明治6年(1873)9月3日
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・三条実美、木戸に西郷派遣の後、征韓出兵に必要を告げる(恐らく西郷は暴殺されるだろうから出兵が必要と告げた)。
木戸は、内政優先と出兵による列強の反撥を懸念し、西郷の派遣に反対する。
「万民困苦」して「蜂起する数次」の状況では内政が急務。「ますます人民を困らせ、いよいよ国力を損」ずる外征には反対、西郷派遣の閣議決定は「深慮に堪えず」と批判。
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「四時三条公に至る、談話中西郷参議より台湾出張朝鮮討伐建言云々あり、且つ朝廷上にもすでに決議を欲す、依て深憂に堪えず、今万民困苦し新令しばしば伝えて民ますます迷い去年来蜂起する数次、・・・当時の内政を治むるを以て第一着とす」(「木戸日記」)。
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9月12日
・この日付け西郷隆盛の陸軍少佐別府晋介宛て手紙。
「今日は大使(*岩倉)も帰着のつもりに御座候由、私にも当所は引き払い、小網町へ罷り帰るつもりに御座候得ども、此の雨冷えにて明日に相延し侯」と書く。
岩倉が帰国するので病気(高血圧)療養のため滞在している渋谷の西郷従道別邸を引き揚げ、小網町の自宅で待機することにした旨を報らせる。
そして、「是非二十日迄には出帆のつもり」と予定を告げる。
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9月13日
・右大臣岩倉具視一行帰国。
全権大使岩倉具視(右大臣)、副使伊藤博文(工部大輔)、副使山口尚芳(外務少輔)ら、満身創痍の帰国。1年10ヶ月ぶり。
大久保・木戸両副使は先に帰国。大久保・木戸や留守政府高官などの出迎えなし。
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伊藤の見た政情と伊藤の政略;
土佐・肥後が羽振りを利かせ、長州閥は不振。
陸軍卿山県有朋は山城屋和助事件(陸軍省公金不正費消事件)への関与により窮地に陥り、大蔵大輔井上馨は専横を非難されて辞職を余儀なくされ、更に尾去沢銅山事件(国有財産不正払い下げ事件)の疑惑を追及されている。
伊藤は、この急場を乗りきるには薩長協力体制の再建以外にないと判断。
その鍵となるのは、大久保の参議就任であり、大久保を軸に西郷・木戸の三人組を復活させ、政権の主導権を奪い返す戦略をたてる。
そこで、人事権をにぎる三条・岩倉に大久保への参議任命を働きかけ、一方で、薩摩閥幹事長格の開拓次官黒田清隆と連絡を取り根回しにあたる。
また、岩倉を軸にして木戸と大久保を和解・協力させ、他方で西郷と江藤を切り離して、江藤を孤立させて叩く戦略をとる。
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9月14日
・伊藤博文、木戸を訪問。伊藤が西郷派遣慎重論を述べると、これまでの確執が溶解する。
15日、木戸、伊藤へ自閉気味の書簡。20、21日にも書簡。小野組転籍事件(郷党の子分槇村救済)訴える。
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外遊中に伊藤が大久保に接近し、木戸・伊藤関係はまずくなっていたが、14日の「木戸日記」には、「伊藤春畝来訪、欧州一別以来の事情を承了し、また本邦の近情を話す」とある。
伊藤の回想によれば、西郷派遣慎重論を述べたところ、「大変公の気に入って欧羅巴(ヨーロッパ)で起った感情の行違いがすっかり釈けてしまった」という。
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翌15日付け伊藤宛て木戸の書簡:
「大使(*岩倉)なり留守の諸先生なり、弟(*自分)も信用を失い、弟また信用も致さず」、
「素志相遂げ度く」(辞職したい)と、自閉気味の書簡。
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20、21日付け書簡:
木戸が伊藤に訴えたかったのは、槇村正直一件(小野組転籍事件)。
「(裁判所は槇村に対し)只管(ヒタスラ)威権を以て暴に圧倒いたさんとのみ」、
「裁判所の如きものは御廃しに相成り候方、天下のため人民のためにも相成り申すべし、旧幕の暴政にても此の如く暴威を以て、身分ある官員を取り扱い候事は之れなく」、「
裁判所も始終暴断にて是非曲直を裁判するの主意は毫も之れなく」、
と裁判所を攻撃し、裁判所廃止が「天下のため人民のため」になる主張。
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この時期、木戸は、征台征韓反対・内政優先などを主張しているが、
最大の関心事は、不始末をしでかした郷党(長州)の子分の救済と、不正を容赦しない裁判所、司法省、江藤への憎悪であった。
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9月14日
・司法省、京都府知事・参事に臨時裁判所に出頭するため上京・待機せよと召喚。
15日、司法省、臨時裁判所を行政府に主導させないため「陪審」を建議。
22日、正院、陪審を設けるが、規則が定まるまで開廷を見合わせると回答。
槇村(京都府参事)の後ろ楯の木戸と、長谷(京都府知事)の後ろ楯の三条が連携して、正院決定を動かす。
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9月15日
・岩倉具視、太政大臣三条実美を訪問。
①大久保の参議起用と
②木戸の職務復帰を協議。
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三条は、岩倉との会談内容を確認するかのように岩倉に手紙を送る。
「過刻は来駕拝眉大事に御座候、・・・御高論は実に感佩仕り候、もはや今日にて兎角公論衆議に決し侯様之れなくては然るべからずと至極御同意仕り候、右についても大久保木戸の両氏政府に出勤の運びに相成らず侯ては百事治まり申さず候」。
岩倉は、公論衆議による政府の意思決定を進言したようだが、参議や各省に引きまわされ統率力を失っている三条には、「感佩」すべき意見に聞こえた様子。
そこで、三条は、その為にも大久保・木戸を政府(正院)に出勤させなければならないと、去る1月に「両氏」を旅先から中途召還したとき以来の持論を蒸し返す。
各国巡遊中は「両氏」の不仲に手を焼いた岩倉であるが、特に反対はしなかったと推測できる。
こうして、当面する困難な「百事」処理のために、大久保を参議に起用し、現職の木戸を職務に復帰させることが、三条と岩倉のさしあたりの課題になった。
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岩倉にとって、「百事」とは:
(19日付け岩倉のフランス駐在公使鮫鳥尚信宛て書簡)
「廟堂上の事御案じの通り紛紜も之れあり」と、政府をめぐる混乱2件をあげる。
①「井上渋沢及び工部井上等辞職、是には云々の義も之れあり甚だ心配」(井上馨・渋沢栄一の辞職と7月の鉄道頭井上勝の辞職)、
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②「従二位久光殿義についても定めて御懸念と存じ侯ところ、随行門地家旧藩士二百五十人ばかりのところ、二百人は久光説得にて帰県相成り、先ず以て人心平穏、しかし同卿(久光)進退の義については頗る入込候次第之れあり」(島津久光問題)。鮫島も薩摩藩出身。
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③民政関係は、「内地のところ、当時は処々の一揆も片付き、麦米とも豊作、先ず以て平穏」とし、「新令百出煩に堪えずの苦情之れあり候趣、何年日本相応開化の等を得たきもの」とする(性急な改革に若干の批判をこめて簡単に触れる)。
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④対外問題は、台湾、朝鮮、樺太、清国の4件をあげる。
台湾問題は、
「台湾始末紛紜御評議も候えども、多分即今新手には至るまじく」と観測。
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朝鮮問題は、
「朝鮮征伐御互いかねて承知の通り共に御評議之れあり候えども、是れ以て即時の事にては之れなくや」と、当面の急務とは見ていない。
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樺太問題は、
「樺太魯国(ロシア)住民追々暴動の件之れあり、右は捨置き難き次第にて専ら御評議中に御座候、是れは屹度談判も相始まり必ず始末遊ばさる事と推察」し、正院の外交論議が「専ら」この問題に集中し近くロシアとの談判も始まるはず推察。
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清国問題は、
「支那事件、副島尽力の義略々承り侯・・・未だ委敷(クワシク)承知いたさず」と簡単に述べるにとどめる。
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岩倉は、薩摩出身の外交官である鮫島に西郷の朝鮮派遣問題については何も書いていない。
岩倉は、この問題に無関心であったか、軽視していたか、いずれにしても朝鮮使節問題は「百事」に入れていない。
「百事」解決の為の「大久保木戸の両氏政府に出勤」という三条の構想は、西郷の朝鮮派遣問題とは直接の関係がなかったといえる。
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9月15日
・京都府権典事木村源蔵、再び木戸孝允を訪問。
京都府裁判所の不当を訴え。木戸は三条・伊藤・大隈らに書簡。
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9月15日
・新橋~横浜間、貨物列車の営業開始。
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「★一葉インデックス」 をご参照下さい
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