2024年1月16日火曜日

大杉栄とその時代年表(11) 1886(明治19)年9月 「郵便報知」の大改革 漱石、江東義塾の教師となり、寄宿舎に転居 吉井勇生まれる 一葉、田邊花圃と出会う 


大杉栄とその時代年表(10) 1886(明治19)年7月~8月 坪内逍遥(27)、加藤センと結婚 漱石、腹膜炎に罹る(留年) コレラ流行 谷崎潤一郎生まれる 徳富蘇峰(23)と植木枝盛(29)が高知で会う 一葉、萩の舎に入門 より続く

1886(明治19)年

9月

大新聞「郵便報知」の大改革。

「郵便報知」社長矢野文雄は、欧米の新聞事業を調査して帰国し改革実施。記事文章を易しくし、漢字も制限する紙面改革をし、購読料は1ヶ月定価83銭から33銭引き下げ、広告料も引下げる。「小新聞」の2~3倍の「大新聞」価格を「小新聞」並みにする大衆化政策は、他の「大新聞」も追随せざるをえず、「朝野新聞」も29日の社告で10月1日からの値下げを予告し、「論説」欄を廃止し論説・雑報の区別をなくす。

9月

坪内逍遙「美とは何ぞや」(「学芸雑誌」)9~11 

9月

漱石、自活を決意し、同じく落第した中村是公と本所の江東義塾(私塾、本所区松坂町2丁目20番地、墨田区両国2丁目~3丁目)の教師となり、塾の寄宿舎に転居(食費2円)。午後2時間教えて、月給5円。         


「この年(あるい前年末)、父直克は警視庁警視属をやめた。おそらくそのために自活を決意し、中村是公とともに、本所の江東義塾の教師(月給五円)となり、その寄宿舎に移った。」(『筑摩年譜』)

「紫野是公と一緒に二階の北向きの二畳間に住み、吹き曝しの食堂で下駄をはいたまま、階下に寄宿してい学僕幹事など約十人と食事をする。英語・幾何などを教え、約一年間続ける。」(荒正人、前掲書)


「・・・二人は朝起きると、両国橋を渡つて、一つ橋の予備門に通学した。其の時分予備門の月謝は二十五銭であった。二人は二人の月給を机の上にごちやごちやに攪(か)き父ぜて、其の内から二十五銭の月謝と、二円の食料と、それから湯銭若千を引いて、あまる金を懐に入れて、蕎麦や汁粉や寿司を食ひ廻つて歩いた。共同財理が尽きると二人とも全く出なくなった。」

「予備門へ行く途中両国橋の上で、貴様の読んでゐる西洋の小説のなかには美人が出て来るかと中村が聞いた事がある。自分はうん出て来ると答へた。然し其の小説は何の小説で、どんな美人が出て来たのか、今では一向覚えない。中村は其の時から小説抔を読まない男であった」(『永日小品』-「変化」)


9月8日

吉井勇、誕生。

9月9日

一葉、月次例会の席上で田邊花圃(かほ)と初めて会う。

□平民三人組と田辺花圃

「萩の舎」の門人のなかで一葉の生涯に最も大きな影響を与えたのは田邊花圃(本名・龍子)であった。明治元年(1868)に田邊太一(旧幕臣、号蓮舟、後に外務省から元老院議官)と妻己巳子の長女として本所番場町に誕生。麹町小学校、跡見学校、桜井女学校、明治女学校、女子高等師範学校の前身お茶の水の高等女学校に学ぶ。歌は10歳頃から伊東祐命に手ほどきを受け、やがてその紹介で祐命と同門の中嶋歌子の門に入る。自家用人力車で稽古に通い、伴の者は「姫さま」と呼ぶような環境。明治21年6月金港堂から花圃の筆名で『薮の鶯』を発表した。この事が一葉に小説を書く動機をもたらしたと考えられる。その後も『女学雑誌』『都の花』『小説叢書』『讀賣新聞』などに次々と作品を発表した。一葉は半井桃水に師事するようになってからも、花圃の作風を常に意識して作品を書き続けた。桃水との師弟関係を解消した明治25年6月以降は彼女の紹介で、『都の花』に一葉の作品が載るようになった。11月、花圃は三宅雪嶺と結婚した後、一葉を新たに創刊される「文學界」に導いた。昭和18年(1943)7月18日76歳で没。

平民組の3人:

車で送り迎えされて出稽古を受ける貴顕の子女達とは別に、普段人力車の送り迎えもなく稽古に通って来る士族や平民の娘達は、自分達だけでグループをつくる傾向が見られた。一葉はなかなか打ち解けなかったが、入門後1年も経と団子坂の伊東夏子と谷中町の田中みの子と親しく交わる仲になった。稽古や歌会について互いに連絡を取り合ったり、数詠を行ったりする機会が多かった。

田中みの子は出雲松江藩士落合鍬蔵の娘で、宮大工の田中市五郎と結婚したが、明治16年(1883)に死別。2人の間に市五郎という1人息子がいた。大正5年(1916)からは跡見高等女学校の教諭を務め、同9年2月24日63歳で世を去った。

一葉と同年の伊東夏子は日本橋小田原町にあった鳥問屋(東国屋)の娘で、母と団子坂で暮らしていた。母子は伊東祐命の門で学んでいたが、後に「萩の舎」に移り、一葉とは最も早く親しい関係を持つようになった。明治22年から3年間駿台英和女学校に学び、熱心な北米バプテスト派のクリスチャンになる。明治31年田邊輿荘と結婚して、後半生は山口県豊浦郡長府村や山口市下清水町で暮らし、昭和21年2月24日75歳で世を去った。

伊東夏子の回想。

「この三人は無位無冠の平民の娘で(もっとも樋口さんは士族の娘でしたが)中島師匠のお弟子は、華族とか勅任といふやうなお歴々のお嬢さん方が多かったものでございますから、平民の私ども三人は、歌会に見えるお客様方のお膳を出したり、御酒のお酌をしたり、一緒にお手伝ひをしたものでございます。樋口さんが一人でさういふ御用をしたやうに伝へられてをりますけれども、いつも三人でいたしました。それで自然に三人がお喋べりをしたりして、特に親しくなったわけでございます。」(「わが友樋口一葉のこと」『婦人朝日』昭和16年9月)

9月27日

石阪公歴、渡米の決意について堀川監獄署に拘留中の村野常右衛門に書き送る。

「家計ノ改復セザルベカラザルヲ感ジ……商業実地研究ノ目的」「此行タル弟ガ一身ノ得失、弟ガ郷家ノ存亡ヲ決スルモノト深ク信ジ……」。

戸主・公歴は、家計の回復を深刻に意識。父昌孝は、豪放磊落、家計逼迫よりも政治世界での自己の役割に忠実、政治優先で家の経済はかえりみない借金を続けながらの政治活動。 

ニーチェ、フリッチュ書店から「自己批判の試み」を付した「悲劇の誕生」新版(「悲劇の誕生、あるいは、ギリシア精神とペシミズム」と改題)、序文を付した「人間的」第1部・第2部を刊行。


つづく

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