2019年10月1日火曜日

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その3)「牛込の弁天町か矢来町の出来事であったと思う。夜1人の鮮人が町内をうろついて井戸に毒を投じつつあるという報告が来た。.....そこで迫手はじれったさのあまり、ついに追いつめて、槍で突き殺してしまった。一同、その夜は、朝鮮人をうちとったというので、大きな手柄でもたてたつもりか何かでいたが、夜があけてみると、これは日本人、しかも自警団長である靴屋の某の使っていた小僧さんで、大人をからかうのが面白いあまり、度々そういういたずらをして朝鮮人のまねをして、ついこういう悲しい運命に出会ったのであったという。」

【増補改訂Ⅲ】大正12年(1923)9月3日(その2)「このようにして、毎日、東京で在日朝鮮人ばかりでなく、朝鮮人にまちがえられた日本人、朝鮮人を助けようとしだ日本人までが殺されるという数々の悲劇がつくりだされたのである。現に、私がのちに下宿した蛇窪の農家の主人は、自警団員として、日本人をまちがえて殺してしまった。このことで数か月の刑を受けたのである。彼はその後の生活が自暴自棄となり、家族たちまでがながく不幸を背おわされることになった。」
から続く

大正12年(1923)9月3日
〈1100の証言;新宿区/牛込・市ヶ谷・神楽坂・四谷〉
河東碧梧桐〔俳人、随筆家。新宿区市ヶ谷加賀町で被災〕
〔2日〕ゆうべは〇〇〇が放火するとか、焼け残った方面へ来襲するとか言って、〔府立〕四中の避難者は、いろいろな恐ろしい話をして慄えていたそうだ。ある○○の持っていた革包を調べると、キャラメルを詰めた下側にはいろんな薬品が詰めてあった。ダイナマイトを懐中していたのが破裂して死んだ、どこそこへは爆弾を投げ込んだ、井戸へ毒を投げ込むものもある、ある町ではもう10人○○を斬った、そんな話が避難者の口利きや、慰問の青年団員の土産話で尽きなかった。四中に避難していると、どう落着いておろうとしても、知らぬ間に神経過敏になる、と姉は言った。
〔略。3日〕夕飯後自警団の屯所に往ってみる。O氏はその邸を開放して、自警団本部にしている。○○陰謀の実例を事細かに話す。その内にも薬王寺町の伝令が、ただ今30人の○○が江戸川方面から入り込んだ情報がある、御警戒を願います、など言ってくる。捻じ鉢巻き、ゲートルの若い衆や学生が、面白半分にガヤガヤ騒ぐ、九段方面では、銘々竹槍を用意したとか、納戸町では猟銃を担ぎ出したの、青山では剣術を知らない青二才が、日本刀を抜身で提げたなど、自警団即自険団の話柄がそれからそれと噂される。それに比べると、我が自警団は常識的だよ、とO氏がいう。成程、そこらにあるものは、ステッキか棒切れ位なものだ。
〔略。5日〕夜9時頃だった。四中に3人の○○が逃げ込んだと言って、夜警団が学校を包囲した。一団は校内に入って捜索するらしかった。長屋のレンジ窓から始終の様子を見物しているのもいい気をものだ。3人の○○はおろか、鼠1疋も出なかったらしい。包囲の中に1人交っていた兵卒の銃剣が、暗中に徒らな稲妻を走らせた。かくても夜警団人は、何らの悔恨もないらしい。
(「大震災日記」『碧』1923年10・11月合併号、「碧」発行所)

吹田順助〔ドイツ文学者。原町坂上で被災〕
街上のあちこちで聞える噂 - 戒厳令の発布は必至、不逞鮮人横行のうわさ、夜警、食糧の欠乏、避難民の大群、夥しい死傷者 - 隅田川を埋める焼死者の屍体、横浜・鎌倉の大惨害・・・。
〔略〕3日目も4日目も夜警の若い男が入れかわりたちかわり、私の家へやって来て、お宅では鮮人をかくまっているんじゃあないかと、うるさく問い訊しにやって来た。2、3日前から泊っていた清家君の顔が、いくらか鮮人に似ているので、そんな風に疑われたのであろう。〔略〕人の往還のめぼしい箇所を通ると、夜警団の一群が屯ろしていて、人の生年月などや何かをうるさく問いただすのである。返事や言葉の怪しい者は鮮人と速断して拘留するつもりでやっていたらしい。
〔略〕小石川は大塚の方にいる親類の家を見舞おうとして、石切橋を渡って行くと、その近くの交番所に×人が2人、3、4人の自警団の男に抑えつけられ、連れて来られる所を見た。その2人は交番の中へ入れられだが、町の若者どもは手に手に棍棒をもっていて、それで交番の扉や窓を破ろうとする。窓の硝子が破れると、そこから棍棒を滅多矢鱈に突込むので、中からヒイヒイと声を立てて泣く声が聞えてくる。そういう暴行を制止しながら出てくる2人の巡査に抱えられて、ヨロヨロ出て来た2人の×人は息もたえだえの容子、みれば1人は鼻孔から血をタラタラと流し、もう1人は後頭部を割られていたようだ。(当時の手記から)
(吹田順助『旅人の夜の歌 - 自伝』講談社、1959年)

竹山謙三郎〔建築学者、当時中学校2年生。牛込の高台で被災〕
2日の午後にはどこからともなく朝鮮人騒ぎが伝わってきた。井戸に石油が流してあるというので、嗅いでみるとたしかに臭い。兄と2人で父に告げると、「そんな馬鹿をことはない」
〔略〕しかし朝鮮人騒ぎはますます大きくなっていった。3日には町内会が結成されて自警団が組織された。竹槍や木刀などをたずさえた大人たちがいかめしく控え、われわれは興奮して、その周りではしゃいでいた。「朝鮮人何名がすぐそこの市ヶ谷見付まで押し寄せてきた」といったような情報が、次々とりりしく鉢巻をした伝令によって伝えられた。そういえば下の外濠の方では時々銃声もひびいた。
(『中央公論』1964年9月号、中央公論社)

壷井繁治〔詩人〕
〔2日〕わたしは牛込区弁天町の居出の下宿に避難した。彼は早稲田の法学部を卒業後も学生時代の下宿に陣取り、そこから海軍省へ通っていた。その避難先でも朝鮮人が家々の井戸に毒物を投げ込みまわっているとか、社会主義者が暴動を起こそうとしているとかいう噂で持ちきりだった。
つぎの日〔3日〕の昼ごろ居出と連れ立って矢来下から江戸川橋の方へ歩いていった。そして橋の手前に設けられた戒厳屯所を通り過ぎると、「こらッ! 待てッ」と呼び止められた。驚いて振り返ると、剣付鉄砲を肩に担った兵士が、「貴様! 朝鮮人だろう?」とわたしの方へ詰め寄ってきた。わたしはその時、長髪に水色のルパーシカ姿だった。それは戒厳勤務に就いている兵士の注意を特別に惹いたのであろう。その時まではそれほど気にしていなかった自分の異様な姿にあらためて気がつき、愕然とした。わたしは衛兵の威圧的な訊問にドギマギしながらも、自分が日本人であることを何度も強調し、これから先輩を訪ねるところだから、怪しいと思ったらそこまでついてきてくれといった。わたしはその時生方敏郎のことを思い浮かべていたのだが、傍の居出もしきりに弁明に努めてくれたので、やっと危い関所を通過することが出来た。
(壷井繁治『激流の魚 - 壷井繁治自伝』光和堂、1966年)

柳田泉
9月3日か4日の午のことと覚えているが、わたしどもの若松町の自警団に伝令が来て、早稲田警察署の命令というのを伝えた。
それによると、朝鮮人が2万人以上、三軒茶屋方面から市内に押し寄せつつあり、いつ市街戦となるかも知れないから、応援の用意をせよというのであった。それで、その夜も翌夜も不寝番をたて、警戒したが、別に何のこともなかった。(あとで聞くと、多摩川べりで砂利を掘る仕事をしていた朝鮮人の人々が何百人といたよしであるが、これは逆にこっちからひどい目にあったので、押し寄せるどころのはなしではなかったという)。
それから、今少したった或夜のこと、牛込の月桂寺のうちに数名の鮮人がひそんで放火をたくらんでいる。直ちに原町の自警団に応援して、これを捕えよという命令が同じく警察署から出たものである。これも、問題の人間をやっととらえてみたら、朝鮮人ではない。日本人、月桂寺で越後の田舎からつれて来た日本の大工で、これが外に出られず、毎日普請小屋にかくれていたが、夜はそこいら中散歩して、煙草をすう、それを見まちがえて、騒いだものであった。
だが、それはまだ喜劇じみた出来事であるからまだしもとして、悲劇もなくはなかった。牛込の弁天町か矢来町の出来事であったと思う。夜1人の鮮人が町内をうろついて井戸に毒を投じつつあるという報告が来た。
そこで、それっと、一同捜索に出かけ、2、3の他町会からの応援もあって、追いかけているとなるほど怪しい人間が1人、町内の暗やみをあっちこっちと逃げ歩いて、なかなかつかまらぬ。そこで迫手はじれったさのあまり、ついに追いつめて、槍で突き殺してしまった。一同、その夜は、朝鮮人をうちとったというので、大きな手柄でもたてたつもりか何かでいたが、夜があけてみると、これは日本人、しかも自警団長である靴屋の某の使っていた小僧さんで、大人をからかうのが面白いあまり、度々そういういたずらをして朝鮮人のまねをして、ついこういう悲しい運命に出会ったのであったという。
事実はそういうことで、わたしどもの方では、そういう虐殺の手柄(?)は一つもなかったのであるが、そういう朝鮮の人々に緑の少ないそこらの土地でさえ、来たら殺してかまわぬという気分はあったのであるから、殺気満々の下町や隅田川の向いの土地や、郊外砂村などの方でどのような事が行なわれたかは、想像に余りがあると思う。
(「大震災追想記」金秉稷『関東震災白色テロルの真相』朝鮮民主文化団体総連盟、1947年→朝鮮大学校編『関東大震災における朝鮮人虐殺の真相と実態』朝鮮大学校、1963年)

〈1100の証言;新宿区/新宿付近〉
『山形民報』(1923年9月4日)
「軍隊と衝突 不逞鮮人2名射撃」
「3日午前新宿方面に現れた約150名の労働者並に不逞鮮人の一団は軍隊と衝突して烈しい競合を演じだが、この元兇約20名は間もなく軍隊の手に逮捕され、鮮人2名は射殺された。」

つづく




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