2026年1月26日月曜日

大杉栄とその時代年表(747) 1907(明治40)年8月22日~31日 韓国、忠清北道堤川地方で「全村焼夷」作戦実施。 駐留軍司令部発行の『朝鮮暴徒討伐誌』は、「村邑は極目殆んど焦土たるに至り」と報告。イギリスの「デイリー・メール」紙も、「堤川は地図の上から消え去った」と報道した。 「英国政府が、日本軍隊の行動、往々過酷に渉るとの風聞ありと連絡してきた」と、当時の林外相は伊藤統監に注意を喚起している。伊藤統監は、「苛酷に失する軍事命令ありたるを以て、軍司令官に其の命令を変更せしめ」ると返答している。

 

義兵闘争関連図

大杉栄とその時代年表(746) 1907(明治40)年8月16日~21日 明治40年大水害 山梨県の近代における最大規模の自然災害 被災者の北海道移住(計650戸・3,130人余) 現在では移住者の多くは離村し、移住地は原野に還元しつつあり、移住者の子孫も少なく地名などに僅かな痕跡を残している より続く

1907(明治40)年

8月22日

来日中の英国独立労働党の党首ケア・ハーディが、在獄中の大杉栄、石川三四郎、山口孤剣、大脇直壽宛に、堺利彦宅から葉書を送る。

8月23日

韓国、忠清北道堤川地方で「全村焼夷」作戦実施。

駐留軍司令部発行の『朝鮮暴徒討伐誌』は、「村邑は極目殆んど焦土たるに至り」と報告。イギリスの「デイリー・メール」紙も、「堤川は地図の上から消え去った」と報道した。

「英国政府が、日本軍隊の行動、往々過酷に渉るとの風聞ありと連絡してきた」と、当時の林外相は伊藤統監に注意を喚起している。伊藤統監は、「苛酷に失する軍事命令ありたるを以て、軍司令官に其の命令を変更せしめ」ると返答している。

8月23日

(漱石)

「八月二十三日(金)、雨量多い。利根川・荒川・多摩川に出水甚だしい。

八月二十四日(土)、大暴風雨。死者四百五十九人、全壊千四百五十戸、流失十八万七千四百九十九戸。」(荒正人、前掲書)


8月23日

フィリピン、国旗法制定。フィリピン共和国旗の使用を禁止。

8月24日

前日から降り続く雨が大暴風雨となり、関東地方で死者495、流失・浸水家屋19万弱。

8月25日

渡良瀬川大洪水。

正造は二百石船で仮小屋の残留民を見舞い船に収容しようとするが拒否。残留民の忍耐・勇気に対して、正造は逸見斧吉に「この人々の自覚は神にも近き精神」と讃える。

8月25日

函館の大火(約1万2,000戸焼失)

夜、市内の市内の大半を焼き。啄木(21)一家は焼失を免かれたが、学校、新聞社はいずれも焼け、新聞社に預けた小説「面影」を含む「紅苜蓿」第8号の原稿を焼失した。

大火後北海道庁より救護活動に釆函中の知人向井永太郎(大島経男の友人で「紅苜蓿」の寄稿家、明治40年6月函館の私塾を閉じて北海道庁の役人となる)に札幌への就職を依短し履歴書2通を托す。

8月25日

荒畑寒村「谷中村滅亡史」出版。即日発禁。昭和38年5月復刻。

8月26日

(漱石)

「八月二十六日(月)(不確かな推定)、東京朝日新聞社に行く。長谷川辰之助(二葉亭四迷)に会う。「ちょっとお訪ねしたい。」と云うと、「『低気圧』の去らぬうちは来客謝絶だ。」と断られる。

頭の調子が良くないことを云っているのかと思う。後になって、実際の「低気圧」だと知る。(『長谷川君と余』)

八月二十七日(火)、雨量多い。明治大学を辞職した月、月給をくれなかったことを森田草平に話す。森田草平に二十円貸す。雨量四十九ミリ。多摩川は四十年来の出水で、大森・羽田は水浸しになる。東海道線は不通。荒川・江戸川も水位が高くなる。

八月二十八日(水)、洪水の様子見に外出したいと思う。『虞美人草』三、四日で完結するので見合せる。中村蓊(古峡)宛手紙に、明治大学の未払月給三十円あるから、事情話して、内海弘蔵(月林)から受け取るか、上田敏から貰ってくれれば、それを帰省旅費としてあげてもよい。十月十日(木)に二、三百円入る予定だから、二十円ほどならあげてもよいと云う。


この頃低気圧の襲ったのは、八月二十三日(金)から二十九日(木)までである。八月二十三日(金)から二十八日(水)までは雨降り続く。(八月二十五日(日)だけは小雨)八月二十五日(日)とも想像されるが、八月二十六日(月)と推定する。」(荒正人、前掲書)


8月26日

インド、ターター鉄鋼会社設立。

28月27日

韓国、純宗の即位式挙行。慶運宮。

8月28日

片山潜・田添鉄治・西川光二郎ら議会政策派(「社会新聞」派)、社会主義同志会結成。直接行動派との分裂意志明示。直接行動派は9月6日、金曜(講演)会を結成。対立深まる。

8月29日

清国、陸軍36鎮を定める。

8月29日

立教大学設立。

8月30日

生野鉱山同盟罷業。

8月30日

ウィーン、女性が男性と同じ条件で大学・病院の講師・助手に就くこと認可。

8月30日

在京の中国革命家張継・章炳麟・劉光漢・劉申叔・何震ら、牛込清風亭で社会主義講習会開催。幸徳秋水講演。聴衆100近く。

8月31日

(漱石)

「八月三十一日(土)から九月二日(月)の間に『虞美人草』脱稿する。

八月三十一日(土)以後、九月二十五日(水)以前に、春陽堂の本多直次郎(嘨月)来て、松源の持ち家へ案内される。その家は、前日に他と約束できてしまっている。


漱石は、夏が最も嫌いであったけれども、東京朝日新聞社に入社してからは夏に原稿を書くことが多くなる。虞美人草脱稿以後、八波則吉来る。次のことを話す。

(1)東京帝国大学を辞めて、朝日新聞社に入社したことを残念に思い、「東京帝国大学を辞めて、朝日新聞社に入社すれば、ただの小説家になってしまう。」というと、〝そんな理由で退めるなら、私は退めない。大学を退めて、小説家になって食えますかと言って退める者には、私も目下頗る考えさせられている。読者の趣味を果して何年間繋ぎ得るか、これは甚だ心細い。しかし私も男だ。大胆にやって見る積りだ。〞と答える。

(2)『虞美人草』は難しいから、神田あたりで講習会をやるとよい。『虞美人草』を書いている時、いろんな投書が来た。(八波則吉もその一人である)

(3)『文學論』は、誤謬が多いので「正誤表」を作り購読者に配ったと話す。八波則吉が、まだ頂いていないと云うと一部渡す。『文學論』の用例を和漢の書物から選んで通俗的な『文学論』を書いて見たいと云うと、〝やって見給え。〞と云う。(八波則吉)

この文章には誤りがいくつかある。(1)は、駒込の邸を訪ねた時となっているが、東京朝日新聞社に入社したのは、西片町に移ってからである。八波則吉の記憶は、数回の訪問の思い出が重なっていると想像される」(荒正人、前掲書)


8月31日

英露協商調印。英仏露三国協商成立

独を中心とした三国同盟に対抗。イランは露英の勢力圏とその間の緩衝地帯に分割。アフガニスタンは露勢力圏から外され英勢力圏。中国のチベット統治を承認。チベットの領土保全確約。


つづく


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