新詩社の九州旅行(つづき)
〈上田敏と吉利支丹文化の研究〉
上田敏の業績は多方面にわたっていたが、その中に、吉利支舟の神父たちの手で和訳された古い文献の研究があった。この種の文献についての先駆的研究には、イギリス人アーネスト・サトウの研究や村上直次郎博士の研究があった。
明治36年10月、上田敏はこれ等の業績に基づいて、樗牛会で「外国文学の研究」という題で講演した。彼は吉利支丹版のローマ字訳や和文訳の文献を紹介し、日本語の名詞の中にはポルトガル語の影響がかなりあり、紅殻(べんがら)、金平糖、更紗、莫大小(めりやす)等がそれに当ることを指摘した
この講演は雑誌「時代思潮」や「中央公論」に掲載され、明治40年3月に上田敏が出版した「文芸講話」(金尾文淵堂)に収められていた。
上田敏は、古い吉利支丹文献にある日本語の古雅な感じを尊重し、それを仕事の中で生かしていた。彼が明治38年9月号の「明星」に発表し、間もなく出た「海潮音」に載せたフランスのトルーバドールの詩人オーバネルの短詩の訳がそうであった。
小鳥でさへも巣は恋し、
まして青空、わが国よ。
うまれの里の波羅葦増雲(バライソウ)。
上田はこの訳詩に評をつけて、「故国の訳に波羅葦増雲とあるは、文禄慶長年間、葡萄牙(ポルトガル)語より転じて一時、ねが日本語化したる基督教法に所謂天国の意なり」と書いた。この短い訳詩の典雅澄明をイメージは、一度それを読んだものに忘れがたい印象を与えた。若い詩人たちは、「海潮音」の中からその詩的イメージを汲みとることに熱中していた。上田敏が明治39年から出した雑誌「芸苑」に依頼されて詩を発表していた三木露風や北原白秋もまた、籍は「明星」に置いていたが、詩想の源泉として多くのものを上田敏の業績から汲んでいた。バテレン、パライソウ、アルスというような語彙が次第に彼の内部に沈潜して、発酵しはじめていた。
明治39年はキリシタン文化研究の上に記念すべき年であった。この年4月、上野の帝室博物館において、嘉永以前(即ちベリー到来以前)の西洋輸入品及び参考品の特別展覧会が開かれた。その陳列品には、南蛮の古鐘、真鍮の踏絵、法王保羅五世肖像、支倉六右衛門像、ごぶらん織地、葡萄牙人上陸図屏風、慶長五年長崎版の「どちりな・くりすたん」等の品々が陳列ざれた。
この展覧会については、富士川游(ふじがわゆう)、村上直次郎等が新聞、雑誌に解説を書き、新村出(東京帝大文科大学助教授、31歳)は、特に深い感銘を受けた。彼は言語学の専攻で上田万年(かずとし)に就いて日本音韻史を研究した少壮学者で、近く外遊して、新設の京都帝大文科大学に就任することに決定していた。彼の学者としての関心は、この時期から次第にこの新しい分野に集中されるようになった。
この展覧会と前後して、日本の吉利支丹文化研究の先駆者である駐支イギリス公使アーネスト・サトウが旅行の途次日本に立ち寄り、上田敏を含む同好の学者たちがその歓迎会を開いた。そういうことが続き、この年、新しい学問分野としてのキリシタン文化研究の重要さが、日本の智識階級の間に印象づけられた。
そういう雰囲気の中で上田敏は、明治39年12月、野口米次郎の編輯するあやめ会の詞華集「豊旗雲(とよはたぐも)」に「踏絵」を発表した。
それは、「真鍮の角(かく)なる版(いた)に/ビルゼンの像あり、/諸(もろもろ)の弟子之(これ)を環(めぐ)る。/母なるをとめ、/わが児のむすめ、/帰命頂礼(きみようちゃうらい)、サンタ、マリヤ。」という詩句ではじまり、「代々(よよ)に聞く名こそ異なれ、/神はなほ此世を/知ろす、たゞひとり、覚束(おぼつか)な、/今の求道者、/『識(し)らざる神』の/証(あかし)にと死する勇(ゆう)ありや。」という詩句で終る。
〈「明星」同人の九州旅行の目的を九州西南部の南蛮遺跡深訪に変更する〉
「明星」同人太田正雄は、同人たちが九州旅行を計画したのを知り、長崎、平戸などに残っているにちかいないキリシタンバテレンの遺跡遺物を見聞する好機と考え、その一行に参加することを申し出て、容れられた。鉄幹は、彼の意見を受け容れて、九州一周という旅程を改め、九州西南部の南蛮遺跡探訪ということに目的を変更した。
太田正雄は旅行の準備として、上野の図書館に通い、特に天草騒動についての数種の書物を漁り、抜き書きをした。
7月下旬に出た「明星」8月号には、九州旅行のメンバーに新しく太田正雄が加えられ、出発は早めて7月下旬とし、旅行目的を「九州西南部南蛮遺跡探訪」ということにして、改めて社告が掲載された。
太田の提案にすぐ反応したのは北原白秋で、彼の生地柳川は天草半島の対岸にあり、彼が少年時代に使っていた言葉には、西洋の系統と思われるのかいくつかあることに気がついた。即ち、長男のことをトンカジョン、次男をチンカジョン、令嬢をゴンシャンと言った。日曜日をドンタクと言った。自分の幼少時代に意味も分らず使っていた言葉に、北原白秋は古いユキゾチスムを見出し、彼自身の郷里が新しい詩の題材の源泉であるという自覚を抱きはじめた。
〈吉井勇〉
吉井勇は名家の出である。祖父友美(前名は幸輔)は、鹿児島出身で、維新の時に西郷隆盛や大久保利通とともに国事に奔走し、明治24年、数え64歳で死んだ時は伯爵、枢密顧問官であった。幸輔の子で勇の父である幸蔵は、少年時代から欧米に留学し、そこで成人したので、英仏独の諸外国語をよくし、帰朝してから海軍兵学校に入り、海軍少佐まで昇進したが、明治28年、台湾鎮定のときに負傷して軍職を退いた。勇は幸蔵と妻静子との間に、明治19年10月8日、東京市芝区高輪南町五十九番地の大きな邸宅で生れた。芝の伊皿子(いさらご)坂の上にあった御田小学校に学び、学友に落合太郎、2、3級下には小泉信三、阿部章蔵(水上滝太郎)などがいた。その後、日比谷の東京府立第一中学校に入った。同級に辰野隆、谷崎潤一郎、土岐善麿などがいたが、孤独癖のある勇はそれ等の学友と交際をしなかった。彼は3年から4年になるときに落第したのを機会に芝区新銭座の攻玉舎(こうぎょくしゃ)中学校に転じた。彼の父幸蔵は水難救済会の会長で、会の斡事に佐佐木信綱の主宰する竹柏園(ちくはくえん)の歌人石榑千亦(いしくれちまた)かいた。
吉井家では友美も幸蔵も歌を詠んでいたので、勇もまた小学生時代から、この石榑千亦について和歌を作った。勇は明治38年4月に攻玉舎中学校を卒業した頃、肋膜を病んで、平塚の杏雲堂病院に入院し、その後鎌倉に転地した。この時期に彼は最も歌に熱中し、「明星」派の歌風に心酔した。彼は鉄幹に、社友に加えてほしい、歌を学びたいという手紙を書いた。折り返し返事があって、それには「歌とは禅の如きものに御座候」という言葉があった。彼は入社以来、毎月のように歌を載せてもらった。当時彼は独歩の作品を愛読し、「武蔵野」にあるような自然を詠んだものが多かった。
彼は新詩社で毎月1回催される例会には欠かさず出た。そこで彼は平野万里、北原白秋、茅野暮雨などと知り合った。その会には森鴎外が、陸軍省からの帰りに軍服のまま出席することもあり、また文壇の先輩なる上田敏、戸川秋骨、平田禿木、生田長江なども加わることがあった。
明治39年8月、鉄幹は、北原白秋、茅野暮雨、吉井勇等を伴って伊勢、紀伊、京阪地方の旅をした。名古屋から伊勢に入り、鳥羽から小さな船で紀州の木の本に渡り、山越えをして熊野の本宮に参詣をし、熊野川を下って新宮に出た。その川の両岸の高い断崖には幾百匹となく猿の遊んでいるのが見られた。その時の旅行で多くの歌が作られ、新しい体験も得たので、明治40年の九州の旅にも勇は進んで加わった。彼はこの年4月に早稲田大学文学部高等予科に入学していたが、ほとんど出席することがなかった。
7月29日
韓国、伊藤統監、在韓記者会との懇親会で演説。
「日本は韓国併合の必要なし。合併は厄介(外国の反対・批判)。韓国には自治が必要だが、日本の統監の指導がなければ健全な自治は困難」と述べる。
伊藤の保護国経営策:
イギリスのエジプト経営を担ったクローマー提督の事業を範としたといわれる、日本の監理・指導・保護による韓国「自治」振興政策。
①司法制度整備:東大教授・法政大学総理事梅謙次郎を政府法律顧問に招聘、法典調査局を設置して法典編纂のほか法官養成、裁判所・監獄を新設。法治国家の体裁を整え不平等条約撤廃をめざす。
②中央銀行設立:1905年以来、第一銀行が韓国中央銀行業務を行っていたが、これを廃止、1909年、韓国銀行設立。
③教育振興。東京高等師範学校教授三土忠造を学部参与官として教科書編纂、識字率向上のため普通学校(小学校)初め各種学校を振興。
④殖産興業:1908年、東洋拓殖会社(総裁:陸軍中将宇佐川一正)設立。日本の経済侵略に道を開くもの。
7月29日
谷中堤内地権者、東京救済会の勧告に従い土地収用補償金額裁決不服訴訟を提起。
7月29日
米国・カナダの移民事情調査、石井菊太郎通商局長出発。
7月30日
第1回日露協約調印。
両国の領土保全・権利の尊重、清国の領土保全、清国に対する機会均等の承認。
秘密条項:
①鉄道・電信に関し満州における勢力範囲画定(ハルピン・長春・吉林の中間で満州を南北に分割)。
②ロシアの外蒙古の特殊権益・日本の韓国との「政事上利害共通の関係」を相互承認。8月15日公示。
日露戦争後の国際情勢変化:
英露仏3国協商体制。日本も6月10日「日仏協約」締結(極東でのドイツ勢力牽制)。また、8月31日「英露協約」締結。日本は、ロシアと協調して大陸の既得権益を確保、ロシアは北満州経営を安定させバルカン・中近東進出を企図。
7月30日
フィリピン初の議会選挙。議席数はナショナリスタ党(国民党)32、進歩党16、無所属20。
7月31日
韓国、夜、軍隊解散詔勅発布。伊藤統監起草。
7月31日
福田英子長男竜麿、満州の実父大井憲太郎の許へ出発。
7月31日
米、ドミニカ共和国サントドミンゴから撤兵するとともに税関管理権を還付.
つづく
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