1887(明治20)年
7月
独善狂夫(清水太吉)「自由之犠牲女権之拡張 景山英子伝」出版。3版を重ねる。また、7日付「朝野新聞」、淀屋橋の町芸妓たちが花柳演説会を開き、その収入を景山英子に送ることにしたという。
7月
子規(21)、柳原極堂と大原其戎(きじゅう)を訪ね、俳諧を学び始める。其戎の主宰する雑誌『真砂の志良辺』に投句。
自分も何とはなしに十七字を連ねて見たのは明治十八年の事であったらう。併しもとより先生があるではなし友達があるではなし、自分の楽にやってをるやうなものゝ、まだ趣味も何もわからないのであるから、本気になつてやつてをるわけでもない。それでも十句許り書き並べてをつたのを或人が見て、是非宗匠に見て貰へといふて自分に紹介して呉れたのは其戎といふ宗匠であった。
文化9(1812)年伊予三津浜町に生まれた其戎は京都の桜井梅室のもとで俳譜を学び、二条家より宗匠の免許を得た旧派俳人(小林高壽『正岡子規評伝』)。郷里へ帰ったあとは「父の四時園を継いで明菜社を興し『真砂の志良辺(しらべ)』(明治13年1月創刊)を発行」。明治22年4月1日、78歳で没。
明治20年、夏休みを利用して子規と共に帰省していた親友の柳原極堂は「同級生より句を学ぶまで」という一文の中で、こう書く。
君に誘はれて三津ケ浜の其戎と云ふ宗匠を訪問した。其戎は八十歳余りの爺さんで梅室門下の人ださうな。二階に通ると其処が書斎と云ふ風で、天井も壁も襖も、何処と云はず一面発句や画で以て帖りつめられて居る。自分が天井などを眺めて居る間に、子規君は袂から十数句の俳句を記した草稿を取り出して、其戒の選評を請はれた様であった。ソシテ其戎は概して賞讃して居たやうであった。
その時の一句(「虫の音を踏みわけ行や野の小道」)が其戎の主宰する雑誌『真砂の志良辺』第92号(明治20年8月12日発行)にとりあげられた。
7月
永井壮吉(荷風、8歳)、尋常科第2学年を修業(翌明治21年7月、第3学年修業)。
7月
女学生雑誌『以良都女(いらつめ)』、欧化主義に対抗する保守的婦人啓蒙誌を目指して創刊。創刊メンバーは中川小十郎(のち立命館大学創立者、山田美妙と大学予備門同級生)、一木喜徳郎(のち枢密院議長)、正木直彦(のち東京美術学校校長)ら。山田美妙は「言文一致」ゆえで加わる。
文部大臣森有礼の名で公募された「男女文章ノ体ヲ同一ニスル法」という課題の懸賞論文に共同執筆で応募し一席を獲得していた中川と正木は、「言文一致」の実用的側面に強い関心をいだいていた。しかしその実際を女子学生たちに上手くアピールする文学的技量は持っていなかった。そこで白羽の矢が立ったのが美妙で、それは美妙の利害とも一致していた。彼は商業誌に執筆できる機会をうかがっていた。彼は反欧化主義者でもないのに『以良都女』編集メンバーに加わり、明治21年9月15日発行の第15号からは編集兼発行人となる。編集メンバーには、そのころ最大手の出版社金港堂の編集者新保磐次がいた。彼との出会いが美妙の将来をまた大きく変えて行く。
7月3日
谷干城農商務相、意見書提出。井上外相の対英軟弱外交(条約改正案)非難、行政改革・整理の必要、農民のための減税、国会開設以前の言論・集会の制限撤廃、を主張。28日、憤慨辞職。在野壮士を熱狂させ国民的英雄の如く迎えられる。
この頃には井上馨の条約改正案が作成される。改正案は、①外国人裁判官の日本の裁判への関与を認めるなど、不平等解消とは程遠い内容で、②治外法権に関しても、内地に居住して土地を所有する外国人は、日本の裁判管轄に服するとしながらも、開港地に居留する者には条約改正後3年間の治外法権を認め、その後12年間は日本の裁判所に外国人判事の参加を許すなど、改正は実際には骨抜き状態。③また関税についても、若干の税率引き上げを予定するのみで、関税自主権を回復させるものではない。改正案はイギリス、ドイツの共同提案に基づくものだが、④外国人の内地居住権、土地所有権を認めた点でも日本は譲歩した。井上があえて改正案を受け入れたのは、国内産業育成に向け、多少でも輸入関税の税率を高める必要があったからで、交渉を税率引き上げに絞り、治外法権については大きく譲歩した。
政府内部でも反対論が強く、黒田清隆・寺島宗則ら薩摩閥は改正案を支持せず、もともと鹿鳴館外交に批判的な谷干城農商務相は、国粋主義の見地から井上案に反対して大臣を辞任。フラソス人政府法律廠問ボアソナードも、改正案は国家の主権を害するとの意見書を提出。こうして改正交渉は暗礁に乗り上げ、政府は各国に改正中止通告を余儀なくされ、9月、井上は外相辞任、井上辞任とともに鹿鳴館時代も終わる。
7月14日
石坂ミナ(21)、共立女学校和漢学科を卒業。卒業証書授与式で「自由を張るに女子も亦責任あり」を演説。
7月20日
江口渙生れる。
7月27日
山本有三生れる。
7月28日
片山哲生れる。
7月29日
伊藤博文・井上馨、協議し「条約改正会議を、諸法典編成後まで無期限に延期」と閣議決定、この日、列国公使に通告。
7月29日
重光葵生れる。
8月
明治憲法「夏島草案」完成。伊藤の別荘「夏島」で。井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎をスタッフに、ドイツ人顧問ロエスレルの意見を参考に、伊藤がこれを修正して作り上げる。10月、更に井上毅・ロエスレルがこれに修正を加え、明治憲法の原案が出来る。
8月
8~10月、この頃、板垣退助の封事(天皇に提出する文書)、谷干城・勝海州の意見書、憲法草案、グナイスト講義筆記などを掲載する秘密出版事件起こる。憲法草案の一部が「西哲夢物語」という秘密出版物で出回る。
8月
漱石、中村是公らと江ノ島に遊び、富士登山。
「夏(七月十日頃から八月下旬 日不詳)、柴野(中村)是公らと江の島に遊び一泊し(推定)、早朝島の頂上に登る。その後で、富士山(三七七六メートル)に登る。大船停車場から国府津までは汽車に乗り、箱根・御殿場に一泊し(以上推定)、御殿場口から頂上に登る。是公は、郷里に帰ったものと想像される。但し、道順はよくわからぬ。金之助は、箱根を経て、帰りは東山登山道を降り、国府津まで行き、汽車で東京に帰ったものと推定される。(富士登山第一回め)」(荒正人、前掲書)
8月
漱石の季兄直矩(昭和6年8月9日、73歳で死去)が家督を相続し、9月23日に牛込区南榎町52番地の士族で東京府庁に出仕していた朝倉景安の次女ふじと籍したが、12月に離縁した。
夏~冬(不確かな推定) 夏目家から、塩原金之助の籍を夏目家に戻す交渉を始める。
「長兄、次兄と続いて死去したことで、相続人を決めるため、大助の遺言に金之助を夏目家に復籍させるよう希望していたこと、夏目家の血族がいるに拘らず他家から養子を迎えることは道理にかなわぬこと、直矩はたよりないこと、以上の三点を理由にあげる。だが、塩原昌之助は断る。直克は再三交渉する。樋口某・田中某という代理人をたてて、半ば脅迫めいた交渉も試みる。昌之助は、三百代言の鈴木喜之助を代理人として、大阪に行く。留守中に、直克は白井かつ(塩原家に入籍していない)と交渉し、金之助の復籍の承認を得る。鈴木喜之助はそれを知って当惑する。大阪から帰った昌之助はかつの勝手な行助を叱る。(関荘一郎「『道草』のモデルと語る記」大正六年二月『新日本』)」(荒正人、前掲書)
8月
南方熊楠、サンフランシスコのパシフィック・ビジネス・カレッジに学んでいたが、転学を決意。
8月12日 ネブラスカ州リンカーンに着き、州立大学への入学を志す。
朝六時ヴァレイにて下車、俟(ま)つこと半日斗(ばか)り、汽車にて首府リンコルンに趣き、ビュオハウスに宿す。浴湯(七十銭(両人にて)とられる)後、大学校にゆきスチュアルドに画し、規則書もらひ、其他尋問する所有しが、学校目下修繕中也。(『南方熊楠日記I』)
入学できるような状況ではないので、シカゴに向い、ミシガン湖を見物して
8月15日 ミシガン州ランシソグに移動し、同22日、州立農業学校の試験を受け、即日合格となる。
翌年4月、アメリカ人学生の乱暴に会い乱闘騒ぎ、熊楠の訴文などにより校長が裁定、アメリカ人学生の停学処分で解決。11月、寄宿舎でアメリカ人学生2人・日本人学生2人と飲酒、大酔、自室に戻る途中廊下で眠り、見回りの校長に発見され問題化。他の4人の放校を免れる為、熊楠1人が責任をとり、翌早朝、農学校を去りアナーバーに移る。アナーバーの州立大学には日本人留学生35、6人いて、熊楠は彼らと大いに交遊。しかし、学校には入らず、読書して独学し、山野を歩き植物採集に励む。特に菌類・地衣類など隠花植物に関心を強める。
8月12日
板垣退助、華族特権使い政府失政10ヶ条意見書を上奏。高知へ帰郷
8月14日
荒畑寒村、誕生。横浜の遊郭所在地・中区永楽町1丁目8番地。妓楼に料理を入れる仕出し屋。8人兄弟の4人目。長子・末子以外は里子に出される。神奈川県鎌倉郡永の村字上野庭(横浜市南区)臼居九兵衛という農家に里子。5歳、里親に実子が生まれ実家に戻る。その後2~3年で引手茶屋に転業。明治26年春、姉と共に廓外の私立旭小学校入学。明治30年春、市立吉田小学校高等科1年入学。明治34年春、卒業。
8月18日
幸徳伝次郎(17、秋水)、故郷中村出奔。20日高知着。家蔵の漢籍を売却して資金を作り、9月7日朝8時高知発。8日午前2時神戸着。9日夕方横浜着。同午後8時新橋着。自由党領袖林有造の書生となり、林の実兄岩村通俊(北海道長官)の別荘に住込み、自由党林包明経営の私塾英学館(神田猿楽町)に通学が認められる。12月26日保安条例で東京追放。
8月21日
北村透谷(18)、この日東京で宣教師ワーレンスの演説を聞き、その夜横浜に行く。横浜で商業を目論むが、失敗。「一生中最も惨憺たる一週間」。
つづく
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