2024年1月31日水曜日

大杉栄とその時代年表(26) 1889(明治22)年1月 漱石(22)の新たな決意 漱石と子規の出会い 石原莞爾生まれる 「大阪公論」社説、「民間の人士」が望んできたほどの希望をこの憲法に託すならば、失望は免れまいと述べる    

大杉栄とその時代年表(25) 1888(明治21)年11月~12月 幸徳伝次郎(18)中村を出奔、中江兆民の書生部屋に住み込む 「経世評論」創刊(東海散士、池辺三山) 恒藤恭・菊池寛生まれる  ゴッホ、自分の左耳下部を切り取る より続く

 1889(明治22)年

1月

福井県会解散(12月)後の県会議員選挙(1月)と石黒知事の非職(2月)。

憲法発布・衆議院議員選挙を控え激戦。当選者は、前議員19、元議員6、新人11。師範学校費全廃建議案賛成18人中10人が再選。36人の殆どは地主議員となる。

松方デフレによる農村疲弊を経て、新県会は民力休養を唱え、農民課税にはより防御的となり、2月の再開通常県会でも勧業費は再び大幅削減となる。織物伝習所費など多くの費目は全廃、2次会での決議額は原案の1割未満となる。羽二重を中心とする絹織物業に象徴される企業勃興という課題に対して福井県会は終始消極的で、日清戦争前まで勧業費は1千~5千円台という低額。

尚、石黒知事は再開通常県会を前に内務大臣命により上京、県会閉会の2月18日の8日後に非職となる。8年余の石黒県政は終焉、旧薩摩藩士・内務省一等警視安立利綱が2代目知事に就任。

2月臨時県会で議長杉田定一・副議長永田定右衛門が選任。2月11日、杉田は福井県会議長として憲法発布式典に参列。以後暫く在京し、中央の政治活動に加わり、3月3日帰福。

1月

「妹と背かゞみ」・「細君」(「国民之友」)、家族と人情が近代国民国家の基礎となる

1月

森鴎外「小説論」。

1月

坪内逍遙(30)「細君」(「国民之友」)。これを最後に小説の筆を絶つことを決意

1月

漱石、新年にあたり決意を新たにする。


「この年の初めに、彼は札幌に行った橋本左五郎に英文の手紙(『漱石全集』第二十六巻、下書き訳文)を書いているが、それによると、新年に当たって顧みると、周囲の変化に取り残されそうな自分に、これではならぬと決意を新たにしたという。そこで彼が描いた自画像は、「頑固で熟しやすく、見知らぬ人の前に出るとはにかんで人見知りする質で、親しい友の前では冗談を言ったり語呂合わせなどして、陽気にするのが好きで、何でも試しにやってみるのは熱心なくせに途中で放り出し、実りのない空想に耽り、自負心が強く、不注意」な人間である。これからは「醒めた心を持ち、注意深く、勤勉になろうと思う」という主旨で、自分に厳しい。」(岩波新書『夏目漱石』)

《漱石と子規の出会い》

1月 漱石、共通の趣味である落語を介して正岡子規を知る。二人とも寄席が好きで、日本橋瀬戸物町の伊勢本という寄席へ講釈を聞きに行ったのが、そのはじまりと伝えられる。

子規は「筆まかせ」(明治22年)の中で、漱石を「談心の友」、「畏友」と呼ぶ。

当時、同級には山田美妙、上級には川上眉山・尾崎紅葉・石橋思案等がいた。

「子規が漱石の『木屑録』の跋に、「 - 余、吾兄を知ること久し、而して吾兄と交れるは、則ち今年一月に始まれり、余の初め東都に来るや、友を求むること数年にして、未だ一人を得ず、吾兄を知るに及んで、乃ち竊(ひそか)に期する所あり、而して其の己を知るを辱(かたじけな)うするに至って、而して前日を憶へば、此の吾兄に得たる所は、甚だ前に期せし所のものに過ぎたり、是に於てか、余は始めて一益友を得たり、此の喜知るべきなり」(現漢文)と書いてるのは、よくその間の消息を伝えているものというべきだ。それからというもの二人はよく日本橋の伊勢本あたりの寄席へかよつたものらしい。」(『漱石傳記篇』)

「忘れてゐたが彼と僕と交際し始めたもう一つの原因は二人で寄席の話をした時先生も大に寄席通を似て任じて居る。ところが寄席の事を知ってゐたので話すに足るとでも思ったのであらう。其から大に近よって来た」(漱石談話『正岡子規』)

「漱石の回想によれば、彼らの交友の切っかけのひとつは、彼らが共に寄席好きで話が合ったということらしいが、事実、彼らの初期の往復書簡には、落語風の措辞や地口がちりばめられていて、その寄席好きがなかなかのものであったことがわかる。・・・・・それにこのことは、当時、寄席という存在が、知的な青年たちに対しても、現在とは異なる強い力をふるっていたことをうかがわせて興味深いのである。」(粟津則雄(『漱石・子規往復書簡集』(岩波文庫)解説))

1月1日

東京と熱海の間の公衆用市外電話が開通

1月3日

大阪の「朝日」が「大阪朝日」と改題し「大阪公論」を姉妹紙とする。「東京朝日」は「東京公論」を姉妹紙とする。「公論」の眼目は2面トップの社説で、末広鉄腸(重恭)が主筆として入社、社説を担当。憲法制定・国会開設に備えての布陣。

1月3日

大阪の「東雲新聞」、「愈よ来る二月十一日を以て憲法を発布する事に決したるよし」と最初に報じる。憲法や衆議院選挙法は、発布の日も秘密となっている。

1月3日

ニーチェ、トリノのカルロ・アルベルト広場で昏倒、精神に異常をきたす。7日にかけていわゆる「狂気の手紙」を書き送る。8日、オーヴァーベック、トリノ到着。錯乱状態のニーチェを下宿で発見。翌日、ニーチェを連れてバーゼルへ戻る。10日、ニーチェ、バーゼルの神経科医院入院。医師は回復の見込み無しと診断。中旬、「偶像の黄昏」刊行。

1月4日

三井物産、三池炭鉱払下。三井集治監囚人使役。42年間継続。

1月7日

ゴッホ、退院、「黄色い家」へ戻る。医師レー、牧師サル、ルーランやジヌーらの友人が彼を支える。

1月9日

社説「将さに発布せられんとする憲法につきて」(「大阪公論」)、「民間の人士」が望んできたほどの希望をこの憲法に託すならば、失望は免れまいと述べる。筆者は「自由新聞」にいた西河通徹。

「何となれば所謂ビスマーク風の独逸主義(適当に独逸風と称すべからず)と、日本従来の政体とをこきまぜたるものに相違あるまじければなり。然り何人も同意し得るものには非るべし。然ども其条目に不同意なるからとて、直に其全部に付き明治政府と一大鏖戦を開きて、死生を一期に決すべきか、抑も亦耐忍勤勉、泰西の人士が歴史に遺したる跡を追ふて、効を永久に期すべきか」。そして「故に余輩は世人が耐忍勉労、効を永久に期するの心算を以て新憲法を承け入れ、一たび放るるも屈せず、二たび辱しめらるるも怒らず、動せず慌せず、徐々に己が望む所を達するの覚悟を定めんことを」と、明治政府との決戦は避け、改良の方策を求めよと主張

1月10日

フランス、コートジボアールを保護領とする

1月11日

社説「前途の大計」(「大阪公論」)。

この20余年、日本人民と政府は相反する道を歩んできた。政府は今こそ、「言論出版の制限を解き、整々堂々と民間の人士」と相まみえ、「奇々怪々の情報を一掃」して、「勝敗ともに公明正大の方法」をとることを求める。全文94行の内3ヶ所28行が伏字

1月12日

マドリードにスペイン・フィリピン協会結成。

1月16日

枢密院、憲法修正案につき再審会議を開く。1月31日議了。

1月18日

石原莞爾、山形県西田川郡鶴岡町(現鶴岡市)に誕生。

1月22日

改正徴兵令、公布。国民皆兵主義が実現。

1月23日

元老院、再び民法案を返上。

1月24日

ボアソナアド民法典、元老院に下付。政府は逐条審議をやめ大体の可否を決するため、元老院に命じ、3月4日「大体可否会議仮規則」制定、7日本会議としての「大体可否会」を開催。圧倒的多数により各法典の審議委員決定。以降、元老院民法審議委員会で4ヶ月間審議。7月末ふたたび元老院本会議に付される。

1月27日

普仏戦争の英雄ジョルジュ・ブーランジェ将軍(52)、パリ補欠選挙で圧勝。反共和主義、反議会制、ナショナリズム、対ドイツ強硬政策。

1月30日

オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の息子、帝位継承者ルドルフ大公、マイヤリンクの狩猟館で愛人マリー・フェッツェラ男爵令嬢(17)と自殺。

つづく

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