江戸城(皇居)東御苑 2013-08-28
*明治37年(1904)
2月7日
・午後3時、連合艦隊、シングル島付近に集結。
4時16分、「旅順口部隊」先鋒第3戦隊出発。
4時30分、「仁川部隊」出発。
5時、旗艦「三笠」以下の「旅順口部隊」出発。
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2月7日
・週刊『平民新聞』第13号発行
「露国社会党の大団結」1903年7月ロシア社会民主党大会の報告。
「第十三号(明治三十七年二月七日)の「露国社会党の大団結」は三十六年十二月、ロシア各地の二十余団体の代表委員五十余名が露都ぺテルプルグに秘密大会を開き、「露国社会民主党なる一大団結を形成し」たと報じ、「彼等の目的は露国の政体を変じて民主共和の邦となし、カール・マルクスの理想を実現するにあれども目下ただちに要求せる綱領は議会開設、言論・集会・信仰・労働者団結の自由、直税廃止、その他労働者保護の制度なり」と記している。明治三十六年は一九〇三年に当り、同年七月ロシア社会民主労働党はベルギーのブラッセルおよび英国ロンドンに名目上の第二回大会、実際上の創立大会を開いた。『平民新聞』の記事は大会の開催地と日付が相違しているけれども、明らかにこの大会を指したものと思われる。」(荒畑「平民社時代」)
社説「和戦を決する者」
:筆鋒鋭く帝国主義戦争の本質を衝く(和戦決定の鍵は「銀行家と名づくる金貸業者」が握ると論断)。
日本の憲法は、宣戦媾和の大事が天皇の大権によって決せられるべきことを規定す。然れども大権の未だ発動せざるの間、先づ之を決する者あるに似たり」、幸徳は、「誰か之を決する者ぞ」と問い、国民の與論か、立法部の議員か、行政部の官吏か、国務大臣かと問うて、「皆あらず」と答え、それは「銀行者と名づくる金貸業者」である。
「血眼になって開戦を叫んでいる政治家、学者、新聞屋、志士、浪人は一厘の軍資をも献納する能わざる貧乏人である。「政府愚なりといえども未だ彼等の指揮に従って、無資本の戦争を発起するほどに無鉄砲」ではない。
諸新聞はさきに桂首相、曽禰蔵相が全国の銀行家およb資本家を招いて連夜饗宴を張り、軍債の応募を懇請していることを報じた。
しかし、銀行家は種々の口実の下に出資を渋っているので、政府は「富豪社会に勢力ある井上、松方両氏に請うてこれが斡旋」をさせている。
「もし彼等の承諾を経るなくんば、政府も議会も民人の輿論もこれを奈何ともするなきなり。……日本の政治は一に彼等のために輿廃せざるを得ず……ただ彼等少数階級の利益のために、ふところ勘定のために……鳴呼これ日本国民の日本なるか、憲法の日本なるか、少数金賃業者の日本にはあらざるか……」
独り日本のみではない、今や世界の政治はことごとく資本家の支配するところとなっている。
米国のキューバ、フィリピン戦争も、英国のトランスヴァール放伐も、資本家のために市場を拓くにあった。
ロシアがフランスに媚びるのもその資本を借りんがためであり、英仏の親交、独仏の接近、みな銀行家、資本家の希望もしくは掣肘によらざるはない。
ドイツの膠州湾をとり米国のパナマを割く、ついに資本家の傀儡たりしに過ぎなかった。
そして「今や・・・日本もまた漸く資本家、銀行者ちょう少数階級の支配の下に帰し去らんとす」と称して、この惨禍をまぬがれる途は「ただ資本家階級の全廃あるのみ」と結んでいる」(荒畑「平民社時代」)。
深谷蒼茫の投書「紡績工女の実状」:
東京ガス紡績会社の女工2,300人(ほかに男工500人)の寄宿舎生活、会社の搾取の過酷と労働条件の劣悪を糾弾。
足尾銅山の坑夫の投書は坑夫の常食が南京米に限られ、医師の診断がなければ役員米と称する日本米を支給されず、会社は坑夫から1年勤務、ならびに「御当所御都合によっては民法第六二七条の規定にかかわらず、何時御解雇に相成候とも異議申すまじき事」という誓書を聴取している事実を報ずる。
中里介山「人生の哀歌」:
「「真理と詩歌とは必ずしも学者詩人の口を待たず、……童蒙婦女の中よりして神来の調を聞く事無しとせず」とて、「下層社会に行わるる会心の語句を拾うて」投じたものである。そのなかの「寐るの嬉しさ起きるの辛さ、仕事と叱言(こごと)が無けりや善い」に註釈して言っている。「これ我地方機織工女の京吟とす。彼等営々一日十数時間の労働、終日些(いささか)の慰藉無く、来るものは笞の雨と罵詈の声のみ、僅かに数時の睡眠のみ彼等に唯一の安息を与う。……鳴呼人生をして歓喜を以て床を離れ、歓喜を以て職を悉(つく)さしめ、歓喜を以て寝に就かしめ、平和に夢を結ばしむるは誰が任ぞ。」」(荒畑「平民社時代」)
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2月7日
・まだ戦火を交えていない7日、京都市内で提灯行列。
「提灯行列の先鋒○佐世保方面に於ける活動開始せられたりとの報に接し、京都市の法政学校、東邦語学校生徒数百名は五日夜提灯行列を為し、壮烈なる軍歌を高唱しつつ阿弥陀ケ峰の豊太閤廟に登り、徹宵(てつしよう)大爆竹をなせりといふ」(「萬朝報」2月8日)
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2月8日
・陸軍先遣隊、仁川上陸
午前8時、仁川湾を離れた巡洋艦「千代田」(艦長村上格一大佐)、ベーカー島付近で瓜生外吉少将の第4戦隊(「浪速」「高千穂」らと陸軍輸送船3隻の計16隻)に合流。
午後0時30分、第4戦隊、牙山湾に集結。瓜生少将、仁川突入命令示達。
午後2時15分、第4戦隊、牙山湾を離れ仁川に向かう。
午後4時34分、仁川港外の八尾島付近で、旅順口に向かうロシア砲艦「コレーツ」に遭遇。第2小隊「雁」・第1小隊「鵠」が水雷を発射するが命中せず。砲艦「コレーツ」は仁川港に戻る。
午後5時過ぎ、第4戦隊、仁川湾侵入。湾内にはロシア砲艦「コレーツ」・巡洋艦「ワリヤーグ」(砲撃すれば他国船に影響を与えること、国交断絶したが戦線布告ないことから、陸揚げを見守るのみ)。
午後6時、韓国派遣隊2,200(旅団長木越守綱少将)、仁川上陸。
夜半、瓜生少将は、仁川の日本領事館を通じて「ワリヤーグ」艦長ルードネフ大佐に仁川退去要求。
・連合艦隊主力の「旅順口部隊」、黄海海域に到達するも、ロシア艦船は発見できず。
夕刻、旅順南方沖の円島で停泊、東郷司令長官は予定の通りの進撃を命令。
これによって第1駆逐隊(白雲、朝潮、霞、晩)、第2駆逐隊(雷、朧、電)、第3駆逐隊(薄雲、東雲、漣)は旅順口に、第4、第5駆逐隊は大連に向かう。
午後、10時30分頃、旅順湾内のロシア艦船を確認。東郷司令長官は駆逐艦発進を命令。
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・旅順口沖海戦
連合艦隊第1・2・3駆逐艦隊が順次、旅順港外ロシア艦隊を奇襲。
午後11時40分~、戦艦「レトウィザン」「ツェザレウィチ」・巡洋艦「バラルーダ」に魚雷命中(日本側は合計20発を発射したが命中は3発のみ)。
奇襲隊の任務終る(2ヶ月以内に修復)。
9日午前7時40分~8時18分、連合艦隊第3戦隊(出羽重遠少将)、旅順口湾外での偵察。
8時50分、旗艦「三笠」、第3戦隊司令官出羽少将の「直グ来レ……敵ノ大部分ハ港外ニアリ」との電報を受信。
9時30分、第3戦隊、主力(第1・2戦隊)と合流。
午前10時39分、旗艦「三笠」に戦闘旗掲揚。
11時13分、ロシア巡洋艦5隻(距離8千メートル)から発砲、日本艦隊まで届かず。
14分「三笠」全砲門開く。続いて「朝日」「富士」「八島」「敷島」「初瀬」も発砲。第1・2・3戦隊も砲撃開始。
「三笠」は軍艦旗を吹き飛ばされ、付け替えた旗も砲弾で撃ち抜かれる。「富士」「朝日」も被弾。
11時30分、旅順港口の要塞砲台が砲撃開始。但し、精度は低い。
35分、戦闘終る。
ロシア側
発射弾数=艦砲2,207発、要塞砲96発、計2,303発。
命中弾数=11発。命中率=0.48%。
人的損害=死者18人、傷者61人。
日本側
発射弾数=1,223発(15センチ砲以上)。
命中弾数=38発。命中率=3.11%。
人的損害=死者3人、傷者60人。
この旅順口沖海戦で日露戦争が始まった。
正式の宣戦布告は10日だったので、ロシア政府はこれを奇襲攻撃だと非難した。だが日本政府による2月6日の宣告は、国交断絶のみならず「帝国の既得権および正当利益を擁護するため最良と思惟する独立の行動をとることの権利」を通告しているので、国際法上の開戦通告として公正な内容を備えていると、国際社会は認定した。
それにロシア政府も、6日の通告を受けて対日攻撃の機密命令を発しており、ロシア側も通告の国際法上の意味は理解していた。したがってロシア側の抗議は、それ自体が戦争を有利に展開するための外交駆け引きだった。
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2月8日
・「日露国交破る」(「読売新聞」)。最後通牒手交の報道。
「一昨日来時局問題の進行混沌として明ならず、人々皆形勢の必ず切迫すべきを信ずれども、然も、全然其の真相を解せず。世を挙げて五里霧中に在るの感あり。此の際に於て我社の探聞せる所大要左の如し。一昨日の小村ローゼン会見、風聞の如くローゼン男より会見を求めたるに非ず。小村外相より露国公使を招き『我政府は誠意を以て協商を遂げ、以て両国の国交を維持せんとせしも、貴国政府之を容れざるを以て、最早外交的関係を維持する能はざるは遺憾なり。此の結果として不測の事変に遭逢するも我政府は其責に任ずべきにあらず』云々の通告を為せしものなり。」
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2月8日
・石川啄木(19)、盛岡中学校時代の同級生で、アメリカのカリフォルニア州オークランドに住む川村哲郎に書簡を送り米国行の志望を伝える。
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2月8日
・ペテルブルク、御前会議。
午後、ニコライ2世はアレクセーエフ極東総督に訓電。ロシア側から積極的に開戦しないが、朝鮮半島西側海域で日本海軍が38度線を越えた場合は公海上でも攻撃せよという限定的開戦(攻撃)命令。
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