1887(明治20)年
5月
板垣退助・後藤象二郎・大隈重信・勝海舟に伯爵辞令。伊藤の策謀。大隈は一時金3万円を公債にかえ東京専門学校(のち早大)に寄付。板垣は一旦拒否するも受ける。
5月6日
大阪発行「朝日」を東京に広める拠点として、京橋区銀座1丁目4番地の2階建てに「朝日」東京支局が開設。支局通信主任は「東京日日」編輯長をした干河岸貫一。
5月23日
法制局長官井上毅、憲法草案甲案伊藤首相に提出。
5月25日
大阪国事犯嫌疑事件(大阪事件)公判開始。大阪臨時重罪裁判所。弁護人星亨。
6月
韓国、女子ミッションスクール貞信女学校、設立。
6月
幸徳伝次郎(17)、高知中学校の進級試験に落第。第三の挫折。
6月
坪内逍遥(28)、真砂町の自宅を売り、学生の監督を辞して借家に移る。
7月、多忙から体調を崩し、療養のため関西方面へ旅行。
6月
一葉(15)の父・則義は14年3月以来勤めていた警視庁を退職。前年、警視庁が官制となるに伴い休職となっていた。
6月1日
伊藤博文・伊東巳代治・金子堅太郎ら、井上毅やロエスレルの憲法草案を基に、相州金沢で憲法草案の検討に着手。のち井上毅も参加し、場所は夏島の伊藤の別荘に移す。8月修正草案を作成。この草案は、今日「夏島草案」と呼ばれている。
6月5日
ルース・ベネディクト、ニューヨーク州シナンゴ・ヴァレーで誕生。「菊と刀」著者。
6月7日
長崎造船所、三菱に払い下げられる。
1857年建造開始の幕営長崎製鉄所は、船舶の建造・修繕にあたっていた。68年長崎府、71年工部省の管轄を経て、84年から岩崎弥太郎に貸与されていたが、この日を境に完全に三菱合資会社に払い下げられ。三菱にとり海運・炭鉱と並びその資本蓄積の柱となる。三菱は重工業に圧倒的な強さを持つようになる。
6月14日
ローザ・ルクセンブルク、ワルシャワ第2女子ギムナージウム卒業。最終学年の頃から革命的社会主義プロレタリアート党の非合法組織と接触、卒業後直ちに同党に参加。
6月15日
博文館(大橋佐平)より『日本大家論集』発行。この日に売り出された3千部は、またたく間に売り切れ、7月中に4版を発行、その後も版を重ね、年が明けても重版された。
6月20日
二葉亭四迷(25)「浮雲」第1編、刊行。金港堂。~明治22年8月(第3編)。
6月21日
夏目金之助(20)の次兄栄之助(28)、肺結核により没。
「次兄の直則は中野の電信修技学校を出て各地の電信局に勤め、岡山時代に結婚、東京電信局に戻ったが長兄に続いて死亡した。彼は結構遊び好きで、一時勘当されたこともあったらしい。」(岩波新書『夏目漱石』)
「夏目家では、大助・直則の死去で家督相続を三男直矩にするか末子の四男金之助とするか問題が生じ、家運も衰頽に向う。(大助は、金之助が養子にやられた塩原家で、昌之助とやすの紛争に捲き込まれて、どんな災厄が振りかからぬとも限らぬ、自分は病身で妻を迎えることもできぬから、金之助を養子にして、自分の跡を取らせようとして、夏目家に引取ることになる。直矩は、この話を思い出し、金之助に跡を取るかと尋ねると、こんな家の跡を取るのは嫌だと断る。)」
「.....金之助は次兄の病死する前後、直則の妻や三兄直矩とともに、直克の家に住む。直克は老齢に達していたし、嗣子と次男を続けて失い、心細くなり金之助への依存の気分が強くなったものと思われる。直則は両蓋の銀時計を金之助にやると口癖のように云っていた。次兄の妻は、夫が死んだ時、その時計は金之助のものだと明言したが、時計は質に入っていた。のちに、その時計は、三兄直矩に進呈され、次兄の妻は何もいわなかった。金之助は、黙っていたが、三見直矩にも次兄の妻にも愛想をつかした。(『道草』百による〉」(荒正人、前掲書)
6月25日
馬場辰猪「日本の監獄で」(ワシントン「イブニング・スター」)。監獄の野蛮な実情を暴露。
6月末
高野房太郎、カリフォルニア州メインドシーノ郡ポイント・アリーナのガルシア製材所で働く。~8月。
つづく
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