1907(明治40)年
8月
韓国、間島に統監府派出所。清国、撤去要求。
8月
鈴木文治「日韓協約の成立」(「新人」)。断乎併合主張
8月
国木田独歩(36)、結核と診断され転地をすすめられる。
9月、茨城県湊町に愛人看護婦奥井君子と向う。
11月、諸雑誌新年号に大量の原稿を書くため帰京。
この年2月経営した独歩社が破産し越年資金が必要。病状は悪化する。
この月(8月)、独歩は新聞「日本」に連載小説「暴風」を書き出し、14回まで書いたが、途中で何度も休載した。話の筋はまだ少しも展開していなかったが、真夏の東京の暑さが身体にこたえて、どうしても書き続けられなくなった。
独歩社に籍を置いていた窪田空穂が、絶えず咳をする独歩を見かねて、咽喉科では日本一と言たれていた菊池という医者の診察を受けさせたところ、医師は、大分重い病気だという面持ちで、悪いのは咽喉ばかりでないと言って、内科の木村という博士を紹介した。その木村医師は、両方の肺尖が惑いから今のうちに十分静養しなければいけない、と言った。已む無く独歩は独歩は、「日本」の小説を中絶した。
その少し前、独歩は「近事画報」以来特に親交のあった画家小杉未醒に手紙を書き、転地先のことを相談した。小杉は自分のパトロンで杉田恭助という金持ちの別荘を紹介してくれた。別荘は平磯海岸の浜町牛久保というところにあった。
(『日本文壇史』より)
8月
国光生命保険相互会社創立。東京。資本金20万円。
8月
桐生織物同業組合、賃業規定を設く。
8月
長谷川利行(16歳)、耐久中学の雑誌『三一会会報』4号(8月発行)に「快楽と悲哀」を掲載。
「 - 故に悲哀の裏には快楽潜み、快楽の陰には悲哀の伴うものなり、(略)彼の偉人傑士と世に尊崇せらるる者の多くは能く忍び難きに忍び、耐え難きに耐え、如何なる悲哀に遭遇すとも、決して屈撓せず、以って有終の快楽を購ひ得たるに非ずや、然るに今人の情として其の多くは目前の快楽を得むが為めに働きて自己の力尽き、根涸れ尚能く得る能わざるときには失望落膽して毫も当時の意気を覚むる能はず懊悩煩悶するなり、鳴呼彼の徒、口を開けば処世難を叫び、或は平等説を唱え、又は社会主義を鼓吹せむとす、されど所詮は蜜の如き甘き快楽をのみ揃へむとするなり、(略)」(「快楽と悲哀」)
「同級生間の噂では、全くの高踏派、水彩画は群を抜いて上手、短歌も作るとのことで、一見旧知の如しで、それからは全く心置きなく話し合うやうになりました。・・・長谷川君は、近くの広村の下宿から通学してゐました。小生は寄宿舎生活で、当時の舎費としての生活費は一ケ月四円五十銭から五円までと云ふ時代でした。その寄宿舎は、松林と芦荻の入りまじつたジャングルの中でした。・・・二年が終り三年になりましたが、甲乙二組に別れたままで、同じ教室ではなかつたので、学習の英漢数等の成績は私にはわかりませんでした。ただ一年に二回ほどある学業成績発表の折りの利行君の水彩画は、全く群をぬきん出て秀抜で、一級上の守野綱一君の書と好一対でした。長谷川君は全くの高踏派で、俗人はハナも引つかけないと云ふ風で、当時若山牧水ばりの短歌をつくつてゐた小生ぐらいが、辛うじて話してもらえる位でした」(薗悌次郎「思ひの記」)。
8月
ペルシア大臣アターベク・アザームが暗殺され、新設議会マジュリスを出し抜くことを画策中の反動的新国王、モハンマド・アリーは大打撃を受ける。ナシール・ウッムルクの下に自由主義的な内閣が成立。
8月
モロッコのフェズで市民のアブドル・アジーズ廃位運動起こる。
8月1日
韓国、大韓帝国の軍隊解散。
午前8時、朝鮮軍各部隊将校、朝鮮駐剳軍司令官長谷川好道官邸に集められ、軍部大臣李乗武より朝鮮軍解散の詔勅読上げ。
午前10時、一般兵士約2千が漢城訓練院に集められ、軍部協弁韓鎮昌が軍隊解散命令を告げる。
武装解除を拒んだ将兵の一部は丁未義兵など各地で蜂起し、武力による抗日運動(義兵闘争)に参加した。旧大韓帝国軍の蜂起は各地で続き、義兵化した民間人などによる抵抗活動も行われ、抵抗は日韓併合後の1914年頃に鎮圧されるまで続く。
丁未義兵闘争
漢城侍衛第1連隊第1大隊長朴昇煥は、訓練院への召集に応じず、呼び出しに来た日本人将校の見守る中で拳銃自決。大隊兵士たちは、武器庫に殺到し蜂起。日本軍は典洞の兵営を包囲。
第2大隊(隊長呉義善)も蜂起、合流。訓練院からの兵士も合流し兵は600。西小門一帯で日本軍と交戦。弾薬尽きた兵士は、軍服を脱ぎ民家に逃込む。執拗な探索。
この日、参尉南相應(27)ら射殺68・深傷100余・捕縛500余。日本軍戦死(梶原中尉ら)100余。これを契機に将兵蜂起。
江華島分遣隊兵士600余、池弘允・延基羽・柳明啓ら将官に指揮され蜂起。江華郡守で一進会幹部鄭景洙を殺害、駐在所襲撃(日本人巡査1名殺害)。江華島全域を制圧し漢城進出を画策。
一三道倡義大将李麟栄ら義兵決起。この月、江原道原州から義兵500を率いてきた李九載・李殷瓉に共鳴し参加。
12月、京畿道楊州に1万人集結、上京めざす。
1909年6月、李麟栄捕らえられ処刑(42歳)。
この年1907年8月~1910年迄の義兵・日本軍の闘争回数2819回、義兵数14万余、義兵戦死17688・負傷3800・捕縛7824。朝鮮駐剳軍司令部編「朝鮮暴徒討伐誌」付表。
この頃、安重根(28)、鎮南浦での商いに失敗、山岳ゲリラに加わる。
8月1日
各派合同で社会主義夏季講習会(各派合同の最後)。東京九段下ユニヴァサリスト教会。~10日迄。
田添鉄二「社会主義史」、西川光二郎「同盟罷工の話」、片山潜「労働組合論」、幸徳秋水「法律論、道徳論」、堺利彦「社会の起源」、山川均「社会主義の経済学」。聴講者80余。新見忠雄(20)ら参加。
両派(議会主義・直接行動)対立、先鋭化。
8月1日
(漱石)
「八月一日 (木) または二日(金)、野上豊一郎来る。
(大阪朝日新聞社主催叡山大講演会始る。八月十七日(土)まで、第一期・第二期・第三期に分れ、八月六日(火)、十二日 (月)休む。)
八月二日(金)、野間真綱に結婚祝いとして、為替で十円送金する。何か買って貰いたいと伝える。
八月三日 (土)、高須質淳平来る。小宮豊隆は、恋煩いになるかもしれぬと云う。」(荒正人、前掲書)
8月1日
『青年に訴ふ』(大杉栄訳、幸徳秋水序、平民書房)の広告が『家庭雑誌』に近刊予告として掲載。「弊書房今行政庁の発売頒布を禁ぜざりし部分検事の告発せざりし部分を取りて刊行したり」
8月1日
京都・阪鶴・北越の三鉄道を国有。
8月1日
樺太における最初の電話、大泊に開通
8月1日
宮本常一、生まれる
8月1日
ロバート・ベーデン=パウエル、イギリスのブラウンシー島でスカウトの最初のキャンプブラウンシー島実験キャンプを実施(~8月9日)。
8月2日
韓国、江華島分遣隊蜂起。 池弘允の挙兵、日本軍中隊全滅。
8月2日
啄木(21)、 老母迎えのため玄海丸に乗船、3日朝青森に到着、父母の滞在する野辺地の常光寺に赴く。伯父葛原対月と対面、同寺に一泊する。
8月4日早朝、母と野辺地を出発、青森より石狩丸で函館に帰る。その後小樽より妹光子、脚気転地のため来り、一家五人となる。
8月3日
独露両国の皇帝・外相、バグダッド鉄道に関して会談。
つづく

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