2025年3月4日火曜日

大杉栄とその時代年表(424) 1902(明治35)年10月 トロツキーの脱走② 「私がチューリヒからパリ経由でロンドンに到着したのは、1902年の秋――たぶん10月――の早朝だった。」(トロツキー『わが生涯』) 「プレハーノフはすぐさまトロツキーを猜疑の目で見た。彼は、トロツキーを『イスクラ』編集部の若手派(レーニン、マルトフ、ポトレーソフ)の同調者、レーニンの追随者とみなしたのだ。」(クルプスカヤ『レーニンの思い出』) 

 


大杉栄とその時代年表(423) 1902(明治35)年10月 トロツキーの脱走① 「その頃、私と妻との間にはすでに2人の娘がいた。・・・。私が脱走すれば、アレクサンドラ・リヴォーヴナに二重の重荷を背負わせることになるにちがいなかった。しかし、彼女はたった一言でこの問題を退けた。  『行くべきよ』。  彼女にとって革命的義務は、他のあらゆる考慮を、何よりも個人的なそれを圧倒していた。」(トロツキー『わが生涯』) より続く

1902(明治35)年

10月 

トロツキーの脱走②


 私がチューリヒからパリ経由でロンドンに到着したのは、1902年の秋――たぶん10月――の早朝だった。半ば身ぶり手ぶりで雇った辻馬車は、紙に書いた住所をたよりに目的地まで送り届けてくれた。目的地はレーニンのアパートである。チューリヒであらかじめ教えられていた通り、私はドアノッカーを3回たたいた。開けてくれたのは、ナデージダ・コンスタンチノヴナ・クルプスカヤであった。どうやら私のノックでベッドから起き出してきたようだ。時間はまだ早く、文化的な社会生活にもっと慣れ親しんだ人間なら、まだ夜も明けきらないうちに他人の家のドアをノックしたりしないで、1、2時間ほど駅でおとなしく時間をつぶしたことだろう。だが、私はまだ、ヴェルホレンスクから脱出したときの昂ぶった気持ちでいっぱいだった。チューリヒでも同じ荒っぽいやり方でアクセリロートのアパートを騒がせたのであった。もっともその時は早朝ではなく真夜中だったが。

 レーニンはまだベッドの中にいた。その顔は愛想よかったが、無理からぬ当惑の色が交じっていた。私たちの最初の会見、最初の会話はこのような状況のもとで行なわれた。ウラジーミル・イリイチ[レーニン]も、ナデージダ・コンスタンチノヴナも、すでにクレールからの手紙で私のことを知っていて、私が来るのを待っていた。だから、私が着いたとき、『ペローが来た』という声で迎え入れられたのだった。」(『わが生涯』第11章「最初の亡命」より)


 「そうこうするうちに、サマラから知らせが来た。彼らのところにシベリアからブロンシュテイン(トロツキー)が脱走してきて、彼は非常に熱烈なイスクラ派であり、全員に非常によい印象を与えた、というのだ。『正真正銘の若鷹である』とサマラの同志[クルジジャノフスキー]は書いている。彼らは彼に『ペロー』というあだ名をつけて、『ユージヌィ・ラボーチー(南部労働者)』派と協議するために彼をボルタワへ派遣した。……

 ある日の朝早く、入り口のドアに激しいノックの音が響いた。ノックの音が普段と違ったようになる時は、私たちの所に人が来たのだということを私はちゃんと心得ていた。そして、急いで下に降りてドアを開けた。トロツキーだった。私は彼を私たちの部屋に通した。ウラジーミル・イリイチはまだ目が覚めたばかりで、ベッドの上に横たわっていた。彼ら二人を残して、私は辻馬車の勘定を払いにいき、コーヒーの支度などをした。私が戻った時、ウラジーミル・イリイチはまだベッドに腰掛けていて、トロツキーと何か非常に抽象的なことを盛んに議論していた。そして、『若鷹』についての熱烈な推薦と最初の会話の結果、ウラジーミル・イリイチは新参者を特別注意深く観察するようになった。彼は多くのことを若者と語り合い、彼と散歩に出かけたりした。

 ウラジーミル・イリイチは、トロツキーが『ユージヌィ・ラボーチー』派のところへ行った時のことを根掘り葉掘り尋ねた。――そして、トロツキーの定式化の明快さが気に入った。すなわち、トロツキーが不一致点の要点を即座につかみ、通俗紙という看板の下に自己のグループを維持したいという願望があることを、好意的な声明の皮膜を通して見破ったことが気に入ったのだ。

 ロシアからは、しきりにトロツキーを呼び戻す催促が来ていたが、ウラジーミル・イリイチは、トロツキーが外国に残ってもっと勉強し、『イスクラ』の仕事を手伝うことを希望した。

 プレハーノフはすぐさまトロツキーを猜疑の目で見た。彼は、トロツキーを『イスクラ』編集部の若手派(レーニン、マルトフ、ポトレーソフ)の同調者、レーニンの追随者とみなしたのだ。ウラジーミル・イリイチがプレハーノフにトロツキーの論文を送ったところ、『君の「ペロー」のペンは気に入らん』と返答してきた。ウラジーミル・イリイチは、『文体はどうにでもなる。そして彼には学習する能力があり、大いに役立つことだろう』と答えた。1903年5月、ウラジーミル・イリイチはトロツキーを『イスクラ』の編集部に補充することを提案した。

 トロツキーはまもなくパリに去り、そこで異例の成功を収めた。」(クルプスカヤ『レーニンの思い出』初版「ロンドンでの生活」より)


 「その日の朝だったか、翌日だったか、ウラジーミル・イリイチといっしょにロンドンの街並みを長時間散歩してまわった。レーニンは橋の上からウエストミンスターやその他の有名な建物を教えてくれた。その時レーニンが正確にどう言ったか覚えていないが、『あれが彼らの有名なウエストミンスター[ゴチック様式の国会議事堂]だ』といったニュアンスで語っていた。『彼らの』というのはもちろん、『イギリス人の』という意味ではなく、『支配階級の』という意味である。こうしたニュアンスは、あえて強調したものではなく、すぐれて本能的なものであり、その声色によりはっきりと表れていた。何らかの文化財や新しい成果や、大英博物館の豊富な書籍や、ヨーロッパの大新聞の情報について、あるいは、ずっと後年に、ドイツの大砲やフランスの飛行機について語るとき、レーニンはいつもそういう口調だった。彼らは知っている、彼らは持っている、彼らは何々をした、何々を達成した、だが彼らは敵なのだ! 支配階級の見えない影があらゆる人間文化を覆っているかのように彼の目には映るのであった。そして彼はいつもこの影を白日のようにはっきりと感じとっていた。

 当時の私が、ロンドンの建築物にほとんど関心を持たなかったのはまちがいない。ヴェルホレンスクから初めての外国にいきなりやってきた私にとって、ウィーンもパリもロンドンもきわめて大雑把な印象を与えただけであり、ウエストミンスター宮殿のような『細部』にまで気を配る余裕は、まだなかった。レーニンにしても、もちろん、そんなことのために長い散歩に連れ出したわけではなかった。彼の目的は、私のことをよく知り、それとなく試験することだった。そして試験は実際、『全科目』にわたっていた。」(『わが生涯』第11章「最初の亡命」より)


 「私はさまざまなことを話した。シベリアでの論争、とりわけ中央集権的組織の問題をめぐる論争のこと、このテーマに関する私の手書きの試論のこと、数週間ばかり滞在したイルクーツクでの古参ナロードニキとの激しい衝突のこと、マハイスキの3つの論文のこと、等々。レーニンは話を聞きだすのがうまかった。

 『それで、理論に関してはどうだったのかね?』。

 私は、モスクワの中継監獄でレーニンの著作『ロシアにおける資本主義の発展』を集団学習したこと、流刑地でマルクスの『資本論』にとりかかったが、第2巻で中断したことなどを話した。われわれは、カウツキーとベルンシュタインとの論争について原典にもとづいて熱心に研究してきた。ベルンシュタインの支持者はわれわれの間では皆無だった。哲学の分野では、マルクス主義とマッハおよびアヴェナリウスの認識論を結びつけたボグダーノフの著作にわれわれは惹きつけられた。レーニンにも、当時はボグダーノフの著作は正しいように思われた。

 『私は哲学者ではないが』とレーニンは不安げにつけ加えた――『プレハーノフはボグダーノフの哲学を、仮面をかぶった観念論の変種だと厳しく非難している』。数年後、レーニンは、マッハとアヴェナリウスの哲学に関する大部の著作を著わしたが、彼らに対するレーニンの評価は基本的にプレハーノフと同じだった。」(『わが生涯』第11章「最初の亡命」より)


 「私の住む場所としてナデージダ・コンスタチノヴナが案内してくれたのは、数ブロック離れた所にあるアパートだった。そこには、ザスーリチ、マルトフ、それに『イスクラ』の印刷所を管理していたブリュメンフェリトが住んでいて、私のための空き部屋もあった。このアパートは、イギリス式に、各部屋が横にではなく縦に並んでいた。いちばん下の階に女主人が住み、上の各階にそれぞれ間借り人が住んでいた。共同の部屋もあって、住人たちはそこでコーヒーを飲んだり、煙草を吸ったり、いつ終わるともしれぬ雑談にふけったりしていた。その部屋はひどく散らかっていて、その責任は主としてザスーリチにあったが、マルトフにも罪はないとは言えなかった。プレハーノフは、そこを初めて訪れたあと、この部屋を『巣窟』と呼んだ。」(『わが生涯』第11章「最初の亡命」より)


「プレハーノフは、輝かしきマルクス解説者、数世代にわたる教師、理論家、政治家、政論家、演説家であり、ヨーロッパ規模の名声とヨーロッパ規模の人脈を持っていた。プレハーノフと並んで最も大きな権威があったのは、ザスーリチとアクセリロートだった。ヴェーラ・イワノヴナ[ザスーリチ]を指導的地位に押し上げたのはその英雄的な過去だけではない。きわめて明晰な頭脳、広い教養――主として歴史に関するそれ――、たぐいまれなる心理的直観力に恵まれていたからである。『労働解放団』はかつて、ザスーリチを通じて老エンゲルスとつながっていた。また、アクセリロートは、ラテン系の社会主義との結びつきが最も深かったプレハーノフやザスーリチと違い、『労働解放団』の中でドイツ社会民主党の思想と経験を代表していた。」(『わが生涯』第12章「党大会と分裂」より)


 「パリではじめてジョレスの演説を聞いた。ちょうどヴァルデク・ルソーが首班の時代で、郵政大臣がミルラン、陸軍大臣はガリフェだった。私はゲード派の街頭デモに参加し、他のデモ参加者といっしょになって、ミルランに向かってあらゆる悪罵を熱心に投げつけた。当時の私は、ジョレスにさしたる感銘を受けなかった。彼は敵だという感覚にあまりにもストレートに支配されていたのだ。それから何年もたってようやく、この偉大な人物を正当に評価することができるようになった。もっとも、だからといってジョレス主義に対する私の態度がいささかでも和らぐことはなかったが。」(『わが生涯』第11章「最初の亡命」より)


 「『イスクラ』の政治的指導者はレーニンであり、新聞の主要な論説家はマルトフであった。彼は、まるで話すようにすらすらと際限なく書きまくった。当時レーニンはマルトフの最も近しい盟友だったが、レーニンのそばにいるときマルトフはすでに居心地の悪さを感じていた。彼らはまだ『俺、お前』と呼びあう仲だったが、明らかに、両者の間にはすでに冷ややかなものが流れていた。マルトフはレーニンよりもはるかに、今日という日の中で生きていた。時事問題や日々の著述活動、政論、ニュース、会談の中で生きていた。レーニンは、今日の問題に取り組みながらも、明日という日に思いを馳せていた。マルトフの頭には無数の――そしてしばしば機知に富んだ――洞察、仮説、提案がつまっていたが、しばらくすると彼自身そのことを忘れてしまうことも珍しくなかった。それに対してレーニンは、自分に必要なことを、必要なときに捉えた。マルトフの思想は繊細であったが、どこか脆いところがあり、そのためレーニンは一度ならず不安げに頭を振ることになる。政治路線の相違は当時まだ決定的なものになっていなかっただけでなく、表面化すらしていなかった。後に、第2回党大会での分裂の際、『イスクラ』派は『硬派』と『軟派』に分かれた。この呼び名は最初の頃、周知のように大いに流布した。それは、両派を分かつ明確な路線上の分岐線はまだなかったが、問題へのアプローチの仕方、断固たる姿勢、最後までやり通す覚悟といった点で両者に違いがあることを示していた。

 レーニンとマルトフに関しては、分裂前でも、また大会前でも、レーニンは『硬派』であり、マルトフは『軟派』であった、と言うことができる。2人ともこのことを承知していた。レーニンはマルトフのことを高く評価していたが、批判的で少し疑わしげな目でマルトフの方をちらっと見ることがあった。マルトフはこうしたレーニンの視線を感じると、気にして神経質そうに痩せた肩をひきつらせるのであった。2人は直接会って話をするときも、もはや友達のような口調で話したり冗談を言ったりするようなことはなかった。少なくとも私の前ではそうだった。レーニンは話しながらマルトフの顔を正面から見ようとしなかったし、マルトフは、きれいに磨かれたためしのない少しずり落ちた鼻眼鏡の奥で生気のない無表情な目をしていた。レーニンがマルトフのことについて私に話すときも、そのイントネーションには独特のニュアンスがあった。

 『なんだって、そうユーリー[マルトフ]が言ったのか』。そんな時、ユーリーという名前は独特な響きで、すなわち、少し強調気味に、まるで警戒するような調子で発音された。『非常に立派な人間だよ。まったく。非凡な人物だと言ってもいい。だけど、何とも温厚すぎるね』。

 さらに、マルトフは明らかにヴェーラ・イワノヴナ・ザスーリチの影響も受けていて、このことは、政治的というよりもむしろ心理的にマルトフをレーニンから遠ざける要因になっていた。(『わが生涯』第12章「党大会と分裂」より)


 「メンシェヴィキの指導者マルトフは、革命運動における最も悲劇的な人物の1人である。才能豊かな著述家であり、機知に富んだ政治家であり、慧眼な知性の持ち主であったマルトフは、彼が指揮していた思想潮流よりもはるかに優れていた。しかし、彼の思想は勇気を欠き、彼の洞察力には意志が不足していた。回転の早い頭脳はその代わりとはならなかった。事件に対する彼の最初の反応はいつでも革命的志向を示すものだった。しかし、意志のバネで支えられていない彼の思想はすぐに下に沈んでしまう。私と彼との親しい関係は、迫りくる革命の最初の大事件という試練には堪えられなかった。」(『わが生涯』第12章「党大会と分裂」より)


つづく



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