2010年10月25日月曜日

検察審査会の「市民目線」は、「疑惑があるなら裁判で白黒つけようよ」、というもの!

前に検察審査会の平均年齢疑惑について書いた(コチラ)。
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先週の土曜日(10月23日)夕方の7時前の民放のニュース番組で、検察審議会のメンバに当たった人複数人(匿名)に対するインタビューがあった。
大阪と東京のニヶ所に夫々7,8人を集めていた。
偶然かも知れないが、東京は平均年齢が30代、大阪は40代以降のように見えた。
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アナウンサーは、しきりに「市民目線」とはどういうことかと質問する。
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大阪の40代以降に見えるある人が、

(大要)
市民目線ということは、疑わしきものは裁判で白黒つけようよ、ということだ

と述べていた。
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やっぱりな。
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「市民」を正しくものごとを判断できない人々と言うのではない。
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法律の素養のない無作為で選択された市民が、短期間で、複雑怪奇な法律が理解できる訳がない。
よって、
検察の「疑わしきは罰せず」は、もどかしすぎる、
こんなに「疑わしい」人間は、まず裁判所でプロに判断して貰うのがいいんじゃないか、
となってしまう訳だ。
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では、その「疑わしさ」の根拠は、というと、それはマスコミ報道によるものが大であろうと思われる。
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しかし、・・・今や、肝腎のそのマスコミの報道は、
様々な意図的な「リーク」を鵜呑みにした報道や、
統計的にも脆弱な根拠の「世論調査」報道などで、
本当はもう信用できないものになっている、
ということに注意する必要がある。
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多様性は文化だと思っている私としては、
世の中に、もっと危険で、もっと怪しげで、もっと面白げで、もっと独特で、もっと正規分布から外れた人々が溢れ出て欲しいと願っているが、
検察審議会は、そのような多様性を封殺する機構に組み込まれてしまわないか?
(考え過ぎ、なら良いが)
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進行しつつある階層社会において、検察審議会に選ばれるのはその上位に連なる人達になるであろう(多分、もうそうなっているであろう)。
その人たちの「市民目線」が、検察ではなし得ない「疑わしき人々」を裁判に送り込む。
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残念ながら、この国では、裁判所に送られることは、犯罪人に等しい者として扱われることである。
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考え過ぎ、なら良いが。
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2010年10月24日日曜日

東京 銀座・築地散歩(4) 京橋の親柱 江戸歌舞伎発祥の地碑 京橋大根河岸青物市場跡碑 煉瓦銀座の碑

日本橋を出て東海道を京都へ向かう際に最初の渡る橋であることから京橋と名付けられたという。
創架は慶長8年。
明治8年に木造から石造となり、更に明治34年に鉄橋となった。
大正11年には、石、コンクリート、一部金属作りとなり、翌年の大震災で被害を受けるが、これを修復。
しかし、昭和34年、京橋川が埋め立てられ、橋は撤去されることとなる。
尚、親柱は、明治8年のものと大正11年のものが残されている。
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京橋の親柱(南詰西側)



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江戸歌舞伎発祥の地碑(北詰西側)
中村座の始祖猿若勘三郎は中村勘兵衛の次男で、京都で大蔵流狂言をよくした。
歌舞伎に転じ、「猿若」を始め、天下に謳われ、猿若と名乗る。
元和8年江戸に下り、寛永元年、中橋南側に猿若座を創建。
寛永9年に禰宜町(日本橋堀留町)に、慶安4年に堺町(人形町)に移転、ここで中村座と改称。
更に天保12年、淺草猿若町に移転。
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京橋大根河岸青物市場跡碑(北詰西側)
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(北詰東側)
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大正11年の親柱(南詰東側)
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煉瓦銀座の碑
明治5年の銀座・築地一帯の大火後、煉瓦造りの街作りが進められる。
新橋~京橋の大通りの土地を買い上げ、日本最初の15間(27m)道路とし、両側に煉瓦造り連屋2階建ての建築を建設し、これを払い下げた。
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「★東京インデックス」 をご参照下さい
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一葉日記抄 明治24年(1891)10月7日(19歳) (文章修業)「これ作りはてねば死なんとおもふ・・・」  (十五夜の月見)「哀、おの子ならましかば、・・・」(「蓬生日記」)

一葉日記抄 明治24年(1891)10月4日(19歳)の後を続けます。
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一葉の文章修業と、妹と行った十五夜の月見の様子が書かれている部分です。
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(読み易さの為、改行を施す)
10月7日
「七日快晴。午前、髪すましぬ。
弔午後より文机に打むかひて、文どもそこはかとかいつゞくるに、心ゆかぬことのみ多くて、引さき捨引さき捨することはや十度にも成ぬ。いまだに一篇の文をもつゞり出ぬぞいとあやしき。
早うものし初たるなむ師の君(*中島歌子)に一回丈添刪を乞いたるあり。そがつゞきをつゞらぼやと思ふに、我ながらおもしろからで、かうは引やりつるなれどさてしはつべきならねば別に趣向をもうけなどして又つゞり出るに、夫もこれもいとったなし。
昔し今の名高さ物語も小説もみる度に我筆我ながらかなしう成て、はてはては打も捨まほしけれど、中々に思ひ初つることえやむまじきひが心にをこがましけれど、又つゞしり出ぬ。あさて迄にはかならず作りはてん。
これ作りはてねば死なんとおもふも心ちいさしと笑ふ人はわらひねかし」(「蓬生日記」)
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午前中に髪を結い、午後、書きものを続けるが、思うように書けず、破り捨てること10回に及ぶ。まだ一つの作品も出来ないのは情けない、と思う。
中島歌子先生に添削してもらったものの続きを書こうとするが、うまく書けず、こんなに破り捨てている。
これではいけない、別の構想を考え直して書き出すものの、どれもつまらない。
古今の有名な物語・小説を見る度に、自分の文章のまずさに悲しくなり、全部捨ててしまいたいと思うが、思いをかけてきた文学を断ち切ることが出来ない。身の程知らずであるが、また物を書き続けている。明後日までには必ず書きあげよう。
これを書きあげる事が出来ないなら、いっそ死んでしまおうと思う。気が小さいといって笑う人は、どうぞ笑って下さい。
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10月8日
「八日快晴。午前清書、午後作文。『十八史略」及び『小学』を読む。・・・」
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10月17日
「十七日 ・・・
今宵は旧菊月十五日なり。空はゞみ渡す限り雲もなくて、くずの葉のうらめづらしき夜也。
「いでや、お茶の水橋の開橋になりためるを、行みんは」など国子にいざなはれて、母君も、「みてこ」などの給ふに、家をば出ぬ。
あぶみ坂登りはつる頃、月きしのぼりぬ。
軒はもつちも、たゞ霜のふりたる様にて、空はいまださむからず、袖にともなふぞおもしろし。
行々て橋のほとりに出ぬ。
するが台のいとひきくみゆるもをかし。
月遠しろく水を照して、行かふ舟の火かげもをかしく、金波銀波こもごもよせて、くだけてはまどかなるかげ、いとをかし。
森はさかさまにかげをうかペて、水の上に計(バカリ)一村(ヒトムラ)の雲かゝれるもよし。
薄霧立まよひて遠方ほいとほのかなるに、電気のともし火かすかにみゆるもをかし。
「いざまからん」と計(バカリ)いひて、かくもはなれ難きぞ、いとわりなき。
「またかゝる夜いつかはみん」など語りつれつゝ、するが台より太田姫いなりの坂を下りてくるほど、下よりのぼりくる若人の四たり計、衣はかんにて出立さはやかに、折にふれたるからうたずんじくる。
「哀(アワレ)、おの子ならましかば、我もえたえぬ夜のさまよ」とて国子のうら山しげにいふもをかし。・・・」
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旧暦9月の十五夜の日。快晴。お茶の水橋が開通になったそうなので、それを見に行こうと妹の邦子に誘われ、母も「見ておいで」と云うので、家を出た。
鐙坂を登り切る頃、月が出た。
軒も地も一面に霜が降りたように真っ白で、空気はまだ寒くなく、月が一緒に連れだって歩くのも面白い。
月光は白く川を照らし、行き交う舟の灯が水に映り、金波銀波がよせてはくだけ、安らかな光も大そう美しい。
森はさかさまに姿を映し、水の上だけ雲がかかるのもよい。
薄霧が所々に立ち、遠方は電灯の灯がぼんやりとかすかに見えるのも面白い。
もう帰ろうと言いながらも立ち去り難いのもやむをえない気がする。
二度とこんな美しい夜景を見る折があるだろうかなどと、話しながら、駿河台から太田姫稲荷の坂をおりてくると、下から登ってくる青年四人ばかりに出逢う。
着物は簡素でさっぱりとして、漢詩を吟じながら来るのがこの情景にぴったりした感じでした。
「あゝ、私も男だったらなあ。女であっても黙っていられない程の夜景ですよ」と、邦子が羨ましそうに言うのも面白い。・・・
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月の描写、唸るくらいの美文である。
(美文過ぎるのかもしれない。)
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お茶の水橋は、それまでは渡し船であったのが、明治23年に架橋されたそうだ。
(但し、現在のお茶ノ水橋は、大震災の復興事業で架けられたもの)
この地点は、駿河台というだけあった高台になっており、月見の場所でもあったと思われる。
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2歳年下の妹邦子の感想も面白い。
女3人の家族。貧乏であっても明るく生きている様子が窺える。
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10月20日
「廿日 晴。何事もなし。図書館に行。」 
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10月21日
「廿一日 晴。同。」
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「★一葉インデックス」 をご参照下さい。
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秋 柿たわわに実る

昨日(10月23日)は、久しぶりの二日酔いで半日はアウトだった。
午後遅く、近所を散歩した。
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柿。
これだけの柿を放置しているということは、これはキット、シブ柿に違いない、などと思っているのだが。

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名前を知らない雑草
横須賀線「新川崎駅」前の野原に、これと同じと思われるものが群生しているのが、電車の中から遠目でも見える。
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夕焼け
もう少し雲が薄いときれいなんですが。
午後4時55分でした。
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「★四季のうつろいインデックス」  をご参照下さい。
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明治6年(1873)9月3日~9月15日 木戸、西郷派遣の閣議決定は「深慮に堪えず」と批判 岩倉・伊藤らの帰国 伊藤博文、薩長体制建直しに暗躍  [一葉1歳]

明治6年(1873)9月3日
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・三条実美、木戸に西郷派遣の後、征韓出兵に必要を告げる(恐らく西郷は暴殺されるだろうから出兵が必要と告げた)。
木戸は、内政優先と出兵による列強の反撥を懸念し、西郷の派遣に反対する。
「万民困苦」して「蜂起する数次」の状況では内政が急務。「ますます人民を困らせ、いよいよ国力を損」ずる外征には反対、西郷派遣の閣議決定は「深慮に堪えず」と批判。
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「四時三条公に至る、談話中西郷参議より台湾出張朝鮮討伐建言云々あり、且つ朝廷上にもすでに決議を欲す、依て深憂に堪えず、今万民困苦し新令しばしば伝えて民ますます迷い去年来蜂起する数次、・・・当時の内政を治むるを以て第一着とす」(「木戸日記」)。
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9月12日
・この日付け西郷隆盛の陸軍少佐別府晋介宛て手紙。
「今日は大使(*岩倉)も帰着のつもりに御座候由、私にも当所は引き払い、小網町へ罷り帰るつもりに御座候得ども、此の雨冷えにて明日に相延し侯」と書く。
岩倉が帰国するので病気(高血圧)療養のため滞在している渋谷の西郷従道別邸を引き揚げ、小網町の自宅で待機することにした旨を報らせる。
そして、「是非二十日迄には出帆のつもり」と予定を告げる。
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9月13日
・右大臣岩倉具視一行帰国。
全権大使岩倉具視(右大臣)、副使伊藤博文(工部大輔)、副使山口尚芳(外務少輔)ら、満身創痍の帰国。1年10ヶ月ぶり。
大久保・木戸両副使は先に帰国。大久保・木戸や留守政府高官などの出迎えなし。
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伊藤の見た政情と伊藤の政略;
土佐・肥後が羽振りを利かせ、長州閥は不振。
陸軍卿山県有朋は山城屋和助事件(陸軍省公金不正費消事件)への関与により窮地に陥り、大蔵大輔井上馨は専横を非難されて辞職を余儀なくされ、更に尾去沢銅山事件(国有財産不正払い下げ事件)の疑惑を追及されている。
伊藤は、この急場を乗りきるには薩長協力体制の再建以外にないと判断。
その鍵となるのは、大久保の参議就任であり、大久保を軸に西郷・木戸の三人組を復活させ、政権の主導権を奪い返す戦略をたてる。
そこで、人事権をにぎる三条・岩倉に大久保への参議任命を働きかけ、一方で、薩摩閥幹事長格の開拓次官黒田清隆と連絡を取り根回しにあたる。
また、岩倉を軸にして木戸と大久保を和解・協力させ、他方で西郷と江藤を切り離して、江藤を孤立させて叩く戦略をとる。
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9月14日
・伊藤博文、木戸を訪問。伊藤が西郷派遣慎重論を述べると、これまでの確執が溶解する。
15日、木戸、伊藤へ自閉気味の書簡。20、21日にも書簡。小野組転籍事件(郷党の子分槇村救済)訴える。
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外遊中に伊藤が大久保に接近し、木戸・伊藤関係はまずくなっていたが、14日の「木戸日記」には、「伊藤春畝来訪、欧州一別以来の事情を承了し、また本邦の近情を話す」とある。
伊藤の回想によれば、西郷派遣慎重論を述べたところ、「大変公の気に入って欧羅巴(ヨーロッパ)で起った感情の行違いがすっかり釈けてしまった」という。
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翌15日付け伊藤宛て木戸の書簡:
「大使(*岩倉)なり留守の諸先生なり、弟(*自分)も信用を失い、弟また信用も致さず」、
「素志相遂げ度く」(辞職したい)と、自閉気味の書簡。
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20、21日付け書簡:
木戸が伊藤に訴えたかったのは、槇村正直一件(小野組転籍事件)。
「(裁判所は槇村に対し)只管(ヒタスラ)威権を以て暴に圧倒いたさんとのみ」、
「裁判所の如きものは御廃しに相成り候方、天下のため人民のためにも相成り申すべし、旧幕の暴政にても此の如く暴威を以て、身分ある官員を取り扱い候事は之れなく」、「
裁判所も始終暴断にて是非曲直を裁判するの主意は毫も之れなく」、
と裁判所を攻撃し、裁判所廃止が「天下のため人民のため」になる主張。
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この時期、木戸は、征台征韓反対・内政優先などを主張しているが、
最大の関心事は、不始末をしでかした郷党(長州)の子分の救済と、不正を容赦しない裁判所、司法省、江藤への憎悪であった。
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9月14日
・司法省、京都府知事・参事に臨時裁判所に出頭するため上京・待機せよと召喚。
15日、司法省、臨時裁判所を行政府に主導させないため「陪審」を建議。
22日、正院、陪審を設けるが、規則が定まるまで開廷を見合わせると回答。
槇村(京都府参事)の後ろ楯の木戸と、長谷(京都府知事)の後ろ楯の三条が連携して、正院決定を動かす。
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9月15日
・岩倉具視、太政大臣三条実美を訪問。
①大久保の参議起用と
②木戸の職務復帰を協議。
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三条は、岩倉との会談内容を確認するかのように岩倉に手紙を送る。
「過刻は来駕拝眉大事に御座候、・・・御高論は実に感佩仕り候、もはや今日にて兎角公論衆議に決し侯様之れなくては然るべからずと至極御同意仕り候、右についても大久保木戸の両氏政府に出勤の運びに相成らず侯ては百事治まり申さず候」。
岩倉は、公論衆議による政府の意思決定を進言したようだが、参議や各省に引きまわされ統率力を失っている三条には、「感佩」すべき意見に聞こえた様子。
そこで、三条は、その為にも大久保・木戸を政府(正院)に出勤させなければならないと、去る1月に「両氏」を旅先から中途召還したとき以来の持論を蒸し返す。
各国巡遊中は「両氏」の不仲に手を焼いた岩倉であるが、特に反対はしなかったと推測できる。
こうして、当面する困難な「百事」処理のために、大久保を参議に起用し、現職の木戸を職務に復帰させることが、三条と岩倉のさしあたりの課題になった。
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岩倉にとって、「百事」とは:
(19日付け岩倉のフランス駐在公使鮫鳥尚信宛て書簡)
「廟堂上の事御案じの通り紛紜も之れあり」と、政府をめぐる混乱2件をあげる。
①「井上渋沢及び工部井上等辞職、是には云々の義も之れあり甚だ心配」(井上馨・渋沢栄一の辞職と7月の鉄道頭井上勝の辞職)、
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②「従二位久光殿義についても定めて御懸念と存じ侯ところ、随行門地家旧藩士二百五十人ばかりのところ、二百人は久光説得にて帰県相成り、先ず以て人心平穏、しかし同卿(久光)進退の義については頗る入込候次第之れあり」(島津久光問題)。鮫島も薩摩藩出身。
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③民政関係は、「内地のところ、当時は処々の一揆も片付き、麦米とも豊作、先ず以て平穏」とし、「新令百出煩に堪えずの苦情之れあり候趣、何年日本相応開化の等を得たきもの」とする(性急な改革に若干の批判をこめて簡単に触れる)。
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④対外問題は、台湾、朝鮮、樺太、清国の4件をあげる。
台湾問題は、
「台湾始末紛紜御評議も候えども、多分即今新手には至るまじく」と観測。
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朝鮮問題は、
「朝鮮征伐御互いかねて承知の通り共に御評議之れあり候えども、是れ以て即時の事にては之れなくや」と、当面の急務とは見ていない。
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樺太問題は、
「樺太魯国(ロシア)住民追々暴動の件之れあり、右は捨置き難き次第にて専ら御評議中に御座候、是れは屹度談判も相始まり必ず始末遊ばさる事と推察」し、正院の外交論議が「専ら」この問題に集中し近くロシアとの談判も始まるはず推察。
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清国問題は、
「支那事件、副島尽力の義略々承り侯・・・未だ委敷(クワシク)承知いたさず」と簡単に述べるにとどめる。
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岩倉は、薩摩出身の外交官である鮫島に西郷の朝鮮派遣問題については何も書いていない。
岩倉は、この問題に無関心であったか、軽視していたか、いずれにしても朝鮮使節問題は「百事」に入れていない。
「百事」解決の為の「大久保木戸の両氏政府に出勤」という三条の構想は、西郷の朝鮮派遣問題とは直接の関係がなかったといえる。
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9月15日
・京都府権典事木村源蔵、再び木戸孝允を訪問。
京都府裁判所の不当を訴え。木戸は三条・伊藤・大隈らに書簡。
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9月15日
・新橋~横浜間、貨物列車の営業開始。
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天文23(1554)年5月~8月 京都北白川郷民が吉田郷を襲撃 信玄の下伊那侵攻 三好長慶の播磨侵攻 [信長21歳]

天文23(1554)年5月
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この月
・武田信玄、戦国家法「甲州法度之次第」に2ヶ条を追加し57ヶ条とする。
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・加賀白山噴火。翌年にかけて霧島噴火。
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5月4日
・「禁裏東南堀之事、伊勢守(貞孝)、三好筑前守(長慶)等に仰せ下さる」(「言継卿記」同日条)。
朝廷の内命が伊勢貞孝・三好長慶に下る。裁許における伊勢貞孝の位置は高い。
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5月12日
・毛利元就、晴賢討伐のため挙兵。桜尾・草津・仁保島の諸城降伏。
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5月21日
・京都北白川郷、洛東吉田郷と芝草刈りで相論、北白川郷民が吉田郷を襲撃。
山科言継は具足に身を固め、叔父宣忠・鳥丸光康ら上級公卿は武力として上京町衆500余人を率いて仲裁(「言継卿記」)。
29日、幕府政所代蜷川親俊(伊勢貞孝の家宰)、白川・吉田両郷相論に関わる意見状を三好長慶被官の斉藤基速・松永久秀に裁許原案を示す(宮内庁書陵部所蔵「蜷川家記」)。
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「早旦且吉田へ北白川より取り懸かるの由これある間馳せ向かふ。烏丸(光康)・広橋新亜相(国光)・中御門(宣忠)・予・富小路父子・大和宮内大輔兄弟等同道候い了んぬ。予の共大沢出雲守・・・小者三人等なり。少々具足着し了んぬ。同道の衆以上八十余人これあり。此方上京衆所々合力五百計りこれあり。但し申分これあり。先づこれを引く間、各午時帰宅し了んぬ。」(「言継卿記」5月21日条)。
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中世在地裁判権における中人は、通常、紛争当事者と生活の場を同じくする有力者が多く、郷村指導者・僧侶・神官・領主・守護等があたるが、この事件の場合は、大納言級の上流公卿が中人集団を構成している。
戦国期京都の時間的・地域的特殊性が現れている。
上京の町衆が言継ら「中人」を警固したという事は、言継らが住民に一定の信頼関係を持っていた事を示す。
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一旦は調停が功を奏し収束するが、摂津芥川城(上級裁判所)へ最終裁定が委ねられる事態となる。
「一、吉田郷と北白川芝草相論喧嘩、白川に二人死す 
一、白川と吉田郷相論の事 ・・・ 
一、白川と吉田郷申す事に就て、先日使者を以て申さしめ候処、様躰委細承り候。
然れば一書を以て存分申きしめ、御分別を加へ有様御人魂(ジッコン)祝着たるベく候。
猶運藤内蔵助申すべく候。恐々 - 
(天文二十三年)五月廿九日 斎藤越前守(基速)殿 松永弾正忠(久秀)殿進之候」(「蜷川家記」)。
この書状は、言継らは紛争終息直後、三好長慶にの許へ使者をつかわして裁断を仰ぎ、長慶の訴訟取次にあたる松永久秀と斎藤基速らは、旧幕府政所執事伊勢貞孝(早くから親長慶派で、義輝から離れて当時在京)の許に裁許案を諮問、その答申案を政所代蜷川親俊が具申した書状と推定される。
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6月20日
・山科言継、鞍馬寺の竹伐り会を初めて見物(「言継卿記」同日条)。
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7月23日
・カール5世王子フェリペ(2世)と従姉・イングランド女王メアリー・テューダー(メアリー1世、血のメアリー)、ウィンチェスターにて両者の初対面。
フェリペは無敵艦隊130隻を従えサザンプトンに上陸。
25日、ウィンチェスター大聖堂で結婚。
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7月24日
・信玄の下伊那侵攻。
武田晴信、伊奈郡の神之峰城主 知久頼元・座光寺氏が叛いたため、信濃下伊那に出陣。
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8月6日
'・武田晴信、信濃国に入り佐久郡の諸城を攻略。義信の初陣。
7日、かつての松尾城(飯田市)城主小笠原信貴(武田氏に出仕)の先導で、鈴岡城(飯田市、信濃守護小笠原長時の弟信定の拠点、長時は村上義清の葛尾城から移る)を攻略。
この直後、吉岡城(下條村)の下条信氏ら下伊那郡の領主・地侍が武田氏に帰属。
15日、武田勢、知久平に進出し知久氏(知久頼元)の神峰城(飯田市)を攻略。
下伊那郡も武田領になり飯田城に城代をおく。
*
(その後の下伊那)
永禄5(1562)年、譜代家老秋山虎繁が城代として高遠城より移り、下条氏を盟主とする下伊那衆を寄騎として従え領国化を実現してゆく。
下条信氏の役割は大きく、下伊那郡域最大の領主として信玄の妹を妻に迎える。
勝頼の代になると自立性を高め、武田家滅亡期には下伊那衆を糾合し、いち早く家康への帰属を実現。
*
8月13日
'・証如(光教、39)、没。
顕如光佐(12)、本願寺住持を継ぐ。後見人は証如母・顕如祖母の慶寿院。
*
8月16日
・大友義鎮、肥前守護職に補任。
*
8月下旬
・三好長慶、一族の三好長逸を三田に派遣。有馬郡三田城主有馬重則と播磨美嚢郡別所城主三木次郎との境界争いで三木攻撃のため。
9月12日、別所城包囲。
この年冬には長慶自ら弟三好義賢らと明石郡に出陣、播磨の国人明石氏・別所氏らを服属させ、播磨の東2郡は三好氏の勢力下に入る。
*
摂津の東北の一部を占める有馬郡は、武庫川の上流域山間部で、南北朝後半期以来、摂津守護細川氏の管轄から切り離された分郡で、守護は代々赤松氏の庶流家(のちに有馬家と称す)が継承。
細川氏・山名氏・赤松氏勢力に囲まれ、室町幕府の安定期には緩衝地帯としての役割を果していたが、戦国期には摂津国人池田氏や塩川氏の勢力浸透があり、長慶が越水城主となった頃より、三好氏の保護下におかれる。
天文23年頃、有馬郡の守護所、三田の城主有馬重則と、西に接する播磨美嚢郡別所の城主、三木次郎とが境界争いをくり返し、重則は長慶に救援を求める。
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長逸は、長慶に預けられた摂津一国の有力部隊全軍を兵庫に集結させ北上、鵯越~押部谷を経て三木郊外に赤松系の三木軍と遭遇。
この頃、播磨は、赤松・浦上の守護系地方権力が命脈を保っているが、大物崩れ以来浦上氏も弱体化し、更に天文8年には尼子経久の大侵入があり全く威勢を失い、別所・三木・小寺・浦上等の国人の割拠状態となっている。
9月1日、依藤(ヨリフジ、別所)城外で交戦、三木次郎は敗れ依藤城に籠城。長逸は、依藤城包囲の傍ら10日間に付城・出丸等7ヶ所を陥落し、12日に引揚げる。
長逸は芥川城へ帰り、長慶に戦闘の経過を復命し、播磨は分裂状態にあり今が版図拡大の機会であると長慶の出馬を勧める。また既に赤松政村からの出兵依頼も長慶に届いている。
長慶は播磨出兵を準備の為、弟3人(淡路の安宅冬康、讃岐の十河一存、阿波の三好義賢)に対し、10月中旬に淡路炬ノロ城(洲本市)に来会するよう促す。
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「★信長インデックス」 をご参照下さい
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フランスのストライキに関する写真

フランスでは、年金支給年齢引き上げに反対する労働者のストライキが続いています。
確か、昨年は年明けからゼネストだった。
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その他、ヨーロッパではスペインでもゼネストがあった。
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日本では、大労組が、今年の春闘では、1千万人といわれる年収200万円以下の非正規労働者の賃金底上げを優先的に要求してゆくという方針を出した。
(10年遅いよ!!)
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私が読者になっている「フランスの日々」が、
10月14日からのストライキの模様を写した写真40枚を掲載するサイトを紹介してました(コチラ)。
なかなかいい写真が揃ってます。
ご参考まで。

2010年10月23日土曜日

東京 清水濠の白鳥 「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」(若山牧水)

このところ、江戸城の清水濠に白鳥が泳いでいる。
下の写真の時は、よほどの空腹だったのか、優雅さや孤独とはほど遠く、がっついていました。
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白鳥といえば、・・・
連想は、チャイコフスキーのバレエ「白鳥の湖」と、
「白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」(若山牧水)
なんですがネ。


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見ている間、殆どが下のような状態でした。
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このお濠がある清水門を通ると、貫禄ある石段が続く
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石段を登りつめたところにハナミズキ
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「★東京インデックス」をご参照下さい
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東京 悲しき日本橋川(6) 宝田橋 俎橋 南堀留橋 堀留橋 東京理科大学発祥の地の碑 新川橋 讃岐高松藩上屋敷の庭園跡

以前に、「悲しき日本橋川(1)~(5)」(コチラ)というのを掲載したことがあります。
この(1)の冒頭に、こう書きました。
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「先ごろ亡くなられたレヴィ・ストロースさんをぱくった訳ではないですが、日本橋川を日本橋~俎橋(九段下と神田を繋ぐ橋)へと辿り、思わず「悲しき・・・」と形容してしまった。
昭和39年、東京オリンピック。
渋滞を回避するための即効手段として採用されたのが、この日本橋川の上に高速道路を作ること。
以来、この川は「日の目」を見ることなく、「繁栄」メガロポリスTOKIOに見捨てられたまま、沈黙を守る。」
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今回は、(5)の宝田橋、俎橋がかぶりますが、ここから往復で50分くらいで行けるところまで行くことにしました。
日光を遮られたこの川の恨み節が聞こえてくるようです。
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宝田橋


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宝田橋から上流の俎橋方面を見る
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宝田橋から下流の雉子橋方面を見る。
船の発着場が見える
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俎橋から下流を見る
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靖国通り 俎橋の交差点
左方向が九段下、靖国神社、右方向が神田。
高速の下に日本橋川が流れている
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中坂
九段坂の一本北側にある
以前にコチラで滝沢馬琴の井戸などと一緒にご紹介したことがあります。
この中坂を下って、日本橋川に架かる橋は、南堀留橋。
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完成は昭和3年と古い。
多分、大震災後の復興事業の一環だと思う。
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南堀留橋の一本北側に堀留橋
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東京理科大学発祥の地の碑
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橋のたもとにお地蔵さん(「伝蔵地蔵尊」とあります)
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新川橋
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新川橋の少し北にある、「讃岐高松藩上屋敷の庭園跡」の説明板
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少し北側から新川橋を見る
あと少しで水道橋だと思うけど、戻らねばならない時間となった。
続きは、またの機会に。
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「★東京インデックス」 をご参照下さい
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地図には、高速は表示されているが、日本橋川は表示されていない。
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