2024年1月7日日曜日

大杉栄とその時代年表(2) 1885(明治18)年 1月~3月 北原白秋が柳川に生れる 尾崎紅葉(18)が山田美妙・石橋思案らと硯友社結成 漱石と太田達人との交流 福沢諭吉「脱亜論」発表(「時事新報」)

 


大杉栄とその時代年表(1) 1885(明治18)年 1月 大学予備門に在学している紅葉、漱石、子規、熊楠(18歳) 武相困民党解散 大杉栄が丸亀市に生れる より続く


1885(明治18)年 

1月18日

有志による示威大運動会。上野公園、学生3千など。清韓討つべし主戦論。日比谷まで行進。大井憲太郎、箱入りみかん送る。30日、大坂桜の宮に壮士3千が集り反清デモ。植木枝盛は大阪のデモに参加、その日の日記に「予臨焉、遂に群集山の如き中に演説す」と記す。

義勇軍結成運動、全国で展開。青森、秋田、山形、岩手、宮城(とくに仙台)、福島、千葉、東京、群馬、静岡、長野、新潟(新潟、新発田、長岡、高田等)、石川、富山(富山、高岡)、福井、和歌山(和歌山、新宮、田辺)、京都、滋賀、大阪、兵庫(神戸、淡路、姫路)、高知、徳島、岡山、鳥取、佐賀、長崎、鹿児島の3府24県。運動の中心は城下町の旧藩士、ついで旧自由党員。

後に大阪事件に参加した者には、この時義勇兵結成運動に参加した者が多い。中央では磯山清兵衛が前年12月に大井憲太郎、小林樟雄等を寧静館に招き義勇兵募集を相談。氏家直国も郷里仙台へ義勇兵募集に出かけ、稲垣示は郷里近くの高岡で義勇兵を募集し、このとき稲垣に従った井山惟成、寺島松右衛門、南磯一郎などは大阪事件に参加。その他なんらかの形で義勇兵結成に参加もしくは参加しょうとしたことがある大阪事件参加者は魚住滄、窪田常吉、大矢正夫、久野初太郎、田代季苦、橋本政次郎がいる。大阪事件集団は対清強硬論に出発点において形成されていたといえる。

1月20日

秋田、院内鉱山、古川市兵衛に払い下げ。

1月25日

北原白秋、九州柳川の造酒屋に誕生。

1月27日

ハワイ移民第1陣約1千、横浜を出帆。その後の9年間で3万人近くが移民。

1月27日

前田青邨、誕生。


2月

硯友社結成。尾崎紅葉(18)、予備門の仲間、山田美妙・石橋思案らと共に硯友社を結成


「尾崎紅葉が下宿していた神田三崎町の石野という下宿屋に、石橋思案・丸岡九華・山田美妙を含む四人が集り、文学修業の結社を設ける。五月に『我楽多文庫』(半紙半折二つ折り)を創刊し、明治二十一年五月から、四六倍判(後に菊判)発売本にする。」(荒正人『漱石研究年表』)


2月

坪内逍遙訳・リットン「開巻悲憤慨世士伝」(「晩青堂」)。

2月1日

「自由新聞」、廃刊。民権から国権への傾斜を強める。

2月25日

神田孝平「文章論ヲ讀ム」(『東京学士会雑誌』七編一冊)発表


「「平生説話の文章を以て文章を作れば、言文一致である」と述べている。言文一致という言葉を初めて使う。」(荒正人『漱石研究年表』)

3月

清仏戦争。この月(光緒11年2月)から戦局逆転。清の老将馮子材がランソンを奪回、黒旗車・ヴェトナム義勇軍も各地でフランス軍を破り、3月末にはフェリー内閣瓦解。しかし、淮軍系の勢力温存を図る李鴻章は駐清公使パークスや清国総税務司ロバート=ハートらのイギリス人の調停に乗り、前年の甲申事変以来の朝鮮問題の切迫などを理由に停戦にこぎつける。

3月

ドイツ参謀本部員メッケル少佐、来日。軍隊編成をドイツ式に転換。戦時に軍団長になることを想定した監軍をおく。戦時に旅団が基本単位として作戦できるよう旅団条例制定。戦列隊・補充隊からなる常備軍の他、戦列隊と同数の後備軍をおく。動員可能兵力は2倍半となる。

海軍:清国北洋艦隊の定遠・鎮遠撃破を目標に松島級の建造決定。海軍公債1700万円発行。絶影島を租借して石炭集積所建設。南シナ海・黄海作戦のため呉・佐世保に鎮守府開設。対馬に警備隊をおき砲台築造。

3月

漱石と太田達人との交流


「太田達人との交流が深まり、その下宿をしばしば訪れ、(この年か翌年頃)スペンサーの『第一原理』を借りたりした。

この年、漢作文「観菊花偶記」を執筆した。」(『筑摩年譜』)


「春から夏にかけて(推定)、太田達人(漱石は「たつじん」と呼ぶ)と頻繁に交際する。太田達人は、大観昔の傍らに住む漢詩人・間中雲帆の離れ四畳半に下宿代なしで友人と二人で住む。その下宿に毎日のように訪れ、何度も泊る。」(荒正人『漱石研究年表』)


「彼は貧生であった。大観音の傍に間借をして自炊していた頃には、よく干鮭を焼いて佗びしい食卓に私を着かせた。ある時は餅菓子の代りに煮豆を買って来て、竹の皮のまま双方から突っつき合った」(『硝子戸の中』)


3月

川上音二郎、自由亭雪梅名乗る講談師となる。

宮武外骨(18)、再び上京。


「明治十六年六月郷里香川に戻った外骨は、それから、「実家に居ること約一年、その間新聞雑誌へ投書することを表面のたのしみとしていた外、近郷の淫奔娘や売女に関係した事も少くなかツた」(「自家性的犠牲史」)。そんなある日、明治十七年十二月末、滝宮の茶屋で遊んでいると、遣手婆ならぬ遣手親爺(近所の猟師)が近づいて来て、こんな所で「つまらない女」なんかを相手にしているよりも、もっと「上等の女をお抱えになってはいかがです」と話を持ちかけた。その紹介で出会った西村房子と、外骨は、すぐに恋に落ちた。十七歳の房子は、高松藩士の娘で、父親を数年前に亡くしていた。そして二人は、翌十八年春、外骨の母の資金援助を得て、東京に出て来るのだ。」(『七人の旋毛曲がり』)

3月16日

福沢諭吉「脱亜論」発表(「時事新報」)

「わが国は隣国の開明を待って、共にアジアを興すの猶予」がなく、日本は「西洋の文明国と進退を共にし」、中国・朝鮮に対して「西洋人が之に接するの風に従て処分するのみ」。アジアの「固陋」に日本の「文明」を対置、両者の異質性を強調(地理的・人種的親近性に基づくアジアの連帯を拒否)し、「文明」を固守することで国際紛争に生き残るべきと指摘。

「明治十八年三月十六日付け社説 我日本の国土は亜細亜の東辺に在りと雖も、其国民の精神は、既に亜細亜の古陋を脱して、西洋の文明に移りたり。・・・今日の謀を為すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜を興すの猶予ある可らず、寧ろ其伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正に西洋人が之に接するの風に従て処分す可きのみ。悪友を親しむ者は悪名を免かる可らず。我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり」(「時事新報」)


福沢諭吉:

明治13(1880)年初めて朝鮮人と会う。金玉均が派遣した僧・李東仁、1881年朝鮮政府派遣の紳士遊覧団の魚允中と会い、随員の喩吉濬ら2名を慶応に入学させる。同年9月「時事小言」。日本だけが不燃建築にしても、隣国から類焼する恐れがあり、彼らも不燃建築にするために手を貸さねばならない。1882年金玉均と会見。開化派支援のため多くの留学生を慶応に受入れ、1883年初め、朝鮮で新聞を発行するため弟子の井上角五郎・牛場卓蔵を送る。井上への訓示「ともかくも、日本以外の国々をして、断じて朝鮮に手を出さしむる訳にはいかぬ。日本が独り之に当たるのが、日本の権利であって亦其の義務である」。後藤象二郎と共に金玉均を支援したクーデタ失敗の状況のなかで「脱亜論」は書かれる。朝鮮は誘導するに値しない国と見限り、連携論は終る。


つづく


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