2024年1月13日土曜日

大杉栄とその時代年表(8) 1886(明治19)年3月~4月 松井須磨子生まれる 物集高見『言文一致』 坪内逍遙「内地雑居未来の夢」 二葉亭四迷「小説総論」 宮武外骨『屁茶無苦新聞』(発禁) 一葉(14)の復学断念      

 


1886(明治19)年

3月

饗庭篁村「当世商人気質」(「読売新聞」)。大評判。

3月1日

この頃、ゴッホ、パリへ行きラヴァル街のテオの住居に転がり込む(テオはグーピル商会モンマルトル通り支店支配人)。アントワープでの4ヶ月は、ルーベンスの作品を見て自らの求める色彩を確認し、日本の版画を知り、イギリス人リーヴァンズなど美術学校で画学生たちと知り合い芸術家仲間の共同体的な雰囲気に初めて接するなど、次のパリ時代を準備する期間。

3月2日

帝国大学令公布。東京大学は工部大学校と合わせて帝国大学となる。初代総長は渡辺洪基。工部大学校で教えていたジェイムス・メーン・ディクソン、帝国大学文科大学教師となる。

3月6日

永井壮吉(荷風、7歳)の父久一郎は帝国大学書記官(出納官)に任じられ、奏任三等に叙せられた。帝国大学令公布(3月1日)による最初の書記官として経理経営の事務整備に当った。

3月8日

松井須磨子、誕生。

3月8日

森鴎外(24)、この年、画学生原田直次郎と親交を結ぶ。この日、ミュンヘンに移り、ミュンヘン大学ペヅテンコーフェル教授の指導を受け始める。ドレスデン地学協会年祭の宴席上、地質学者ナウマンの日本についての講演に偏見を見いだし反論。

3月21日

物集高見『言文一致』出版。


「明治二十年頃には、「言文一致」という言葉が定着した。明治十七年から十八年にかけて、円朝の人情話の速記は言文一致体で書かれた。明治十九年には、二葉亭四迷と山田美妙が言文一致の意識に立って文体革命を行う。明治四十年代の自然主義文学は言文一致を駆使する。」(荒正人、前掲書)


3月22日

共立女子職業学校(後の共立女子学園)、宮川保全・那珂通世らにより本郷に開設

3月30日

石川啄木・父一禎、渋民の宝徳寺に転任。


4月

春頃から、石阪昌孝・青木正太郎・土方敬次郎・小林幸二郎(広徳館の代言人)が監督となり義捐金募集活動が開始。大阪事件で神奈川県が最も多くの在監者を出す。

4月

坪内逍遙「内地雑居未来の夢」。他者・他国との関わりから自己・国家・国民意識が生成する。(晩青堂)4~10月。

4月

二葉亭四迷「小説総論」(中央学術雑誌)

4月

宮武外骨、『屁茶無苦(へちゃむく)新聞』(発禁)、10月『頓智新聞』、11月『絵入広告新聞』を、頓智協会設立の宣伝を兼ねてたて続けに刊行(いずれも1号限り)。

4月

子規(20)、清水則遠の葬儀執行。

4月

与謝野鉄幹(13)、大阪府住吉郡遠里小野村養家安養寺(安藤家)を去り、岡山の長兄和田大門に身を寄せる。

4月

パリ「ラ・ヴォーグ」誌、ランボーの詩「最初の聖体拝受」掲載。

4月

~5月、ゴッホ、モンマルトルのコルモンのアトリエに通い、ベルナール、トゥールーズ=ロートレック、アンクタン、ラッセルらと知り合う。

4月

朝鮮、女子ミションスクール梨花学堂設立

4月

この月、永井壮吉(荷風、7歳)、黒田小学校初等科第6級生を修業し、10月、同第5級生を修業した。

4月10日

小学校令(義務教育を目的とし6年制)、中学校令(各府県1校の尋常と全国に5校の高等に分ける)、師範学校令(尋常・高等に分ける)公布。

4月15日

新学校令が公布され、小学教育の義務性が強化され、女学振興の気運が高まると、則義は万障を捨てて一葉(14)を復学させようと思い立ち、華族女学校の教授兼学監の下田歌子を訪ねるが、内弟子を許されず、学齢を越えていて入校も不可能のため断念

〈一葉の教育歴〉

明治10年(1877) 5歳

早熟で向学心の強い一葉は4歳のうちに、兄たちに1年遅れて本郷元富士町2丁目60番地(現・文京区)の公立本郷学校に入るが、幼いため31日付で退学。

公式理由は幼少のためというが、同じ本郷学校へ通っていた長兄泉太郎は既に退め、次兄虎之助も退めることになり、夏子もまた退学となったと考えられる。秋には近くの小規模な私立吉川学校に通うことを考えると、父則義は公立学校ではなく、江戸時代の士族が受けたような、漢学中心の私塾の教育を子供達に受けさせようとしたと考えられる。

同年秋頃

もっと近い場所にある本郷4丁目37番地(現、文京区本郷5丁目3番金魚坂付近)の吉川富吉が経営する私立吉川学校の下等小学第8級に編入。小学読本・四書などを学ぶ。11年6月、第8級を卒業。『塵之中』に「師は弟子中むれを抜けて秘蔵にし給へり」とある

下等小学第8級は小学校の最下級、明治5年の学制に基づいて、当時は上等小学4年、下等小学4年の8年制であった。吉川学校は下等小学だけを教えた。

明治11年(1878) 6歳

6月 吉川学校下等小学第8級卒業、第7級に進み、翌年まで通う。この頃より家の土蔵で草双紙を耽読し、これが原因で強度の近視になる。

明治14年(1881) 9歳

6月 吉川学校に6月まで在学。

6月26日又は7月1日に、則義、家屋を売却し、同9日、下谷区御徒町1丁目14番地に移る。このとき、次兄虎之助は久保木家に預けられ、18日付で分籍。この居住時代に東京師範学校付属小学校にしばらく通った形跡がある。

10月14日 大蔵省赤坂租税局の小林好愛所有の下谷区御徒町3丁目33番地に転居。

11月 火災後再築された下谷区上野元黒門町17番地(池の端)の私立青海(せいかい)学校(校主山本正義)に転校、小学2級後期に編入された。

志向の原型(祖父の代から樋口家に培われたもの)。

明治26年(1893)8月の日記より。

「七つといふとしより、草双紙といふものを好みて、手まりやり羽子をなげうちてよみけるが、其の中にも、一と好みけるは英雄豪傑の伝、仁侠義人の行為などの、そぞろ身にしむ様に覚えて、凡て勇ましく花やかなるが嬉しかりき。かくて九つばかりの時よりは、我身の一生の、世の常にて終らむことなげかはしく、あはれ、くれ竹の一ふしぬけ出しがなとぞあけくれに願ひける。されども其ころの目には世の中などいふもの見ゆべくもあらず、只雲をふみて天にとヾかむを願ふ様成りき。・・・下のこころに、まだ何事を持ちて世に顕はれんとも思ひさだめざりけれど、只利欲にはしれる浮よの人あさまし厭はしく、これ故にかく狂へるかと見れば、金銀はほとんど塵芥の様にぞ覚えし。」

①「手まりやり羽子」を見向きもせず、草双紙に読み耽る日々に、すでに文学への萌芽を見出すこともできる。②「英雄豪傑」「仁侠義人」を愛し、「金銀はほとんど塵芥の様に」考える心のありよう。金融業まがいの副業をする父と父の周囲に集まる大人たちを見てのものであろう。③「くれ竹の一ふしぬけ出しがな」という明治女性の立志の道、また祖父~父へ受継がれた出世意欲が見てとれる。

明治15年(1882) 10歳

5月 青海学校小学2級後期を卒業。

11月 「小学一級前期」を卒業。14年5月に公布された学制改正のため「一級後期」に進んだところで一葉は改めて「小学中等科第一級」に(飛び級)進級。

明治16年(1883) 11歳

5月7日 青海学校小学中等科第1級を(年上の同級生に混ざって)5番の成績で卒業。小学高等科第4級に進む。この頃、福島県東白河郡出身の教員松原喜三郎の指導で和歌を詠み始める。

妹の邦子の「姉のことども」(大正11年12月「心の花」)によれば、「小学校の時分、青海学校の先生が歌を一寸読んでゐたようで、其影響ではじめたらしく、当時『筆』といふ歌でよんだのに『ほそけれど人の杖とも柱とも思はれにけり筆のいのち毛』といふのがあります」という。

12月23日 青海学校小学高等科第4級を主席で修了するが、「女子にながく学問をさせんは、行々の為よろしからず」との母の意見で、青海学校を退学。以降、学校教育は受けず。

「十二といふとし学校をやめけるがそは母君の意見にて女子にながく学問をさせなんは行々の為よろしからず針仕事にても学ばせ家事の見ならひなどさせなんとて成き。」(明治26年8月「日記」)

「しかるべからず猶今しばし」との父親の意見もあったり、妹くに子によれば、青海学校の教師が、さらに学ばせるようにと勧めに来た事もあったが、母親の考えが尊重され、「死ぬ斗(バカリ)悲しかりしかど学校は止になりにけり」となる。


4月29日

東京大学予備門が第一高等中学校と改称される。予科3年、本科2年となる。東京師範学校は高等師範学校と改称される。


つづく


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