2010年10月15日金曜日

一葉日記抄 明治24年(1891)10月4日(19歳) 「地そ軽減をとなふるの有志家、予算の査定に熱中するの代議士、かゝる遊び(待合遊び)に費すのこがねのをしからずとは、・・・」

明治24年(1891)
この年、一葉(まだ夏子)19歳。
17歳で父を亡くす。長兄は既になく、次兄は母と折り合わず家をでている。
家督は一葉が継ぎ、母と妹(くに子)と女三人で内職などして生計を立てている。
稼ぎはせいぜい月に10円~12、3円。
前年9月に本郷区本郷菊坂町に転居している。
(コチラ)
この年4月から日記を書き始め、 前後して半井桃水を訪問、小説の弟子となる。
そんな年の10月4日の日記(「蓬生日記」)
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(改行を施す)
「四日 晴天。午前に読書をなし、午後作文をす。薄暮より国子と共に摩利支天に参る。
帰路、杉山勧工場を見物す。
各商家一人の客なく、寂莫(セキバク)たるにも驚きたり。
前住ける家(13~17歳に住んでいた上野西黒門町)の前を過てくるに、あやしき待合などいふ家出来たり
中坂の頂き、先の日の大風にや崩れけん、一間計(バカリ)石段落たり。
家に帰りしは八時頃。夫より母君の揉療治少しして、習字にかゝる。
十二時ふしどにつきぬ。
待合といふものはいかなる物にや、おのれはしらねど、只もじの表よりみれば、かり初(ソメ)に人を待あはすのみの事なめりとみるに、あやしう唄女など呼上て酒打のみ、燈あかうこゑひくゝ、夜更るまで打興ずめり。
家あるじは大方女子にて、二人三人のみめよき酌女もみゆ。
家は艶にすぎたるはいりのさま、高どのにはいよ簾(スダレ、伊豫簾)かけ渡して、すごしの声ねこゝろにくし。
家名は行燈にかきたるもあり、額打たるもあり。
「ときは」と呼あり、「梅のや」「竹のや」、「湖月」はからす森に名高く、「花月」は新橋の裏町にあり。
あるは「いが嵐」の奥座敷に風をいとひ、「朧」のはなれに落花の狼籍をみるなど、大方世の紳士紳商などいふ人の、かくれ遊びの場所なめり
少なくも一町に一ヶ所はかならずあり
多き所には軒をならべて、仕出しの岡持常に行かふを見る。
世にはいかにあまんのこがねありて、かう用なき人のいとのどかなるよを過すらむ。
孟宗は竹をゑかねて雪中にこゞえ、孫公は雪少なうして窓の光りくらきをなげくに、
地そ(地租)軽減をとなふるの有志家、予算の査定に熱中するの代議士、かゝる遊びに費すのこがねのをしからずとは、不学不識のもののしれがたき事にこそ。」
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たまたま17歳の頃まで住んでいた場所を通りかかったら、待合ができていた。
「待合といふものはいかなる物にや、おのれはしらねど・・・」 と一応とぼけておいて、如何に「世の紳紳商」、「地そ(地租)軽減をとなふるの有志家、予算の査定に熱中するの代議士」、「あまんのこがねありて、かう用なき人(大金持ちで暇を持て余す人)」が、惜しげもなく無駄金を使っている様子を皮肉っている。
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社会批評にしては視点が定まってはいないし、攻撃性もないが、高等教育は受けず、中島歌子の歌塾で学んだだけという境遇にしては、視点の位置は高いと思う。
それと、この頃の風景が分かって面白い。
こういう「大方世の紳士紳商などいふ人の、かくれ遊びの場所」が、「少なくも一町に一ヶ所はかならずあり」って・・・!!
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もし彼女が長生きして馬場孤蝶などとの交際を深めていったら、「平塚らいてう」さんを遥に越えていたに違いないと思うが・・・。
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「★一葉インデックス」をご参照下さい
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