2024年1月22日月曜日

大杉栄とその時代年表(17) 1887(明治20)年8月25日~9月 幸田露伴、勤め先の北海道余市から東京へ逃げる(途中徒歩200km) 漱石、予科一級に進む 子規、第一高等中学校予科進級 漱石、急性トラホームを患う

 


大杉栄とその時代年表(16) 1887(明治20)年7月~8月21日 子規(21)俳諧を学び始める 井上外相の対英軟弱外交(条約改正案)非難 江口渙・山本有三・片山哲・重光葵・荒畑寒村生れる 明治憲法「夏島草案」完成 養子に出した漱石の夏目家への復籍交渉 幸徳伝次郎(17)故郷中村出奔 より続く

1887(明治20)年

8月25日

朝9時、幸田露伴、電信技師としての勤め先である北海道余市から東京へ逃げる。


身には疾(やまい)あり、胸には愁あり、悪因緑は逐(お)えども去らず、未来に楽しき到着点の認めらるるなく、目前に痛き刺激物あり、慾あれども銭なく、望みあれども縁遠し、よし突貫してこの逆境を出でむと決したり。五六枚の衣を売り、一行李の書を典し、我を愛する人二三にのみ別をつけて忽然出発す。時まさに明治二十年八月二十五日午前九時なり。


洋服、帽子に脚絆がけ、蝙蝠傘を手に持ち旅立ったが、馬で桃内を過ぎ小樽に着くころには、「きていたるものまで脱いで売りはてぬ いで試みむはだか道中」(「突貫紀行」)という具合(蝙蝠傘は売らなかった)。


苦学の末に得ていた北海道余市での電信局の仕事を独断で辞め、「文学をやりたい」と東京へ戻ってくるのであるが、親に言えば反対されるに決まっている。一人で勝手に辞めてしまったのであるから、誰も交通費を出してくれない。歩くより仕方なかったのである。

しかしこれは大変であった。全行程は1,000kmを越えており、さすがにすべてを徒歩で行くのは無理である。余市から青森までは船で行くしかなかったし、北上川のように長い川は舟で下った方が楽だし早い。明治20年のことであったが、郡山から東京までは鉄道が敷かれていて、それを利用するぐらいのぎりぎりのカネは持っていたらしい。実際に歩いたのは青森から渋民までの150kmと、福島から郡山までの50kmであったが、合計200kmというのは、「たったそれだけか」というにはあまりにも長い。ことに郡山までの50kmを一晩で歩きとおしたのは驚異の脚力だったといえるが、さすがに死ぬかと思ったらしい。全行程に36日かかった。


26日 小樽から船で岩内港

27日 岩内港から船で寿都港

28日 寿都港から船で函館

29日 函館市内を散策、午後、余市からの追手につかまる説諭されるが、これを追い返す。湯の川温泉の林長館という宿屋で数日を過す。

9月10日 「東京に帰らんと欲すること急なり」と書き出し、続いて


されど船にて直航せんには嚢中(のうちゆう)足らずして興薄く、陸にて行かば苦み多からんが興はあるべし。嚢中不足は同じ事なれど、仙台にはその人無くば已まむ在らば我が金を得べき理ある筋あり、かつはいささかにても見聞を広くし経験を得んには陸行にしくなし。


として、徒歩による旅を始める。

旅は苦難の連続。


13日、明けて糠(ぬか)くさき飯ろくにも喰わず、・・・


戸数900ばかりの野辺地本町の、とある家で昼食をもらうが、お吸物の中に入っていた茸で食あたり。


椎茸に似て香なく色薄し。されど味のわろからぬまま喰い尽しけるに、半里ほど歩むとやがて腹痛むこと大方ならず、涙を浮べて道ばたの草を蓐(しとね)にすれど、路上坐禅を学ぶにもあらず、あえつて跋提河(ばつだいが)の釈迦にちかし。


万能薬、宝丹を人からもらい、ようやくひと心地つく。その晩に出た、魚のなますと、どじょうの五分切りは、山中の宿のせいもあって、こわくて手が出ない。唯一口にした、とうふは、芋よりも固い。

翌日は五戸から三戸まで歩く。歩き続けて昼飯も抜いた。夕食でロにした鮭の切り身の何と美味しかったことか。

次の日、9月15日、昼食用の「むすびニッもらい」宿を出た。さて昼だ。


いで食わんとするに臨み玉子うる家あり。価を問えば六厘と云う


信じられない安さ。三つ買ったが、全部腐っていた。

足に出来た「まめ」にも悩まされる。

「ついにやぶれて脚折るるになんなんたり」(14日)。

「一寸余りの長さの『まめ』三個できければ、歩みにくきことこの上なけれ」(16日)。

石巻を過ぎた9月18日、ついに耐えられなくなる。


足はまた腫れ上りて、ひとあしごとに剣をふむどとし。苦しさ耐えがたけれど、銭はなくなる道なお還し、勤(ごん)という修行、忍と云う観念はこの時の入用なりと、歯を切(くいしば)つてすすむに、やがて草鞋のそこ抜けぬ。小石原にていよいよ堪え難きに、雨降り来り日暮るるになんなんたり。


ようやくある家にて草鞋を買いえて勇を奮い、8時半頃野蒜(のびる)につきぬ。白魚の子の吸物いとうまし、海の景色も珍らし


翌日、塩釜で、最後の1銭を神社に捧げ、仙台の知人の所に泊る。次の日、別の知人のもとを尋ね、金を借りるつもりであったが、行き違いがあって1週間後にようやく金を借りられた。


少許(すこし)の金と福島までの馬車券とを得ければ、因循(いんじゆん)日を費さんよりは苦しくとも出発せんと馬車にて仙台を立ち、日なお暮れざるに福島に着さぬ。(中略)福島にて問い質すに、郡山より東京までは鉄路既に通じて汽車の往復ある由なり。その乗券の価を問うにほとんど嚢中有るところと相同じければ、今宵この地に宿りて汽車賃を食い込み、明日また歩み明後日また歩み、いつまでも順送りに汽車へ乗れぬ身とならんよりは、苦しくとも夜をよん罩(こ)めて郡山まで歩み、明日の朝一番にて東京に到らん方極めて妙なり、身には邪熱あり足はなお痛めど、夜行をとらでは以後の苦しみいよいよもつて大ならむと、ついに草鞋穿きとなりて歩み出しぬ。


二本松に着くころには夜は更けていた。町で買った餅を食べながら、「銭あらば銭あらばと」進んでゆく。時には犬に取り巻かれ人に誰何され、あけ方、ようやく郡山に達した。


二本松郡山の間にては幾度か憩いけるに、初めは路の傍の草あるところに腰を休めなどせしも、次には路央(みちなか)に蝙蝠傘を投じてその上に腰を休むるようになり、ついには大の字をなして天を仰ぎつつ地上に身を横たえ、額を照らす月光に浴して、他年のたれ死をする時あらば大抵かかる光景ならんと、悲しき想像なんどを起すようなりぬ。


のちに小説「対髑髏(たいどくろ)」で、「里遠しいざ露と寝ん草まくらとは一歳(ひととせ)陸奥の独り旅、夜更けて野末に疲れたる時の吟」と書くように、この時露伴は、(「突貫紀行」には載っていないが)「里遠しいざ露と寝ん草まくら」という句を詠み、露を伴って寝るというその言葉から、露伴という号が生まれた。


9月

黒田清隆、農商務大臣就任(黒田復権)。4月帰国。

9月

高野岩三郎、第一高等中学予科3級に入学

9月

漱石、予科一級に進む。


「九月になって、予科一級に進むと同時に、進路を決めなければならぬときがやって来た。金之助が選んだのは二部のフランス語である。これは工科進学コースで、彼はなかでも建築科を選択した。その理曲は次のようなものである。


《・・・自分は元来変人だから、此儘では世の中に容れられない。世の中に立つてやつて行くには何うしても根柢(こんてい)から之を改めなければならないが、職業を択んで日常欠く可からざる必要な仕事をすれば、強ひて変人を改めずにやつて行くことが出来る。此方が変人でも是非やつて質はなければならない仕事さへして居れば、自然と人が頭を下げて頼みに来るに違ひない。さうすれば飯の喰外れはないから安心だと云ふのが、建築科を択んだ一つの理由。それと元来僕は美術的なことが好であるから、実用と共に建築を美術的にして見ようと思つたのが、もう一つの理由であった》(『落第』)」(江藤淳『漱石とその時代1』)


9月

子規(21)、第一高等中学校予科進級。

9月

坪内逍遙「批評の標準」(中央学術雑誌)

9月

玉宮村の大地主野尻市郎右衛門の次男利作(理作)が東京帝国大学和文科に入学、樋口家が生活を監督。

9月2日

全国17県有志代表、天皇に請願しようと宮内省におしかけ、また、伊藤首相に面会申し込み。この頃、政府内部にも亀裂。中正派や国粋派の高官・軍人、薩摩閥の官僚たちの不満が伊藤・井上ら長州閥に向う。

17日、井上馨、外務大臣辞任。伊藤博文、宮内大臣兼任辞職。

この間、西園寺の政治的地位は、伊藤首相・井上外相らの間で着実に上がり、9月上旬、井上は後任外相に大隈重信を考え、西園寺はこの構想を伊藤に伝える役を果たす(伊藤博文宛西園寺公望書状、1887年9月6日)。

9月8日

菅原伝・石坂公歴・山口俊太、オークランドで「新日本」創刊。12月の保安条例に触れた民権家も合流し「(在米日本人)愛国(有志)同盟」設立、事務所をサンフランシスコに移し週間新聞「第十九世紀」創刊。

9月16日

哲学者井上円了、私立哲学館を開校(のちの東洋大学)。

9月20日

高知郊外の潮江、開発社の西内正基・岡本方俊、秘かに爆弾を製造中に爆発事故。西内は方眼を、岡本は手首を失う。2人は爆発物取締罰則違反で投獄。(後日談2話)この時の同志が横浜の墓地に隠した爆弾が後に玄洋社来島恒喜の手に渡り、明治22年10月18日の大隈襲撃に使われたといわれる。また、明治42年10月、奥宮健之が千駄ヶ谷平民社の幸徳秋水より依頼を受けて元自由党員の西内正基より「鶏冠石四、塩素酸カリ六」の比率であることを聞きだし、奥宮健之はこれを幸徳秋水の話し、この内容は新村忠雄を通じて、宮下太吉に伝えられたようである。

9月24日

大阪事件判決。大阪臨時重罪裁判所。大井以下計38名外患罪他で有罪(大井憲太郎・小林樟雄・磯山清兵衛軽禁固6年、景山英子1年6ヶ月監視6ヶ月等)。無罪19名。但し爆発物取締罰則では全員無罪。大井・小林・新井は上告(7月14日名古屋重罪裁判所で重禁固9年、1審より重い判決)。村野常右衛門、外患罪で軽禁錮1年監視10月の判決を受け、和歌山監獄収監。

多摩からの大阪事件関係者窪田久米は外患罪・強盗罪ともに無罪、放免(愛知県北設楽郡出身の若手活動家。加波山事件に行き遅れて五日市に逃れ、後に利光鶴松(小田急電鉄の創始者)から全国浪人引受所といわれる五日市勧能学校で助教。大阪事件には、資金募集のための強盗に参加する、五日市の民権家によるアリバイ工作で無罪。5月、「神奈川県通信所」設立(発起人石阪昌孝・細野喜代四郎ら)。窪田はここで通信委員としての職を得る)。森久保作蔵・土方房五郎は、明治19年12月27日、金策中に発覚して予備の段階にも達していないとの理由で予審段階で免訴、放免。2月帰郷、大阪事件神奈川県グループの救援活動を行う。 

9月28日

伊藤首相、地方長官を召集。憲法の天皇親裁に異議を唱える者、外交を人民の公議に付せとする説を抑えるよう指示。 

9月下旬

漱石、急性トラホームを患い、江東義塾を辞め自宅から通学する。大学に進むまで、学資をふたたび家から貰うことになる。           

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「・・・・・兄の直矩は学問嫌いののらくらもので、父の目にも頼りにならなかったので、そこでいままではいらないもの扱いに冷酷に取扱われてさえいた漱石が、大きくたのもしい存在としてクローズ・アップされてきた。トラホームに悩む我が子を急によびよせたがったりしたのも、この場合、老父として当然の心づかいであったであろうが、そこには、あとへのこされた唯一の頼みの綱に始めて気のついたというところもあつたに違いない。こうしてさきに書いた塩原姓からの復籍の問題がようやく具体化して表面にでてくるようになった。」(『漱石傳記篇』)


つづく


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