京都 建仁寺 2013-08-13
*長元10年/長暦元年(1037)
この年
・イングランド、カヌート大王妃・エマ皇太后、国外追放されフランダースへ。
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・イベリア半島、レオン王ベルムード3世(位1028~1037)、妹サンチャ夫カスティーリャ王フェルナンド1世と戦い、敗死。
フェルナンド1世、レオン王即位(カスティーリャ王1035~1065、レオン王1037~1065)。
カスティーリャ・レオン王フェルナンド1世:
ナバーラ王(兼アラゴン伯)サンチョ・ガルセス3世(大王、位1000~1035)息子。
(1)治世の大半は、イスラム教徒の領土を征服せず、保護と引換に貢物を引き出す。
①トレード王マームーン(トレード王1043/44~1075、バレンシア王1065~1075)。
1043年頃、年貢と引換にフェルナンド1世により復位。
1062年頃、マームーンが年貢の納付を拒否。フェルナンド1世、タラマンカ、アルカラ・デ・エナレースを包囲・攻撃、ハラーマ川とエレナース川流域を襲撃、納付の再開を強要。
②バダホース王国やセビーリャ王国も貢納を強要される。
1063年グラウス(エセーラ河畔)のムクタディルがアラゴン王ラミーロ1世(フェルナンド1世弟)に攻撃され、フェルナンド1世、軍隊を派遣、ラミーロ1世を阻止。
(2)晩年、小さな町を攻撃・併合、特に弱小のバダホース王国で実施。
1057年ラメゴ、1058年ヴィゼウ、1064年コインブラ。
攻撃はキリスト教社会の政治権力拡大が目的、イスラム教徒に改宗を強制せず。
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・皇帝コンラート2世、第2回イタリア遠征(1037~1038)。
ミラノ大司教アリベルト(67、位1018/1019~1045)の強圧的支配に対する平騎士達の反抗がロンバルディア全土に拡大する勢い。
コンラート2世、紛争解決のためにイタリア遠征決意。
裁判への不出頭を理由にミラノ大司教アリベルト罷免、大司教と同盟の司教3人を反逆罪で拘禁。宮廷司祭アンブロシウスをミラノ大司教に任命。
ミラノ市民、罷免されたミラノ大司教アリベルト支持、ミラノ包囲の皇帝軍に抵抗。
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・セルジュク・トルコ成立(1037~1157、120年間)。
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・ポーランド王カシミール1世(23)、即位(1015~1058、位1037~1058)。
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・イブン・シーナ(57)、没(ラテン名・アヴィケンナ、980~1037)。
サーマーン朝首都ブハーラ(ボハラ)近傍出身、生涯、故郷の東方イスラム世界(中央アジア)で過ごす。イスラム最大の医学者、哲学者・詩人。著書、「治療の書(キターブ・アル・シファー)」、「医学規範(アル・カーヌーン・フィ・アル・ティップ)」。哲学者としてはアル・ファーラービ後継者、ギリシア人の英智を集成、イスラムへの調和を完成。音楽理論の最も重要なアラビア語の書物を著す。
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1月7日
・藤原嫄(げん)子、入内。
29日、後朱雀天皇が初めて渡る。義父藤原頼通らが随行、饗宴がもうけられ、教通以下女官に禄が支給。後朱雀は、遠回りをして、綾綺殿→仁寿殿→承香殿、同殿西長橋を経て弘徽殿へ入る。昭陽舎の西側の麗景殿にいる女御禎子内親王を慮ってのこと。
後朱雀天皇は、はじめ道長の娘の嬉子を妻としたが、嬉子は親仁親王を生んだ後に没したため、別に尊仁親王を生んだ禎子内親王(三条天皇の皇女)を皇后としている。
関白藤原頼通は跡継ぎにも苦労したが、天皇へ入内させるべき女子にも苦労した。
摂関であるためには外戚関係を構築する必要があったが、娘もなかなか生まれなかった。
長暦元(1037)年、養女嫄子(敦康親王娘、母が頼通の正室経姫の妹)を後朱雀天皇の後宮に入内させ中宮とするが、皇女を2人生み没する。
後朱雀天皇にはその後、頼通の弟教通の娘や異母弟頼宗の娘たちが女御として入内したが、皇子は生まれなかった。
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1月22日
・除目。
22日藤原良頼が兼周防権守、23日藤原兼頼が兼讃岐守、藤原泰憲が兼阿波守、藤原資仲が兼備中権介に任命。
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2月13日
・禎子内親王に中宮宣下。堀河殿で宣旨の儀。
3月1日、皇后とする。
禎子内親王(1013~94):
父三条天皇、母藤原道長女子の妍子。
治安3年(1023)4月2日一品に叙任、以降「一品宮」と称される。
宣耀殿・麗景殿に居住。
長和2年(1013)10月22日内親王宣下。
万寿4年(1027)3月23日東宮敦良親王(後朱雀天皇)妃となる。
長元7年(1034)7月18日、王子尊仁(後三条天皇)を出産。
延久元年(1069)2月17日院号宣下を受け「陽明門院」と号す。
藤原摂関家から冷遇され、後朱雀天皇が即位して内裏に移ってからも、関白頼通の妨害により長い間入内できず。尊仁親王は、母ともども藤原摂関家に虐げられる生活のなか、反藤原の志を抱いて育つ。
堀河殿:
平安京の左京三条二坊に所在した邸宅。もとは藤原基経邸、この時は頼通邸。のち堀河天皇の皇居ともなる。
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3月
・6代ノルマンディ公ロバート1世の後見人ロバート大司教、没。
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3月1日
・禎子内親王を皇后とし、藤原嫄(げん)子を中宮とする。
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4月21日
・「長暦」に改元。
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4月27日
・藤原資平が兼皇后宮権大夫に、藤原行経が兼播磨権守に任じられる。
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5月20日
・前但馬守源則理が起こした石清水八幡宮別宮神人らとの闘乱事件の罪名決まる。有罪11人中、7人が土佐などへ遠流、残りは贖銅等。
長元8年(1035)、官物負累の問題で、則理が品治衆長を捕らえる。衆長は石清水八幡宮別宮司でもあり、別宮の神人らが国府に押し寄せ衝突。射殺者も出て、八幡宮は訴えを起す。
同年12月、右少史高橋文俊を但馬に派遣、京で別宮関係者の推問。翌年後一条天皇没・後朱雀天皇即位などあり、問題は長元10年(1037)3月迄据え置かれてる。
3月、則理らを太政官において勘問、閏4月8日に太政官で定め。
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5月28日
・皇帝コンラート2世、「封についての制定法(封土令)」発布。
最高封主としての皇帝が、「封臣達の権利を法的に保護」、「下位封臣に対しても、封の世襲権を承認」(世俗の直臣・司教・修道院長を主君として持つ全ての「恩貸地」は、保有者の息子・男の孫・兄弟が相続しうる。更に、これらの恩貸地の上に設定された「下属知行」についても同様)。
ミラノ大司教の重要な支柱である封臣を引き離し、皇帝に対する忠誠の確保を目的。
成功せず。
しかし、この「帝国レーン法の国制史的影響」は、アルプス以北にも、広く長期に渡って及ぶ。
コンラート2世、ドイツでも国王裁判所の判例を望ましい方に曲げ、同じ目的を達成しようとする。「父親に授与された「恩貸地」を、子孫から剥奪することを許さないことによって王(コンラート2世)は、騎士達の心をつかんだ」(王室礼拝堂付き司祭ヴィポー)。
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8月
・親仁親王(ちかひと、父は後朱雀天皇、母は藤原道長の娘藤原嬉子)、皇太子となる。
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9月3日
・衆星乱れ墜ちる。四方に飛散、驚かない者なし。
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12月
・諸国で地震。高野山で被害。
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12月13日
・章子内親王を皇太子妃とする。
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