治承4(1180)年
12月20日
・この日の除目、『山槐記』によると、「新院御悩危急ということでその沙汰がなかった。しかも一院(後白河法皇)は謙譲して知食(しろしめ)されず、摂政(基通)が計り行われるばかりである。また入道大相国(清盛)も口入(くにゆう)されない。かくのごとき有様なのでいたずらに暁天に及んだ」、とあり、強力な推進者がいないために時間を空費した様子がうかがわれる。
12月20日
・頼朝の新館で弓始めの儀。弓の名手の和田義盛参加。安達盛長、甘縄に屋敷を設ける。馬1匹を戴く。
「新造の御亭に於いて、三浦の介義澄椀飯を献る。その後御弓始め有り。・・・射手 一番 下河邊庄司行平 愛甲の三郎季隆 二番 橘太公忠 橘次公成 三番 和田の太郎義盛 工藤の小次郎行光 今日御行始めの儀、籐九郎盛長が甘縄の家に入御す。盛長御馬一匹を奉る。」(「吾妻鏡」同日条)。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「二十日、戊成。(頼朝の)新造の御邸において、三浦介義澄が椀飯を献じた。その後御弓始があった。・・・射手 一番 下河辺庄司行平 愛甲三郎季隆 二番 橘太公忠 橘次公成 三番 和田太郎義盛 工藤小二郎行光 今日御行始(オナリハジメ)の儀式が行われた。(安達)藤九郎盛長の甘縄にある宅にお入りになった。盛長が御馬一頭を献上し、佐々木三郎盛綱が馬を引いたという。」。
○椀飯
鎌倉時代の、鎌倉殿に有力御家人が祝膳を献上する儀式。
○季隆(?~1213建保元)。
横山党の一流。通称三郎。相模国愛甲庄の住人。弓の名手。
○行光:
父は景光。小次郎と称する。甲斐国住人で、頼朝の挙兵から参加。父は弓の名手、かれもまた弓に優れる。
○御行始:
家臣の邸宅を鎌倉殿がはじめて訪問する儀式。年頭に恒例となっているものと、新築などで臨時に行われるものがある。
12月22日
・平維盛、追討使副将に任じられ、増援の軍勢を率いて出陣。
平維盛30騎、越前の蜂起鎮圧のため、越前に下向(「山槐記」同日条)。
12月22日
・新田義重(上野)、寺尾城を出て鎌倉に参上、安達盛長の取りなしで頼朝陣に加わる。里見義成、平氏に頼朝を討つと偽って京より鎌倉に参上し、頼朝に属する(「吾妻鏡」)。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「二十二日、庚子。新田大炊助入道上西(義重)が召しにより参上した。しかしすぐに鎌倉に入ってはならないと、命じられたので、山内の辺りに留まった。これは、軍士たちを集めて上野国寺尾館に引きこもるという噂があったので、藤九郎(安達)盛長に命じてお呼びになったものである。上西が言った。「心中では決して逆らってはおりません。しかし、世の中で戦闘が起こっていた時、軽々に城を出るべきではないと家人たちが諌めますので、ためらっておりましたところ、今、参上せよとの命を受け、たいへん恐縮しております」。盛長が特に取り成したので、この弁明は聞き届けられたという。また上西の孫である里見太郎義成が京都より参上した。日頃平家に属していたものの、源家の御繁栄のさまを聞いて参上したと申した。その誠意は祖父と異っていたので、すぐに側近くで奉公することをお許しになった。義成が語って申し上げた。「石橋合戦の後、平家方がしきりに計略のための会議を開き、源氏一類の者を全て誅殺するよう、内々に準備をしていたので、関東に行って武衛(源頼朝)を襲うと、義成が偽って言ったところ、平家は喜んで下向する事を許可したのでやってきました。駿河国千本松原で、長井斎藤別当実盛や瀬下四郎広親たちと会うと、彼らが言うことには、『東国の勇士は皆(頼朝に)従っており、頼朝は数万騎を率いて鎌倉に到着された。しかし我々二人は先日平家と約束した事が有るので、上洛するのだ。』という。義成はこの事を聞いて、いよいよ鞭をあげて駆け付けました。」という。」。
12月22日
・この頃、南都では小康状態保持。源氏に呼応する凶徒を大衆(学問に従う上級僧侶)が説得。近日中に官軍が南都悪徒を取締り、坊を焼払うとの噂。
12月22日
・この日夜、六波羅池殿で後白河法皇の御仏名会(ごぶつみようえ)。院中諸務が行われなくなった前年11月以降はじめてのことなので公卿侍臣がことごとく集まる(『山槐記』)。重衡による南都攻撃はそこでの僉議によって決定される。
この日、清盛、南都に官軍を派遣して、悪徒を搦め捕らえ、房舎を焼き払うべしとの命令を下すとともに、大和・河内の武士には道々を塞ぐように命じた。
12月22日
・藤原定家(19)、後白河院仏名に参仕。
24日、父俊成の制止により高倉院仏名に参仕せず。"
「今夜新院御仏名(高倉院が仏名を唱えて年内の罪障を懺悔し消滅を祈る法会を催す)。参ゼント欲スルノ間、庭訓制止、勘当ニ及ブ。仍(ヨツ)テ参ゼズ。其ノ故ヲ知ラズ」(十二月廿四日)(「明月記」24日条)。
(高倉院の師走の御仏名に参じようとすると、俊成が制止。「其ノ故ヲ知ラズ」と記すが、理由は明らか。俊成は、もはや平家を見限り、病悩の高倉院を見放している。定家は、文王と仰ぐ高倉院を慕っており、殉じて出家でもしたらと危惧したため。)。
12月24日
・源義仲、上野を去り信濃に向う。
「木曽の冠者義仲、上野の国を避け信濃の国に赴く。これ自立の志有るの上、彼の国多胡庄は、亡父の遺跡たるの間、入部せしむと雖も、武衛の権威すでに東関に輝くの間、帰往の思いを成し此の如しと。」(「吾妻鏡」同日条)。
□「現代語訳吾妻鏡」。
「二十四日、壬寅。木曽冠者(源)義仲が上野国を去って、信濃国に向かった。義仲は自立の志が有るうえに、上野国の多胡庄は亡父の遺領であるために入部したのであるが、武衛(頼朝)の権威がすでに関東で輝いているため、帰国しようとこの行動を取ったという。」。
頼朝が常陸の佐竹氏を攻略すると、2人の叔父志田義広・源行家が常陸国府に参じる。更に12月、上野の新田義重も鎌倉を訪れ遅参を弁じ、近江で平氏を撹乱していた近江源氏山本義経も、連携意志を明らかにするする。
こうした諸源氏勢力が頼朝を中心に結びつき始め、義仲は、上野から撤兵し信濃へ退く。正統性が決しつつある状況で、義仲が取るべき途は、①頼朝の軍門に降るか、②上洛による劣勢回復、しかなくなる。
つづく
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