2025年5月12日月曜日

大杉栄とその時代年表(492) 1904(明治37)年2月24日~28日 外国人を見たら英国人であろうと米国人であろうとロシア人であろうと、胡散臭い者と見なし、恰もスパイのように扱う愚を戒め、防諜活動とは他人を疑うことではなく、常日頃の自身の言動を慎むことだ。(村井弦斎「国民の外交」(「報知新聞」明治37年2月28日))   

 

村井弦斎

大杉栄とその時代年表(491) 1904(明治37)年2月24日 第1次旅順口閉塞作戦(失敗) 「一旦文明の進歩と共に、復た然く無鉄砲のことをなすものなからむと欲したりしも、日清戦役に黄海の勇将樺山華山あり、旅順の猛将山地独眼竜あり。又平壌の佐藤鬼大佐ありて、我が固有的勇気を発揮したりし以来、日本の古武士的元気は著しく復活し来りたるものゝ如し。今日帝国海軍の決死隊七十七士が、運送船五艘を以て旅順口の閉塞を企てたる如き、実に其一例に非ずや。」(『日露戦争実記』(育英舎版)第3号) より続く

1904(明治37)年

2月24日

ロシアのウラジオストク艦隊の第2回出撃。~3月1日。大本営は東郷にウラジオストク艦隊の威圧を命じ、独立していた第3艦隊を連合艦隊に編入。東郷は第2艦隊(上村彦之丞中将)にこれを命じる。

上村彦之丞:

嘉永2年(1849)鹿児島城下に生まれる。戊辰戦争に従軍後、海軍兵学寮に入り、以降、海軍軍人としての人生を歩む。

日清戦争のときには少佐で、竣工したばかりの巡洋艦「秋津洲」の艦長心得を務める。明治27年12月、「秋津洲」艦長となり大佐に昇進。

日清戦争後、常備艦隊参謀長を務め、のち、海軍省人事課長、同軍務局長、海軍軍令部次長となる。

日露戦争に備えて、はじめて海軍に連合艦隊ができたとき、東郷が第1艦隊兼連合艦隊司令長官に、上村が第2艦隊司令長官になった。

(巡洋艦を中心とする足回りの速い部隊を第2艦隊として編成する日本海軍の方針は、それ以後、第2次大戦中期に第1艦隊が廃止されるまで変わらなかった。)

2月24日

外債募集のため高橋是清副日銀総裁・深井英五秘書役、世論工作のため元法相金子堅太郎、アメリカに出発。

3月11日サンフランシスコ、18日ニューヨーク着。23日高橋・深井はロンドンへ向い、25日金子はワシントン入り。

2月25日

韓国、「義州開市に関する韓国外務大臣の宣言」。韓清間の交易地の平安北道義州の開放。

2月25日

住友吉左衛門の寄付により、大阪府立図書館開館式。3月1日閲覧開始。

2月25日

(漱石)

「二月二十五日(木)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで King Lear を講義する。

二月二十七日(土)、みぞれ、雪。『読売新聞』に覆面諭士の「夏目金之助に與ふる書」(公開状百通第四十七)掲載される。

二月二十九日(月)、閏。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。」

「漱石が当日『読売新聞』を読んだかどうかはよく分らぬ。誰かから教えられて読んだであろうと想像される。その内容は「文章口舌を以て人を動かすと思ふハ幼稚なる考へなり、達観すれバ學問文學必(ママ)竟葉非常に貴重なる者にも非ず。只我れハ讀書を好むが故に讀書す。生活せんが為に大學教授たり」と語ったことに対して意見を述べ「酒癖家の酒杯を離さゞると同一なるなり。可羨哉。」と結んでいる。」(荒正人、前掲書)


「二十七日の「読売新聞」に『文科大学講師夏日金五郎氏に与ふる書』(傍点引用者)と題する公開状が掲載された。それによれば、「今日の一般の文士と称する者は、ともすれば己が才を誇らんが為に、余りにも知識の誇衒を旨として読者に臨まうとする癖があるが、唯だ独り夏日氏のみは是等の文士とは異なり、文学は静かに味はふべきものであると考へ、自ら高く持してゐる所に氏の長所がある」というのである。匿名の筆者はこれと対比させ、「某文学士の如き一知半解の学者云々」といって暗に同僚の上田敏を批難していた。この公開状の筆者はおそらく正宗白鳥である。白鳥は前の年(明治三十六年)の六月「読売」に入社し、劇評と文壇評に辛辣きわまる筆をふるっていたからである。」(江藤淳『漱石とその時代2』)

2月27日

政府、日韓議定書を官報告示。秘密協定だが帝国新聞が大要発表したため。

2月27日

松山捕虜収容所設置。所長陸軍騎兵大佐河野春庵。

2月28日

韓国皇室、皇帝が10万円、皇太子が5万円を日本軍へ献金。

これに対して日本政府は、3月、特派大便として枢密院議長伊藤博文を渡韓させた。天皇の親書を携えた伊藤は、天皇からの贈物として30万円を皇帝に差し出し、韓国の政治改革について意見を述べた。"

2月28日

村井弦斎「国民の外交」(「報知新聞」明治37年2月28日)。

外国人を見たら英国人であろうと米国人であろうとロシア人であろうと、胡散臭い者と見なし、恰もスパイのように扱う愚を戒め、防諜活動とは他人を疑うことではなく、常日頃の自身の言動を慎むことだ。

2月28日

『平民新聞』第16号発行

社会主義研究会開催(毎週日曜日夜)「平民文庫」出版を予告(第1篇は『社会主義入門』定価10銭、以降続刊され8種類、発行部数1万5千余冊となる)。

「社会主義を最も善く、簡短に、明白に、平易に、通俗に、而も面白く説明した小冊子が欲しいとは我等が平生の願いであった。然るに先頃、アメリカのシャトルの『社会党』という新聞が『社会主義のイロハ』A.B.C of Socialismと題した四個の短篇をその紙上にのせた。その筆者はいずれも当代の名士であって、あたかも我等が平生の願いに適った文字である。そこで平民杜の編集局において四人分担でこれを翻訳し、それに『社会主義と中等社会』の一篇を加え、また安部氏がかつて大阪毎日新聞にのせた短篇を乞い得てこれに加え、六篇を合して一小冊子となし、これを「平民文庫」の第一巻と名づけた。その目録左の如し。

共同生産           西川光二郎

階級戦争           堺 枯川

社会党の運動         幸徳 秋水

社会主義のイロハ       石川三四郎

社会主義と中等社会       堺 枯川

社会主義論          安部 磯雄

さて我等は平生思う、社会主義者は常に伝道者たる覚悟をもたねばならぬ。家庭において、近隣において、友人間において、我等は常に一人たりとも多くの同主義者を作るの心がけが無くてはならぬと。・・・」

「早稲田中学における一珍事」

早稲田中学である3名が平生社会主義の見地から非戦論を唱え、倫理学の教師が日露戦争を義軍と称したのを反駁し、また校内の回覧雑誌に社会主義的な意見を発表した。これが原因でこれら3名が他の生徒から殴打された事件。

暴行の現場に居あわせた校長は制止もせずに傍観し、生徒監督は暴行学生に「殴打せずとも艮かったのに」というにとどまり、生徒が「愛国心発露の結果」と答えたのを聞いて笑ってすませたという。

記者は「少年生徒が戦争の熱に酔ふて浅薄なる愛国心に駆られ、他の反対意見を有せる同学生を殴打したりというだけならば、……吾人は深く意に介せざるべし。然れども校長職員がこれを見て制止せず、これを黙許し或は使嗾(しそう)したる形跡あるにおいては吾人ただ少年の暴行としてこれを看過する能はざるなり」と、学校当局の弁明を要求した。

3名は殴打されても平然として抵抗しなかった。そればかりでなく、3名が社会主義者たるの故を以て乱打されたのを知って、「然らば予もまた社会主義者なり」と自ら名乗り出で、ために同じく暴行をうけた生徒もあった。

記者はその「操守の厳」なるに感ずるとともに、「学校がその生徒を謀叛者の如く扱い直ちにこれに刑罰を加えんとするは、その野蛮、その無頼、実に言語に絶せり」と糾弾している。3名のうちの1人は、後年、ドイツ語学者・民衆娯楽研究家として有名となった権田保之助である。

2月28日

(露暦2/15)ロシア、ガボン提出「ペテルブルク市ロシア人工場労働者の集い」設立許可願い許可。


つづく

0 件のコメント: