1888(明治21)年
5月
「朝日新聞」、「めざまし新聞」を星亨から3千円で買収。社屋、印刷所、記者、職工ら従業員40余すべて「東京朝日」として引き継ぐ。
「朝日」社長村山龍平は、石川島監獄面会室で星亨と会い、「めさまし新聞」譲渡契約に調印。星は帝国憲法草案などを配ったという秘密文書出版罪で逮捕、収監。
「めさまし」(明治20年4月)の前身は「燈新聞」(19年1月)で、その前は「自由燈」(明治17年5月発刊)。「自由燈」は、自由党解党後も旧自由党直系新聞として生き残り、銀座3丁目の自由新聞社屋を本拠に、坪内逍遥の「小説神髄」の一部を単行本出版前に連載。
「めさまし」は、社屋は京橋区元数寄屋町2丁目に移す。「めさまし」は、伊藤首相の婦女暴行疑惑を「強姦余聞」として報道し、8週間発行停止されたのをはじめ、社説「革命は恐るべきものに非ず」でも3週間の発行停止を受けるなど発刊不能の日が続き、明治20年1年間で、発行停止は4回計19週間、133日に達す。
5月
大西祝「批評論」(「国民之友」)
5月
石阪昌孝、発起人の1人となり神奈川県通信所設立趣意書発表。窪田久米・森久保作蔵(大阪事件関係者で免訴・無罪)が事務を担当。「七月より試に事務取扱候」。通信による結合の維持強化、大同団結運動の中核的な担い手の創出のため。
5月
ゴッホ、下宿先を「カフェ・ド・ラ・ガール」に変え、同じラマルティーヌ広場に「黄色い家」を借りアトリエ兼住居として整備。
30日~6月1日、地中海岸サント・マリー・ド・ラ・メールへ小旅行。6月までの作品は風景画が殆ど、アルルのはね橋、春の果樹園風景、夏の麦畑の風景が三つの大きなグループを形成。
5月4日
小泉信三、誕生。
5月7日
加藤弘之・菊池大麓ら25人に博士号が授与。日本で最初の博士が誕生。
5月8日
枢密院開院。天皇、皇室典範と憲法の草案諮詢の勅語を下す。7月13日、議了。
5月10日
新潟、日本石油会社、設立
5月12日
植木枝盛、大阪で個人演説会、「憲法の意見」。13日にも。ドイツ憲法の不適の理由、一局議院制、普通選挙など。7月ドイツ・日本の比較部分を除いて「国会組織 国民大会議」として刊行。
5月15日
アメリカに来訪の末広重恭、馬場辰猪の日本政府攻撃に警告(「・・・、只今御帰国有之候は十分危険に思はれ候」)。
5月16日
中江兆民「土着兵論」(「東雲新聞」~18日)。常備軍(天皇の軍隊)廃止・人民軍創設。
5月17日
安井曾太郎、誕生。
5月25日
『我楽多文庫』、5月25日発行の号から、改めて第1号とし、公刊にふみきる。月2回(10日、25日)発行、四六倍判(それまでは四六判)、定価3銭。
また新たに編集室を、それまでの紅葉の3畳間から、紅葉の家からも石橋思案の家からもほど近い九段中坂に設ける。
〈刊行形態の変遷〉
第1期(1~8号、明治18年5月~明治19年5月)は肉筆回覧誌
第2期(9~16号、明治19年11月~明治21年2月)は活版非買本(社員に配布)
第3期(〈再カウント〉1~16号、明治21年5月~明治22年2月)は活版公売本(書店で販売)
第4期(17~27号、明治22年3月~10月)は『文庫』と改題し、発売元が硯友社から吉岡書籍店に変更
雑誌も既に売品と成つた以上は、売捌の都合や何や彼やで店らしい物が無げればならぬ。因(そこ)で、酷算段(ひとさんだん)をして一軒借りて、二階を編輯室、下を応接所兼売捌場に充てて、石橋と私とが交るがわる詰める事にして、別に会計掛を置き、留守居を置き、市内を卸売に行く者を傭ひ其勢(いきおい)旭(あさひ)が昇るが如しでした、外に類が無かつたのか雑誌も能く売れました。(紅葉談話「硯友社の沿革」)
「能く売れ」たの言葉通り、毎号3千部以上も荒れた。発行日になると紅葉は石橋思案と共に、鞄に何十部も詰め込み、学校に売りに出かけた。購入するのは第一高等中学の学生ばかりではなかった。
続けて紅葉は、この頃(明治21年5月頃)から山田美妙が自分たちのもとを離れて行ったと語る。公刊された『我楽多文庫』に美妙は言文一致体の小説『情詩人』を連載するが、夏頃には連載が滞ってしまう。
5月26日
樋口一葉(16)の父、黒門町の自宅を売却。一家は、徒弟奉公の年季の明けた虎之助が芝東照宮の祠掌松岡徳善から借りていた芝区高輪北町19番地の浄土宗常光寺門前の借家に転居、虎之助を世帯主にした形を取る。以後、一家は借家住いとなる。
母多喜と虎之助の対立は絶えない。虎之助は、一葉が6歳の時に分籍になっており、この年2月、彼女が家督相続人となる。
虎之助は薩摩焼きの成瀬誠至のもとでの住込みの修業を終え、金襴焼着絵師として立ち、奇山と号していた。家族と6年ぶりに同じ屋根の下に暮らし始めるが、1ヶ月足らずのうちに、弟子と共に神奈川へ出稼ぎに出て行く。
6月
後藤象二郎ら、大同団結運動機関誌「政論」創刊。7~9月、地方遊説を精力的に行う。
6月
杉田定一、欧州遊歴より帰朝、福井に戻る。
大同団結運動オルグとして、東雲新聞記者栗原亮一と北陸新聞記者2人による北陸巡回遊説が武生から始まり、杉田もこれに参加、福井から石川・富山へ続く。杉田の活動は、栗原と共に福井・鯖江・南条郡で続けられ、地元坂井郡での活動も漸次加熱してゆく。
6月
アリス・ベーコン、華族女学校講師として来日。友人津田梅子(23)、横浜港で迎える。
6月
大山捨松、宮内省より洋化顧問係を依頼される。
6月
坪内逍遥(29)、この月、「読売新聞」連載「外務大臣」中絶。7月、創作の不調に悩み、関西方面へ再遊。
6月
歌塾「萩の舎」での一葉(16)の先輩、田邊花圃(本名・龍子)、坪内逍遥に校閲を得て金港堂から『薮の鶯』を発表。新進女流作家として脚光を浴びる。原稿料33円20銭(現在の約40万円)を手にする。前年に亡くなった兄・次郎一(三井物産ロンドン支店長)の一周忌の法要の費用を原稿料で賄ったというエピソードが、「萩の舎」塾生の間に流れる。一葉に小説を書く動機をもたらす。
欧化主義にかぶれた女学生たちを批判的に描いた作品で、日本近代文学における女性作家の先駆けとなった一作。春の屋主人(坪内造遥)の校閲を受け、著名な劇作家福地桜痴の序文、中島歌子の跋文をつける華々しい出版である。
6月1日
石阪昌孝、共立女学校内の美那にあてて書簡。「北門子より時々長々敷手紙参り、家屋改造の事懇切に申越候」。
6月6日
神近市子、長崎県北松浦郡佐々村字小浦の漢方医の3女として誕生。
6月16日
一葉(16)の父則義は田辺又兵衛、山本常吉等の相談を受けて東京荷馬車運輸請負業組合(荷馬車の貸借を中心とする組合形式の運送会社)の設立準備に加わり、6月16日東京府の認可を得て、神田区錦町1丁目2番地に事務所を開設。則義は事務総代に就き、西黒門町の家を売却した金の殆どを出資金に注ぎ込む。しかし、後に加盟業者の間で意見が対立し、東京荷馬車運輸請負業組合は脱退者が相次ぎ、ついには100円を出資した則義1人の名義で組合設立願書は取下げられた。12月、事務所閉鎖。則義の出資金は戻らぬまま責任者たちは姿を消す。
6月18日
松岡好一「高島炭坑の惨状」(「雑誌「日本人」)。長崎、高島炭坑労働者の虐待の記事。三菱と納屋制度による坑夫の酷使を激しく非難。高島炭礦の惨状は、玄洋社「福陵新報」等でも問題になっていたが、この問題提起は大きく取り上げられる。また、8月3日発行の同誌には吉本襄「天下の人士に訴ふ」等が掲載。三菱寄りの犬養毅の報告(「朝野新聞」)や警保局長清浦奎吾の現地視察も行われ、高島炭礦の労働実態は大きな社会問題となる。
6月18日
天皇臨席で枢密院会議、憲法草案審議。大隈外相は出席するも発言なし(明治14年急進的な憲法意見を建議した当事者)。
つづく
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