2024年1月12日金曜日

大杉栄とその時代年表(7) 1886(明治19)年1月~2月 子規、野球に熱中する 川上音二郎出獄 斎藤緑雨「善悪押絵羽子板」 二葉亭四迷、東京商業学校を退学し坪内逍遥を訪問 平塚らいてう・石川啄木生まれる 幸徳伝次郎(16、秋水)、板垣退助歓迎の宴に出席         

 


大杉栄とその時代年表(6) 1885(明治18)年10月~12月 東海散士(柴四朗)「佳人之奇遇」 山下奉文生まれる 植木枝盛「廃娼論」 大阪事件発覚 幸徳秋水(15)、仮釈放の林有造を訪問 大政官制廃止、内閣官制導入  熊楠、大学予備門の期末試験に落第 より続く

1886(明治19)年

この年

この頃、子規、野球に熱中する。

1月

川上音二郎、六出居士と称し出獄第一声盗賊秘密大演説会開く。

1月

子規(20)、予備門の友人たちと「七変人評論」を作る。

1月

永井壮吉(荷風、7歳)はこの年、小石川金富町の父母の膝下に戻り、1月ヵ(教育大学附属高等学校蔵『卒業生学籍簿』の記載に依拠)、小石川区小日向服部坂の中途にあった黒田小学校初等科第6級生として入学。

1月2日

斎藤緑雨(江東みどりの筆名)、小説「善悪押絵羽子板(ふたおもておしえのはごいた)」(『今日新聞』連載~2月6日)。処女作。

1月18日

幸徳伝次郎(16、秋水)、年長者と宿毛に出かけ林有造に面会。この頃、半数改選の県会議員選挙に係る。25日選挙。幡多郡は改選前同様3議席を帝政党が独占。高知県全体では国民派(保守派)16、自由派(民権派)11。植木枝盛は当選。

1月19日

長谷川辰之助(数え19歳、二葉亭四迷)、東京商業学校を退学。前年まで学んでいた東京外国語学校が廃止されて、露語科が東京商業学校露語科となり、それが不満であった。

しかし、その頃から熱心に読みだした逍遥『当世書生気質』『小説神髄』が、彼を文学の世界へ駆り立て、自分が無意義だと思う生活には一刻も耐えがたくなっていたのも大きな理由であった。

1月25日

長谷川辰之助、不審紙を貼りつけた『小説神髄』を持って、本郷真砂町の坪内逍遥をを訪問。逍遥は二葉亭の読みの鋭さ、近代文学に対する理解の深さにタジタジとなった。

1月19日

石阪昌孝、八王子警察署へ出頭、拘引(早期に釈放)。翌日、村野常右衛門、自首。昌孝の関与を否定するため(?)。石阪昌孝の大坂事件関与の度合いは不明(全く無関係というのは不自然)。既に、13日に森久保作蔵・土方房五郎、18日に山本与七が拘引。

昌孝は「くにのためこゝろ筑紫の剛男が 赤き心の道しるへかも」と歌い、村野常右衛門の大阪事件への参加は「国のために心を尽くした益荒男の行為で、その真心は私たちの道しるべとなるものだ」と賞賛(民権、あるいは立憲制実現のための反政府的な革命運動や朝鮮開化派への支援行動が、何のてらいもなく肯定)。それが国家のためという論理で承認される。国家の行く末のために真心を尽くして危地に踏み込む雄々しい男という、国家主義と精神主義が、民権への熱い希望と同居。

1月25日

独、指揮者フルトヴェングラー、誕生。

2月

南方熊楠、帰郷。渡米して勉強したいと父に申し出る。当初は反対、その熱意に負け渡米を許される。12月渡米。


「明治十九年春二月、予、疾を脳漿に感ずるをもって東京大学予備門を退き、帰省もっぱら修養を事とす」(「日高郡紀行」)


年初来の熊楠の頭痛の様子

1月17日、突然「夕より頭痛、殆ど困矒す」

1月18日、「本日頭痛なお止まず」

1月21日、「病なは愈ず」

2月7日、「予、病にて昨夜不眠」

2月8日、郷里に電報を打つ

2月9日、「午後四時迄臥す」

2月11日、父親が上京

2月24日、郷里に向けて出発のところ、またしても激しい頭痛のために翌日に延期

2月27日、和歌山に帰省


「退学を決断したのは熊楠自身だと思われるが、弥右衛門がこれを受け入れたのは、「小生は元来はなはだしき疳積持ちにて、狂人になることを人々患(うれ)えたり」という熊楠の病質を考えたからであろう。このままほうっておけば、熊楠は「狂」の方へふれていくかもしれない。そうさせないためには、郷里に戻すしかないという判断があったものと思われる。」(『漱石と熊楠』)


2月

高田半峰(早苗)「当世書生気質の批評」(中央学術雑誌)。

2月

黒田清輝、2月ミルマンの私塾に入り法律大學校に聽講。パリ在留中の山本芳翠、藤雅三、林忠正に畫家になることを勸めらる。5月コランの紹介でルーヴル博物館において模寫。夏ベルギー(ブリュッセル、ウォータルー、ブリュージュ、オスタンド)、オランダのハーグ(ラエ)を巡る。

2月10日

平塚らいてう、東京市麹町区三番町に誕生。父定二郎(会計検査院に勤務、のちに会計検査院長)と母光沢(つや)の3女。誠之小学校、女子高等師範学校附属高等女学校、日本女子大学校(現在の日本女子大学)家政科を卒業。

2月11日

植木枝盛(29)、横浜・羽衣座の自由政談演説会で「租税論」を演説。奥宮健之は「専制政治の元素を論ず」を演説。

2月13日

木下尚江、長野県中学校松本支校を卒業。3月、東京の英吉利法律学校(現中央大学)入学。4月、東京専門学校(現早稲田大学)法律科に転学。明治21年7月20日、東京専門学校邦語法律科卒業。

2月20日

石川啄木、誕生。岩手県南岩手郡日戸村(現玉山村)。常光寺住職・父一禎、母カツの長男。「一」と名付けられる。

父一禎(イッテイ)は同寺22世住職。岩手郡平舘(タイラダテ)村の農民石川与左衛門の五男、嘉永3年生まれの37歳。幼少のころ菩提寺の大泉院にあずけられ葛原対月(妻カツの次兄)について仏道を修業。明治4年1月盛岡三ツ割の龍谷寺住職となった対月を慕って同寺に赴いて役僧となり、ここで対月の妹工藤カツと結婚、明治8年2月1日(旧暦明治7年12月25日)、25歳の若さで南岩手郡日戸村常光寺の住職に栄進。啄木は、その12年目に誕生。なお明治8年9月8日常光寺境内に公立日戸学校が開設せられ、石川一禎は明治9年10月10日日戸学校準9等教授を申付られ、明治10年12月17日、日戸学校教員を申付られる。

母カツは南部藩士工藤条作常房の末娘、一禎の師僧葛原対月の妹、弘化4年生まれの40歳。

一禎夫妻には長女サダ11歳と次女トラ9歳の二女があり、啄木は長男、一(ハジメ)と名付けられた。当時一禎とカツの戸籍は別にあり、啄木は母の籍に入れられる(僧籍にある者の習慣から、一禎が表面の妻帯を遠慮して妻を入籍をしなかったことによる。そのため啄木は父母の戸籍が統一された小学2年生の秋まで工藤姓を名乗る)。

2月22日

この月、板垣退助、狩猟のため中村訪問。歓迎の宴には幸徳伝次郎(16、秋水)も出席。この日、海路高知に赴き、漢文教師木戸明の漢学塾遊焉義塾に入学。5月8日肋膜炎を患い入院、重態。中村中学校廃校につぐ第2の挫折。8月退院・帰郷。同21日記録的大洪水にみまわれる。

2月28日

三井物産、西表島炭鉱開発。沖縄監獄囚人180人使役。


つづく

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