天文23(1554)年5月
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この月
・武田信玄、戦国家法「甲州法度之次第」に2ヶ条を追加し57ヶ条とする。
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・加賀白山噴火。翌年にかけて霧島噴火。
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5月4日
・「禁裏東南堀之事、伊勢守(貞孝)、三好筑前守(長慶)等に仰せ下さる」(「言継卿記」同日条)。
朝廷の内命が伊勢貞孝・三好長慶に下る。裁許における伊勢貞孝の位置は高い。
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5月12日
・毛利元就、晴賢討伐のため挙兵。桜尾・草津・仁保島の諸城降伏。
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5月21日
・京都北白川郷、洛東吉田郷と芝草刈りで相論、北白川郷民が吉田郷を襲撃。
山科言継は具足に身を固め、叔父宣忠・鳥丸光康ら上級公卿は武力として上京町衆500余人を率いて仲裁(「言継卿記」)。
29日、幕府政所代蜷川親俊(伊勢貞孝の家宰)、白川・吉田両郷相論に関わる意見状を三好長慶被官の斉藤基速・松永久秀に裁許原案を示す(宮内庁書陵部所蔵「蜷川家記」)。
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「早旦且吉田へ北白川より取り懸かるの由これある間馳せ向かふ。烏丸(光康)・広橋新亜相(国光)・中御門(宣忠)・予・富小路父子・大和宮内大輔兄弟等同道候い了んぬ。予の共大沢出雲守・・・小者三人等なり。少々具足着し了んぬ。同道の衆以上八十余人これあり。此方上京衆所々合力五百計りこれあり。但し申分これあり。先づこれを引く間、各午時帰宅し了んぬ。」(「言継卿記」5月21日条)。
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中世在地裁判権における中人は、通常、紛争当事者と生活の場を同じくする有力者が多く、郷村指導者・僧侶・神官・領主・守護等があたるが、この事件の場合は、大納言級の上流公卿が中人集団を構成している。
戦国期京都の時間的・地域的特殊性が現れている。
上京の町衆が言継ら「中人」を警固したという事は、言継らが住民に一定の信頼関係を持っていた事を示す。
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一旦は調停が功を奏し収束するが、摂津芥川城(上級裁判所)へ最終裁定が委ねられる事態となる。
「一、吉田郷と北白川芝草相論喧嘩、白川に二人死す
一、白川と吉田郷相論の事 ・・・
一、白川と吉田郷申す事に就て、先日使者を以て申さしめ候処、様躰委細承り候。
然れば一書を以て存分申きしめ、御分別を加へ有様御人魂(ジッコン)祝着たるベく候。
猶運藤内蔵助申すべく候。恐々 -
(天文二十三年)五月廿九日 斎藤越前守(基速)殿 松永弾正忠(久秀)殿進之候」(「蜷川家記」)。
この書状は、言継らは紛争終息直後、三好長慶にの許へ使者をつかわして裁断を仰ぎ、長慶の訴訟取次にあたる松永久秀と斎藤基速らは、旧幕府政所執事伊勢貞孝(早くから親長慶派で、義輝から離れて当時在京)の許に裁許案を諮問、その答申案を政所代蜷川親俊が具申した書状と推定される。
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6月20日
・山科言継、鞍馬寺の竹伐り会を初めて見物(「言継卿記」同日条)。
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7月23日
・カール5世王子フェリペ(2世)と従姉・イングランド女王メアリー・テューダー(メアリー1世、血のメアリー)、ウィンチェスターにて両者の初対面。
フェリペは無敵艦隊130隻を従えサザンプトンに上陸。
25日、ウィンチェスター大聖堂で結婚。
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7月24日
・信玄の下伊那侵攻。
武田晴信、伊奈郡の神之峰城主 知久頼元・座光寺氏が叛いたため、信濃下伊那に出陣。
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8月6日
'・武田晴信、信濃国に入り佐久郡の諸城を攻略。義信の初陣。
7日、かつての松尾城(飯田市)城主小笠原信貴(武田氏に出仕)の先導で、鈴岡城(飯田市、信濃守護小笠原長時の弟信定の拠点、長時は村上義清の葛尾城から移る)を攻略。
この直後、吉岡城(下條村)の下条信氏ら下伊那郡の領主・地侍が武田氏に帰属。
15日、武田勢、知久平に進出し知久氏(知久頼元)の神峰城(飯田市)を攻略。
下伊那郡も武田領になり飯田城に城代をおく。
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(その後の下伊那)
永禄5(1562)年、譜代家老秋山虎繁が城代として高遠城より移り、下条氏を盟主とする下伊那衆を寄騎として従え領国化を実現してゆく。
下条信氏の役割は大きく、下伊那郡域最大の領主として信玄の妹を妻に迎える。
勝頼の代になると自立性を高め、武田家滅亡期には下伊那衆を糾合し、いち早く家康への帰属を実現。
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8月13日
'・証如(光教、39)、没。
顕如光佐(12)、本願寺住持を継ぐ。後見人は証如母・顕如祖母の慶寿院。
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8月16日
・大友義鎮、肥前守護職に補任。
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8月下旬
・三好長慶、一族の三好長逸を三田に派遣。有馬郡三田城主有馬重則と播磨美嚢郡別所城主三木次郎との境界争いで三木攻撃のため。
9月12日、別所城包囲。
この年冬には長慶自ら弟三好義賢らと明石郡に出陣、播磨の国人明石氏・別所氏らを服属させ、播磨の東2郡は三好氏の勢力下に入る。
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摂津の東北の一部を占める有馬郡は、武庫川の上流域山間部で、南北朝後半期以来、摂津守護細川氏の管轄から切り離された分郡で、守護は代々赤松氏の庶流家(のちに有馬家と称す)が継承。
細川氏・山名氏・赤松氏勢力に囲まれ、室町幕府の安定期には緩衝地帯としての役割を果していたが、戦国期には摂津国人池田氏や塩川氏の勢力浸透があり、長慶が越水城主となった頃より、三好氏の保護下におかれる。
天文23年頃、有馬郡の守護所、三田の城主有馬重則と、西に接する播磨美嚢郡別所の城主、三木次郎とが境界争いをくり返し、重則は長慶に救援を求める。
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長逸は、長慶に預けられた摂津一国の有力部隊全軍を兵庫に集結させ北上、鵯越~押部谷を経て三木郊外に赤松系の三木軍と遭遇。
この頃、播磨は、赤松・浦上の守護系地方権力が命脈を保っているが、大物崩れ以来浦上氏も弱体化し、更に天文8年には尼子経久の大侵入があり全く威勢を失い、別所・三木・小寺・浦上等の国人の割拠状態となっている。
9月1日、依藤(ヨリフジ、別所)城外で交戦、三木次郎は敗れ依藤城に籠城。長逸は、依藤城包囲の傍ら10日間に付城・出丸等7ヶ所を陥落し、12日に引揚げる。
長逸は芥川城へ帰り、長慶に戦闘の経過を復命し、播磨は分裂状態にあり今が版図拡大の機会であると長慶の出馬を勧める。また既に赤松政村からの出兵依頼も長慶に届いている。
長慶は播磨出兵を準備の為、弟3人(淡路の安宅冬康、讃岐の十河一存、阿波の三好義賢)に対し、10月中旬に淡路炬ノロ城(洲本市)に来会するよう促す。
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「★信長インデックス」 をご参照下さい
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