1885(明治18)年
4月
阿仁鉱山、古河市兵衛に払下げ。
4月
山手ゲーテ座、完成。
4月4日
中里介山、誕生。神奈川県西多摩郡羽村(現東京都羽村市)に、父中里弥十郎、母ハナの次男。本名弥之助。
4月5日
宮崎郁雨、新潟に誕生。のち啄木義弟となり啄木を経済的に支える。
4月5日
馬場辰猪(34)、横浜住吉町の湊座の政談演説会で「東洋の気運を説き併て日清の関係を論ず」を演説。
4月10日
農村からの離脱者多い。小金井付近の農民は続々と村を捨て、「横須賀へ出稼ぎするもの」「横須賀造船所に雇はるる」もの続く。(「朝野新聞」武州北多摩通信)。
4月11日
正力松太郎、誕生。
4月18日
日清天津条約調印
伊藤博文大使、北洋大臣李鴻章。日清両軍の漢城共同撤退(日本側は1個中隊の暫定的駐屯であるが、清国側は漢城制圧する駐兵既得権をもつ大軍であるため、事実上の清国の朝鮮駐兵権の放棄)、将来派兵の際の行文知照(事前通告)、両国とも軍事教官を派遣せずなど。5月12日、天皇批准。実際は、この年10月の袁世凱派遣による朝鮮外交権の掌握や1887年6月の朝鮮政府の各国公使派遣への干渉(自主外交封じ込め)など朝鮮の保護国化(旧来の宗属関係から)が進む。
4月29日
熊楠(18)の日記に初めて頭痛の記録 「余一昨日より頭痛始まり今日なお已まず」
5月
宮城県刈田郡の農民、借金返済延期・利息引き下げを要求して立ち上がる。
5月
坪内逍遙「詩歌の改良」(「読売新聞」)
5月2日
尾崎紅葉、手書きの回覧誌『我楽多文庫』(筆写回覧)を創刊。
5月6日
小手川ヤエ(野上弥生子)、大分県北海部郡臼杵町511番地(現・大分県臼杵市大字臼杵500番地)に生れる。醸造業の小手川角三郎とマサの長女)
5月12日
武者小路実篤、東京市麹町区元園町1-38(現東京都千代田区1番町19-4)に誕生。父子爵武者小路実世(さねよ、33)・母秋子(なるこ、勘解由小路家、31)の8番目の末子。兄姉のうち5人は早く死に、5歳の伊嘉子(いかこ)、2歳の公共(きんとも)がいた。
5月15日
「全国的な飢饉ー酸鼻の極、草根木皮をかじり死馬を食う」と岩手地方の死馬に群がる貧民の惨状、鹿児島日置郡の「餓死するもの甚だ多し」。
和歌山県那賀郡では人口8万中、粥を啜る農民2万、「飢餓に迫る者三千余人」と報道。この頃、岡山県では「岡山来信。天明の大飢饉以来の惨状、僅に貯えおきたる糠或いは批米を食用とする積りなるも、十分の貯えなければ、餓死するも必死なり。死馬一頭八十銭」(「朝野新聞」)。
京都では二条城外堀に身投げ者多く交番所ができる。
5月25日
「朝野新聞」論説、「諸業廃頽して人民生活の道を失うなり。皆末開国の通患にして文明国に於ては稀に観る所」と書く。
5月27日
森鴎外(23)、一等軍医に昇進。在ドイツ。7月25日、正七位に叙任。8月27日、ザクセソ軍団秋季演習に参加。10月11日、ドレスデンに移り、ザグセン軍医監ロートに師事。ザグセン軍団の冬季軍陣衛生学の講習会に翌年2月迄出席。2月以降、「日本兵食論」(独文)、「日本家屋論」(独文)著述に従事。「日本兵食論」の大意を作り、石黒軍医監に送付。
5月28日
「神奈川県下三多摩の近況」、「日々の食料に不足を告る者十中七八に及」び、「早朝より二三里以外へ出て乞食同様のことを為す者多く」、「小作料などは十中の六、七は悉く不能」。(「毎日新聞」)。
5月31日
漱石、十人会の仲間と徒歩遠足~6月
「五月三十一日(日)(不確かな推定)、十人会の仲間と、会費十銭で、神奈川県江の島に徒歩速足をする。末富屋で勢揃いし、赤毛布を背負い、草鞋ばきに握り飯を持参。十六夜の月に照らされながら、夜明け頃、品川に着く。大森・川崎・鶴見・生麦・子安を経て神奈川に着く。土手(不詳)に腰かけて、持参の握り飯を食べる。太田達人、足が痛くて七、八里先の藤沢まで行かれぬので、ここから汽車(推定)で、東京に帰るといい出す。足の痛いのはみんな同じで、我慢しているのだからといって激励する。太田達人もそれに従う。午後八時頃、藤沢に着き、更に江の島に向う。境川河口の東、袂が浦の西の海岸に着くと、江の島の形は見えたが、海水漫々として、海は広く何処から渡ったらよいか分らぬ。柴野(中村)是公は、前に来たことがあるというので、案内役であったが、渡る所が分らぬという。疲れきっていたので、赤毛布にくるまり、海岸の窪地に野宿する。
六月一日(月)(不確かな推定)、夜中、小雨降る。風強い。夜明け頃、一同目覚める。斎藤英夫(真水)、脚絆がなくなったといい出し、みんなで探すと犬が銜えていき、砂浜の藻屑のなかから発見する。(夜中に、犬の鳴き声を聞いた者いる)砂浜で、持参の握り飯を食べる。次第に明るくなり、江の島の家並はっきりしてくる。向う岸に五、六人の男たちが出て、見物客だと見当をつけたらしく、海中を渡ってくる。見物客を背負って渡す人夫たちである。みんなが背負われるだけの費用もなく、会費以外の金を持っている仲間が若干出し合ったが足りぬ。一人だけ背負われて、後の連中はその後について海中を渡る。金之助は〝俺がおぶさる〞と申出て、先頭に立って渡る。江の島に渡ったが、柴野(中村)是公も地理がよく分らぬと、坂の下から東に行くと、恵比寿楼(推定)の庭に出てしまう。宿屋の女中が雨戸を開けているところで、朝早いのに驚き、対岸のどの旅館に泊ったのかと聞く。みんなで「其処だよ」といい加減に答える。女中から道順を教えて貰う。江の島神社(弁天祠)の辺津社(下宮)・中津社(下宮)・中津社(上宮)・御窟(岩屋)のほかに、児が淵・竜窟など見ながら、江の島を一周する。江の島から再び片瀬に戻り、(どんな方法で戻ったか分らぬ)痛い足を引き摺りながら、波打際に沿って七里が浜を歩く。鎌倉町に入り、鶴が岡八幡宮に辿り着く。足痛み、空腹に耐えられぬ。石段の下に甘酒屋がある。ここで二組に分れ、石段を登って宝物を見物する者と、石段の下で甘酒屋に寄る者に分れる。甘酒屋に寄ったのは、太田達人と小城斎(推定)である。二人は石段を登った者から金を投げて貰う。今日のうちに東京に帰るには、急がねばならぬので、足の病んだ太田達人と小城斎は、横浜停車場から汽車に乗ることにする。他の者は駈け足で帰ることにした。(太田達人と小城斎は、鎌倉町で仲間から分れたのではないがと推定される)金之助は川崎までは駈け足で行ったが、足が痛くなり、川崎停車場から汽車に乗る。新橋停車場で降り、夜遅く末富屋に辿り着くと太田達人と小城斎は既に帰っていた。他の何間は後から到着する。」(荒正人『漱石研究年表』)
つづく
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