治承4(1180)年
11月19日
・義経の同母兄全成、武蔵長尾寺を頼朝より与えらる(「吾妻鏡」)。やがて、駿河の阿野(沼津市)で時政と関係を結ぶ。
11月20日
・大庭景義、波多野義常の松田郷を拝領。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「二十日、戊辰。大庭平太景義が(波多野)右馬允義常の子息を連れて参上し、御厚情による赦免を望んだ。しかし景義の外甥であるので、しばらく(景義に)預け置くと命じられた。義常の遠領の内の松田郷は景義が拝領したという。」。
11月21日
・近江源氏挙兵の第一報
伊勢国に使者として向かう平宗盛の家人(宗盛の後見平景家の縁者)が、移動中に園城寺を結ぶ近江源氏山本氏の山本義経と柏木義兼に殺害される。これが近江源氏挙兵の第一報となる。近江源氏山本氏は園城寺の新羅明神の氏人となり、園城寺に金光院を創建した源頼義の末裔として密接に結びついていた。以仁王事件では以仁王を保護した園城寺大衆の中に「金光院の六天狗」(『平家物語』)といわれる人々が見え、以仁王の園城寺脱出に同行して宇治川合戦で討ち死にしている。近江源氏の挙兵は、富士川合戦で平氏の壊走する姿を見た以仁王・源頼政の残党が息を吹き返したと理解できる。
・この頃、北陸道に連動して三井寺衆徒・新羅源氏(源頼義3男義光を祖とする源氏)などが近江を制圧(山本義経・柏木義兼兄弟らの近江源氏が挙兵し園城寺に参軍、延暦寺の一部の堂衆も加わる)、琵琶湖東西の船を東岸に着け、北陸道からの運上物を差し押さえる。
・この頃、摂津源氏の手嶋蔵人が平氏に反し、福原の邸宅に火を放ち、この近江源氏と合流。
国衙領・荘園を基礎とする社会体制は、「京のならひ、何わざにつけても、みなもとは田舎をこそ頼める」から、「絶えて上るものなければ」、飢えと欠乏に繋がる(「方丈記」)。また、「若狭国経盛卿、吏務を掌るの有勢の在庁(稲庭権守時定のこと)、近州に与力す」(「玉葉」11月28日条)との報も入る。太良保公文の丹生出羽房雲厳も稲庭時定に従い反平氏に付く(後、幕府後家人となる)。近江の反平氏勢力の蜂起は平知盛らが鎮圧。
「閭巷に云く、近江の国また以て逆賊に属きをはんぬ。」(「玉葉」同日条)。
11月23日
・この日、山本義経が近江国を一統し、琵琶湖の船を東岸に集めたという情報が福原に届く(『玉葉』)。これは、琵琶湖の水運が途絶することを意味するので、首都の経済に大きな打撃を与える痛烈な一手となった。
この段階で、南関束と伊豆・下野は源頼朝、信濃と南上野は木曽義仲、甲斐・駿河・遠江は甲斐源氏、美濃は美濃源氏と諸国の源氏がそれぞれに割拠を始めていた。一方で、陸奥・出羽を治める奥州藤原氏は中立、北陸道は越後平氏が平氏政権支持の立場で勢力を振るっているので平穏を保っていた。日本海の水運はまだ維持されていたので、日本海側の港に集まる物資は首都に送られていた。日本海を航行して若狭湾の港に入ってくる船の積荷は、陸送で琵琶湖北端の塩津(しおつ)に運び、塩澤から大津へ船で輸送した。物資の受取人は大津に集まり、大津からそれぞれの目的地へ運んでいった。琵琶湖の水運が途絶することは、日本海水運の物資が若狭湾の港に足止めされることを意味した。京都への還都を議論している朝廷にとっては、琵琶湖水運の途絶は死活問題であった。
11月23日
・延暦寺、争いで園城寺を焼く。
「また聞く、近江の国併せて一統しをはんぬ。水海東西の船等、悉く東岸に付く。また雑船筏等を以て、勢多に浮橋を渡しをはんぬ。凡そ北陸道の運上物、悉く以て点取しをはんぬ。大津の辺の人家騒逃す。凡そ鼓動極まり無しと。・・・伝聞、山と三井寺と闘諍有り。その事に依って延暦寺園城寺を焼くべしと。」(「玉葉」同23日条)。
11月23日
・陰陽師達が還都進言により、京に還都。京は反平家寺社に挟撃される恐れあり、延暦寺・日吉社に近江賊徒追討依頼。公卿・受領に兵糧米・兵士の供出を命令。この日、福原出発。26日、京に帰着。安徳天皇は藤原邦綱五条東洞院、後白河法皇は六波羅の泉殿(小松殿)、高倉上皇は六波羅の池殿(頼盛邸)に入る。
都帰(みやこがえり、「平家物語」巻5):
治承4年12月2日、帝・臣下・比叡山・興福寺も、今回の遷都は良くないというので都帰りが行われる。
11月23日
・摂津源氏多田高頼、福原で放火。12月1日、平田家継、多田高頼を討取る。
11月25日
・藤原定家(19)、還都の知らせを聞き歓喜す(「歓喜ノ涙禁ジ難シ」(「明月記」)。
11月26日
・安徳天皇・後白河・高倉院、福原から還都。安徳天皇は五条東洞院の邦網邸へ、高倉院は六波羅屋形の頼盛邸(池殿)、後白河法皇は清盛の泉殿へ。高倉院は御悩で歩行出来ない。
27日、定家、高倉院に参じる。
30日、定家、高倉院の七瀬御祓の使いを勤める。
「十一月二十六日。晴天。今日、天子両院己ニ遷リオハシマス。末ノ刻、本院六波薙、新院同ジク池殿、天皇五条東洞院、各々入リオハシマスト云々。後ニ聞ク、新院御車ヨリ下リオハシマスモ猶輙(タヤス)カラズ。近習ヲ召シ寄セ、女房ノ肩ニ懸ラシオハシマス。入リオハシマスノ後、偏へニ御渡卜云々」(「明月記」)。
11月26日
・山内首藤経俊の斬罪を決める。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「二十六日、甲成。山内(首藤)滝口三郎経俊を斬罪に処すべきであると内々に定められた。経俊の老母〔武衛の御乳母である〕はこれを聞き、愛息の命を救うために、泣きながら参上して言った。「(山内)資通入道が八幡殿(義家)に仕え、廷尉禅室(為義)の御乳母となって以来、代々の間、忠を源家に尽くしてきた事は数えきれないほどです。特に(山内首藤)俊通は平治の乱の戦場に臨み、その骸を六条河原にさらしました。そうでありますから径俊が景親に味方したというのは、その科は責めて余りありますが、これは、後に平家の耳に入ることを憚ったためです。およそ軍陣を石橋の辺りに張った者は、多くが恩赦に預かっております。径俊もまたどうして先祖の功を考慮されないことがございましょうか」。頼朝は特に何も仰らず、預けておいた鎧を持ってくるように、(土肥)実平に命じた。実平は鎧を持参し、唐楯の蓋を開けてこれを取り出して山内尼の前に置いた。これは石橋合戦の目に、経俊の射た矢がこの鎧の袖に立ったものである。その矢の口巻の上には、「滝口三郎藤原経俊」と書かれていた。この字の際より矢柄を切り、鎧の柚に矢を立てたまま今まで保管してきており、はなはだ明瞭に書いてある。そこで直接、その名を尼に読み聞かせられると、尼は再びあれこれ申す事は出来なくなり、両眼の涙をぬぐって退出した。(頼朝は)後々の事をお考えになり、この矢を残されたという。経俊の罪科は、刑罰を逃れる事が出来ないものだが、老母の悲歎を考え、先祖の功労を重視して、さらし首の罪になるのを許されたという。」。
11月26日
・紀伊熊野地方で地震。3日間続く。
11月29日
・近江の状況。
「夜に入り人伝えに、近江の国の武士数千騎、今日申の刻ばかりより三井寺に打ち入ると。この事に依って、六波羅・八條等の辺、武士騒動し、京中物騒極まり無しと。」(「玉葉」同日条)。
「昏に臨み風聞に云く、近江の国の賊徒すでに勢多を越えをはんぬ。或いは三井寺に籠もると。京中騒動すと雖も、官軍未だ発向せず。入道相国今日入洛すと。」(「吉記」同日条)
11月29日
・清盛、上洛。
11月30日
・高倉上皇殿上(六波羅池殿)で「東国謀反」の議定。藤原経宗・実定・隆季・宗家・忠親らに左大弁の藤原長方(ながかた)が加わって、追討使の派遣などを議論。長方は、徳政を行い、後白河院政の復活と基房の帰京を主張して人々を驚かせた(『玉葉』『古今著聞集』)。清盛のクーデターを真っ向から批判する言動が飛び出した。
つづく
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