので、京都で世話になった人たちを招いて、舞妓の踊りを見ようとしたが、その宴のさなか漱石は腹痛激しくなり大友に泊まる。


3月31日

具合よくならない。多佳は青楓に電報を打ってきてもらう。医師は心配はないという(いつもの胃病)。食事は全くしない。きぬ、きみ来る。この日も大友に泊まる。


多佳はその時のことをこう言っている。


「『病気なればこそ祇園の茶屋に思いがけず二泊することになる。』といって、先生はお笑いになる。」

4月1日

食事は全くしない。大阪朝日新聞社より竃話がかかり医者に見せたかとか手当は行き届いているかなどといわれる。

鏡子夫人に電報を打って京都に来てもらうことにする。漱石は北大嘉に戻る。

鏡子夫人、夕方東京駅発、神戸行きの急行で京都に向かう。


自分でも京都をいいかげんに切り上げるについて、今まで西川さんや何かに何くれとなく御厄介になった、そのお礼心にどこかで一夕お招きしたいというので、お多佳さんのお家で舞妓の踊りでもという段取りをつけて、それには金が少し足りそうにもないので、すぐ百円ばかり送ってくれろと申して来ましたのでそれを送りました。ちょうど病気が悪くなったのはその招待の日のことで、木屋町の御池から祇園の新橋まで、俥でいらしたらというのを、道も近いことですから歩いて行ったそうですが、だんだんお腹がいたみ出したのを、初めはどうやら我慢に我慢していたものの、しまいにはやりきれなくなって臥せってしまったのだそうです。ところがお多佳さん初め他の人たちも、そんなことには出会したことがないのでびっくりしてしまって、じっと様子を見ると夏目の臥せっている様子たらないのだそうです。というのは、苦しいので物をいうのもいやなので、黙りこくって、額に玉の汗をいっぱいかいて、それが息もせずに苦しそうにねているので、死んだんじゃないかと思って覗き込んでは、みとっていたそうですが、さて様子を見てると、なおりそうにないどころか、ますますいけなくなる一方のように見受けられるので、私から来てもらおうかどうかという相談です。するとそれを小耳にした夏目が、なにも家内なんか呼ぶことはないからやめにしてくれろと申すのだそうです。なぜと申しますと、私がやって来て、またお悪いんですかとか何とかいうと、それだけでぞっとするとか、やりきれないとかいうんだそうです。が、そんなことをいってられないほどどうも様子が悪い。このままにしておいて、もしものことがあってはというので、そこで夏目が怒ったら怒ったで責任は自分が負うというので、津田さんが私のところへ電報を打って来られたのだそうです。(夏目鏡子「漱石の思い出」)

4月2日

朝、鎮子夫人京都着、病状を聞く。

青楓の案内で鎮子夫人は大極殿、知恩院、清水など見物する。夜は青楓が芝居に案内するというので、北大嘉の女中のお梅さんに早い夕食をたのんだところ、漱石に「病人をおっぽり出して昼間ぶらぶら出あるいて、まだ芝居に行くのか」としかられる。


私が行った時には、大友(お多佳さんの家)から宿へかえって臥せっておりましたが、いつもの病気でたいしたこともない様子で、まあまあと一安心しました。そこへまた皆さんがお見舞いを兼ねて来てくださいます。なかなか賑やかなことでした。

 病気は例によって例のとおりなもので、落ちつくとだんだんよくなりましたが、それからというものは、ずっと床の上にねたり起きたりして、自然に癒るのを待っておりました。べつにむずかしい本を読むでなし、自分でもたいへんゆうゆうとした気持ちで、少しよくなってからは、床の上にすわっては、よく絵を描いたり、俳句を短冊に書いたりしておりました。画帖なんぞもだいぶ持ち込まれて、自分では暇なものですから、手当たりしだいによごして行くといったぐあいでした。(夏目鏡子「漱石の思い出」)

 

この時の滞在は先生の病気が再発して、意外に長引いたけれども、一時心配した程の危機は去って漸次快方に向われた。ある日大嘉の次の間で東京から看護に来られた奥さんと津田と三人で、すしか何かを食べていたら「皆何を食っているのか、おれにも食わせろ」といってどなられたので、奥さんがしぶしぶ煎餅を半分病床に持って行かれた。すると、「半分はひどい、せめて一枚くれ」という調子で、一代の文豪も病気にかかっては子供のように意気地がなかった。(西川一草亭「漱石の書と花の会」)

つづく

「身銭をきらない維新」が、今度は「脱法維新」! → “脱法的”なスキームで「100万円以上浮くケースも」 維新議員のセコい「国保逃れ」 識者たちは「悪質」と断罪(デイリー新潮) / 維新議員の国保逃れ疑惑の「実態調査」は自己申告なのか? / 「国保逃れ」指摘受け、維新が全所属議員に関与の有無を調査へ(朝日) / 維新に今度は脱法的「国保逃れ」スキャンダル 「国民ではなく自分たちの保険料を下げている」(AERA) / 維新、国保支払い回避の指摘受け党内調査 兵庫の地方議員ら聞き取り(朝日) / 元維新の足立康史(現国民民主党)が攻撃側に参戦 「当該スキームを開発し、組織的に悪用してきた主体が、皮肉にも「社会保険料を下げる」を掲げてきた日本維新の会の議員団だった」 / 「信頼の根拠として悪用されている可能性が」自民府議が国保逃れの不正に維新議員の関与疑惑を指摘…ネットは「事実なら大爆弾」と騒然(女性自身) / 占部大阪府議(自民)から社会保険制度を悪用した国保逃れの事案に維新関係者が関わっていたことを指摘された維新吉村大阪府知事のカ細い声での答弁