1885(明治18)
10月
星亨、6ヶ月の刑期を終え、この月、新潟監獄を出獄。自由党は解党、代言人資格は剥奪され全くの活動基盤なし。絵入新聞「自由燈」発行を続け、この間、各国憲法を翻訳し、翌明治19年「各国国会要覧」として出版。
10月
東海散士(柴四朗)「佳人之奇遇」(博文堂)。ベストセラー。「方今焦眉の急務は十尺の自由を内に伸ばさんより、寧ろ一尺の国権を外にのぶるに在り」。
10月
宮崎夢柳「虚無党実伝記鬼啾啾」(旭橋活版所)
10月
華族女学校開校。校長陸軍中将谷干城・幹事兼教授下田歌子・教授補津田梅子。
10月
イギリス、社会民主連盟ヘンリ・M・ハイドマン、雑誌「トゥ・デイ」に「資本論」第1巻の英訳連載。既に翻訳開始のエドワード・エイヴリングの政治上の対立者。
10月1日
東京ガス会社設立。質本金27万円。東京ガス局の事業を継承。需要戸数343戸、街灯数400基。日清・日露両戦後、事業は発展。明治43年には資本金1,800万円となる。明治44年11月25日、千代田瓦斯会社と合併。しかし、第一次大戦後、経営的苦境に陥る。
11月
与謝野鉄幹(12)、「海内詩媒」に漢詩を投稿し始める。この年、雅号を鉄幹とする。
11月
馬場辰猪、大石正巳と共に爆発物取締罰則違反逮捕(アメリカ行きのため横浜に移動、モリソン商会で不用意に爆発物に関する質問をしたため)。明治19年6月、無罪となり渡米。馬場は明治15年板垣外遊問題で「自由新聞」を放逐され、翌16年9月大石正巳・末広重恭らと脱党、独立党結成。同年4月に東京府下での政談演説禁止処分を受ける。
11月8日
山下奉文、誕生。
11月12日
植木枝盛、「廃娼論」掲載開始(「土陽新聞」)。14日、堀詰座で仏教排撃演説。
11月23日
【大阪事件発覚】朝鮮渡航のために長崎に集結していたメンバーと大阪に滞在していた指導部大井憲太郎ら逮捕。
11月29日
東京電燈会社、銀行集会所(日本橋坂本町)開所式に、藤岡式発電機で日本最初の白熱灯44個を臨時に点じる。明治19年12月、皇居造営の際して電灯が採用され、民間にも普及するようになる。
12月
仮釈放の林有造(45)、高知に帰郷、凱旋将軍の如く迎えられる。中村を訪れたとき、幸徳秋水(15)が土地の人たちと林を訪問。
この年6月、秋水は中村中学校3年後期を終了するが、7月、高知県が教育費削減のため中村中学校を本校の高知中学校に統合。経済的理由で高知には行けず。
林有造:
天保13(1842)年生。高知藩宿毛家老岩村英俊の次男。脱藩して勤皇倒幕に加わる。維新後、高知県参事。征韓論後、帰国、板垣・片岡らと高知立志社創設。西南戦争後、政府転覆クーデタに失敗、内乱罪で禁固10年の刑。後、逓信大臣・農商務大臣。長男岩村通俊は北海道長官、弟高俊は農商務大臣から貴族院議員。
12月
坪内逍遙「新磨妹と背かゞみ」(会心書屋)12~19・7
12月22日
【大政官制廃止、内閣官制導入】伊藤博文が初代の総理大臣(権限強化)、宮内大臣兼任。外務大臣井上馨・内務大臣山県有朋・大蔵大臣松方正義・文部大臣森有礼・陸軍大臣大山巌・農商務大臣谷干城(次官柴四朗)。宮中に内大臣(初代三条実美)をおく。
太政官制:
太政・右・左の3大臣のもとに数不定の参議を置き、そのもとに実務執行の各省が配置。3大臣には皇族・公卿・旧大名のみ任用され、明治4年廃藩置県以降、三条実美・島津久光・熾仁親王・岩倉具視の4人のみ(島津は不満を宥めるための臨時的登用、熾仁親王は名誉職、右大臣は明治16年岩倉没後空席)。3大臣制の時代錯誤と参議と省の乖離・非能率に対して、民権派を政治的に圧殺し終えたこの年明治18年春頃より、伊藤博文たちは権力の意志決定・政策実行の一元化を図るために奔走。太政大臣三条実美は第一線より名実共に引退。
伊藤は、西欧流内閣制度導入準備を、土佐系参議・薩長藩閥非主流(大木・佐々木・福岡・川村純義)には一切知らせず遂行し、第1次伊藤内閣からも除外。伊藤の内閣制度創設は薩長覇権強化という政変の性格もある。他に、三条の封殺・黒田の自爆。
内大臣:
太政官達第68号「宮中ニ内大臣宮中顧問官内大臣秘書官ヲ置ク」で行政府(内閣)から独立した宮中の官として設置。大正・昭和期にかけて後継内閣首班決定の主導権を持つなど国政に関して実質的に天皇の最高助言者としての役割を果たす等大きな政治的発言力を持つ。東条内閣成立時内大臣木戸幸一は、1940(昭和15)年に就任、1945(昭和20)年11月の廃止まで在職。
12月29日
南方熊楠、大学予備門の期末試験に落第。翌年2月、退学、郷里に帰り、12月に横浜からアメリカに旅立つ。帰国は明治33年(1900年)
年末
子規、下宿代を払えず、友人を人質にして下宿から逃亡する。
「大三十日の借金始末」(随筆集『筆まかせ』)で、「放蕩はせざれど借金に苦しみしことあ」り、明治18年暮の大晦日、下宿代が払えなくて、友人を人質に神田の下宿から逃げ去った思い出を語る。
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