治承4(1180)年
12月
〈情勢概観〉
近江在地武士勢力活発化(「事の形勢に従って謀叛をたくらむ」(「玉葉」))
11月末~12月初め、都の周辺、ことに近江国での叛乱勢力の活動が顕著になり、この方面からの京都への物資の流入はほとんど抑留される状態となった。これは京都に生活する人々にとって、まさに致命的なことである。近江国の在地武士たちの側には園城寺や延暦寺の衆徒たちの協力もあり、12月初めに反撃態勢をととのえた平氏の追討軍に対しても、さかんなゲリラ的活動を展開して、これを悩ませている。彼等近江の在地武士や衆徒たちの動きは、内乱活動に特有の性格を見せ、追討軍の攻勢の前に一旦は鎮静された様相を示しながら、周囲の形勢が有利になると急激に勢力を伸ばし、まさに「大略、事の形勢に従って謀叛をたくらむ」(「玉葉』)といった状態。それに加えて、この近江の叛乱勢力に、遠くから呼応する姿勢を保った南都の東大寺・興福寺の大衆の動きも、平氏にとってきわめて無気味であった。
近江は北陸道からの年貢租税の上納ルートにあたっており、東国への関門である。この地が政権の死命を制するため、12月から翌年にかけて近江・美濃の反乱勢力に対する平家の討伐戦が展開された。その時総大将に起用されたのは知盛。この追討戦は平家優勢に推移し、敵を美濃以東に押し戻すことができたが、翌治承5年2月、知盛は病に倒れ、美濃の戦線から帰還し、総大将を重衡と交代している。
・洛中警固の一端を担ってきた近江源氏・美濃源氏まで敵に回った状況となっては、平氏以外は武官として京都で暮らす文徳源氏や後白河院の傘下に残る摂津源氏多田行綱・字多源氏源仲遠ぐらいしか、めぼしい武家は残っていない状況。
・源義仲、上野から信濃へ戻る。越後豪族城資長が信濃へ攻め入るとの風聞あり、また、頼朝との競合を避けるため。
・大臣家以外の貴族・受領・女院に武者1人排出命令。藤原定家は、武者を持っていず、友人から借りた白丁(雑役夫)を提出。翌日、不戦力の白丁は返還。
12月1日
・この日、伊賀から平家貞の子平田入道家継が甲賀を攻めた。
12月2日
・この日、知盛が東国追討使大手(本隊)総大将として「一族の輩数輩を相伴」って東山道を進み、さらに伊勢平氏に属する平信兼と有力郎等平盛澄の軍も続く。伊賀道からは資盛が搦手(別動隊)総大将として貞能を率いて向かい、伊勢道からは家人伊勢守藤原清綱が進んだ(『玉葉』)。湖東・湖南に布陣する敵を、三方向から挟撃する大作戦である。
知盛が率いた「一族の輩」については、藤原定家の日記『明月記』が清経・通盛(教盛長子)・経正(経盛長子)・忠度(清盛末弟)・知度(清盛六男)・清房(清盛七男)らの名をあげている。前の想定に従えば、知盛は自らの御家人のほか、宗盛の御家人(その一部)を直率していたことになろう。
なお、重衡・経正は禁中警固のために留守として残る。
12月3日
・この日、知盛率いる本隊3千余、近江突入。柏木城(甲賀)落城。近江源氏軍(山本義経・柏木義兼兄弟)、戦いを避けて後退、追討使は、勢多(大津市)・野地(草津市)辺りの民家数千に火を放ち敵を掃討。近江源氏は柏原(米原市)で美濃源氏と合流。
4日、近江・美濃源氏4千(近江武士の2/3は平家方に寝返る)と平家軍2千余騎が矢合わせ(「玉葉」)。
6日、追討使2千と近江源氏・美濃源氏3千と合戦し、追討使が勝利(「玉葉」)。
このあと、山本義経・柏木義兼兄弟、退勢立て直しの為、鎌倉に向う(10日、頼朝に面会(「吾妻鏡」。但し、これは誤り))。先には強力な美濃源氏が存在するとの情報あり、また、一進一退の攻防続き、知盛は援軍要請(23日副将軍維盛が派遣される)。
「左兵衛の督平の知盛卿数千の官兵を卒い、近江の国に下向す。而るに源氏山本前の兵衛の尉義経・同弟柏木の冠者義兼等合戦す。義経以下、命を棄て身を忘れ挑戦すと雖も、知盛卿多勢の計を以て、放火し彼等の館並びに郎従宅を焼き廻るの間、義経・義兼度を失い逃亡す。」(「吾妻鏡」1日条)。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「一日、己卯。左兵衛督平知盛卿が数千の官兵を率い、近江国に下って、源氏の山本前兵衛尉義経・同弟柏木冠者義兼らと合戦した。義経をはじめとして、身を棄て命を忘れ戦いに臨んだものの、知盛卿は多勢の利を活かし、火を放って義経や義兼の館や郎従の宅を焼いてまわったので、義経と義兼はなすすべもなく逃亡した。去る八月に東国で源家が義兵を挙げた事を伝え聞いてから以降、都の近くに居を定めていたにもかかわらず、ひとえに関東に味方しようと思い、頻りに平相国禅閤(清盛)の威に逆らっていたので、今このように攻められたという」。
「夜に入り人伝えて曰く、伊賀の国に平田入道と云う者(俗名家継、故家定法師男、定能兄と)有り。件の法師近州に寄せ攻め、手嶋の冠者を伐ち(党類郎従、相併せて十六人梟首、二人搦め得ると)、また甲賀入道(義重法師なり)の城を追い落しをはんぬと。」(「玉葉」1日条)。
「還都の験(けん)に依り、凶賊等、頗る勢ひ衰へる者か」(「玉葉」3日条)。反乱鎮圧は還都の効果によるものと喜ぶ。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「二日、庚辰。今日、蔵人頭(平)重衡朝臣・淡路守(平)清房・肥後守(平)貞能らが、東国に向かい出陣した。これは源家を襲うためである。ただし道の途中から帰洛したという」。
「辰の刻、追討使下向す。近江道の方、知盛卿大将軍たり。その外一族の輩数輩相伴う。信兼・盛澄等同じく以て向かうと。伊賀道、少将資盛大将軍たり。前の筑前の守貞能相具すと。伊勢道、即ち国司清綱行き向かうと。」(「玉葉」2日条)。
「伝聞、今暁近州の逆賊楯を引き逐電す。美濃に到り辺を焼く。仍って官軍勢多・野地等の在家数千宇、放火し追い攻むと。終日の間余烟猶尽きずと。美濃の源氏等五千余騎、柏原(近江の国)の辺に出向くと。官兵近江道・伊賀道相並び、京下の勢三千余騎と。また人云く、奈良の大衆熾盛蜂起す。人何事を知らず。境節尤も奇怪の事か。山の大衆三方相分かれをはんぬと(一分座主大衆、官兵に與力。一分七宮方大衆両方に與せず。一分堂衆の輩、近州に與力すと)。越後城の太郎助永、甲斐・信濃両国に於いては、他人を交えず、一身に攻め落とすべきの由、申請せしむと。また上野・常陸等の辺、頼朝に乖くの輩出来すと。」(「玉葉」3日条)。
「十二月二日。庚辰。天晴。今朝、追討使又近江ニ発向ス。左兵衛督・左少将清経朝臣・右少将資盛朝臣・越前守通盛朝臣・皇太后宮亮経正朝臣・薩摩守忠度朝臣・参河守朝臣・淡路守朝臣等卜云々。見物ノ車競ヒ馳ル。」(「明月記」)。
「山本兵衛の尉義経鎌倉に参着す。・・・この義経は、刑部の丞義光より以降、五代の跡を相継ぎ、弓馬の両芸、人の聴す所なり。而るに平家の讒に依って、去る安元二年十二月三十日、佐渡の国に配流す。去年適々勅免に預かるの処、今また彼の攻めに依って牢籠す。宿意を結ぶの條、更に御疑い無しと。」(「吾妻鏡」同10日条)。←誤り
□「現代語訳吾妻鏡」。
「十日、戊子。山本兵衛尉義経が鎌倉にやってきた。土肥次郎(実平)を取り次ぎとして言うことには、「日頃志を関東に通わせていると平家の耳に入り、何かにつけて関東に味方する行動をとってきたところ、去る一日に、とうとう城郭を攻め落とされたので、兼ねてからの思いに基づいて参上しました。かの凶徒を追討される日には、必ず一方の先陣を承ります。」と。(頼朝は)「真っ先に参向するとは実に神妙である。今となっては関東に仕える事を許す。」と仰ったという。この義経は刑部丞(源)義光より以降、五代の跡を継いでおり、弓馬の両芸の腕前は人々も認めるところである。しかし平家の遺言により、去る安元二年十二月三十日に佐渡国に配流され、去年たまたま勅免となったのに、今また平家の攻めによって所領を失ったことから、(平家を討つという)前々からの思いを強くしたことを、(頼朝は)全く疑われなかったという。」。
これまで独自の動きをしていた諸国の源氏が頼朝を軸として連携。志田義弘、源行家、足利義兼らが頼朝に参上。
○義経:
源義光の曽孫という。近江国の反平家勢力の中心人物。近江の拠点を失い、頼朝に臣従するが、その後の動静は不詳。
○義兼。
山本義経の弟。甥ともいう。
○重衡:(1157保元2~85文治元)。
清盛の子。母は平時子。蔵人頭。南都焼討ちにより、のちに南都衆徒によって斬られる。
○清房:
平清盛の子。従五位下淡路守。
○貞能:
父は家貞。「清盛専一腹心の者」と評される有力家人。筑前守にも任官しており、九州との縁が深い。
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