2025年5月23日金曜日

大杉栄とその時代年表(503) 1904(明治37)年5月1日~9日 第1軍(黒木為禎大将)、九連城占領 ▼両軍兵力:ロシア満州軍東部兵団29,245、日本軍第1軍42,500。 ▼損害:ロシア側戦死614、負傷1,144、行方不明526。日本側戦死172、負傷761。

 

我師団九連城占領之図 三枚続 (日露戦争)

大杉栄とその時代年表(502) 1904(明治37)年4月21日~30日 「邦人の他に対して誇称するに足たものと云へば、唯だ明媚の山水と、忠君愛国の為めには何物をも犠牲として顧みざるの赤心か、之を外にし特許発明の世界人心を動かすべきものは殆んど絶無と謂ふべし」(『萬朝報』4月27日) より続く

1904(明治37)年

5月

朝露修好通商条約廃棄

5月

『蘇報』事件判決。章太炎禁固3年(1906年6月釈放、日本に渡る)。鄒容禁固2年(1905年4月3日獄死)。『蘇報』永久発行停止。

5月

閣議、対韓施設綱領決定。

5月

廃娼収容施設慈愛館、東京大久保百人町に落成。

5月

佐賀市で出征兵士家族援護のため、佐賀女子義勇団組織。

5月

東京府、戦争がもたらす社会的影響調査。「時局ノ東京市内細民ノ生活上ニ及ホセル影響取調」として報告。

5月

『明星』緑雨追悼号(明治37年5月号)発行


「・・・・・明治二十三年三月、紅葉と露伴のいた読売新聞社に、やはり同新聞社に関係していた坪内逍遥が、斎藤緑雨を連れて来て、彼らに紹介した。紅葉露伴共に、その時が緑雨との初対面だった。江戸っ子気質だけを見れば、紅葉と緑雨の方が肌合いが近かったように思えるけれど、彼らはそれほど親しい関係にならず、紅葉は緑雨との思い出を殆ど語っていない。それに対して、のちに親しい友人となる露伴は、緑雨の没後、雑誌『明星』明治三十七年五月号に寄せたその追悼文で、初対面の時の様子を、こう語っている。

其時、私の感じたのは、その以前から新聞紙上で見て居る諷刺的の達者な文を書く正直正太夫と云う人は、どう云う人かと想像していた処が、始めて逢つて見ると、自分ともさう年配も違はず、内気らしい柔和な無口な人であつたと見ただけの事でした。

・・・・・彼ら二人が「心安くなってチヨイチヨイ往来するやうになつた」のは、この年十一月末、創刊されたばかりの村山龍平の新聞『国会』で同僚となってのちのことだ。それからの露伴は、気難し屋の緑雨が心の底を明かすことの出来る数少ない友人の一人となった。緑雨が亡くなった時、馬場孤蝶らと共にその葬儀を取りしきることになる露伴は皮肉屋緑雨の最大の理解者だった。・・・・・

私に言はすれば、緑雨氏は非常に酷い人でもなければ、あの人が筆を持つて物を書く、その書いたことが随分皮肉な程、皮肉な心を始終持つて居つたと云ふ人でもないやうであります。筆に毒の在る程、気に毒のあつた人ならば、私共は物に堪へぬ方だから、長い間喧嘩をせずに交際してゐると云ふ事は出来なかつたでありませうが、私の知つて居る緑雨氏は、内気な、遠慮深い、たゞ気の廻り過ぎるほど気の廻る人であつたのです。勿論傲慢だとか、粗暴だとか、気が廻らないとか云ふ人ではない。また兎角世間にある奴ですが、故意にツツカゝルと云ふ、そんな人でもない。全くコンモンセンスの人でありました。

たゞあの人は気が廻つたから、気の廻らぬ奴は馬鹿に見えたでせう。自分が内気だつたから、無遠慮な無法な奴は憎く思つたでせう。自分がおとなしかつたから、エラガツて居る奴は忌みもしたでせう。私に言はすれば、緑雨君はたゞ自分の持つて居る思想感情と反対して居る事物に就ては喜ばなかつた。即ちどこまでも自分の思想感情に負かなかつた。その結果して陰気の人だつたゞけに、一旦それが筆に発すると随分恐ろしい毒口や、諷刺的の言語になつて出て来たのだらうと思ひます。」


5月

「五月、小松武治訳『沙翁物語集』序として、「小羊物語に題す十句」をおくる。」(荒正人、前掲書)

5月

鉄幹・晶子、中渋谷382番地から丘の下の中渋谷341へ転居。

29日、共著「毒草」(本郷書院)刊行。

5月1日

第1軍(黒木為禎大将)、九連城占領

午前6時35分、第2師団捜索隊3隊、腰溝と九連城に向けて前進。

午前7時15分、第2師団残部・第12師団・近衛師団、続々、靉河を渡河。

午後、ロシア側は総退却。ロシア軍最後の九連城支隊・第11連隊(長ライミング大佐)の「突破隊」が第12師団第23旅団24連隊第5中隊陣地を攻撃(第5中隊:戦死38、負傷68)。

午後5時10分、第1軍司令部が九連城に到達。

両軍兵力:ロシア満州軍東部兵団29,245、日本軍第1軍42,500。

損害:ロシア側戦死614、負傷1,144、行方不明526。日本側戦死172、負傷761。

 「鴨緑江の戦い」の後、日本第1軍はさらに北上、満州の都市でロシア軍の拠点、遼陽を目指す。他方、第1軍が通過した韓国には今度は「韓国駐剳軍」が編成され(3月10日)、同国は事実上の日本軍基地として利用されてゆく。

5月1日

午後5時、第3回旅順港閉塞作戦のための船隊、仁川北東の海州邑泊地を出発し旅順口に向かう。

第3回閉塞は第2軍の上陸援護のため行われたため、その成否が上陸地点の選定に影響するという見地から、船隊は12隻(これまでの倍以上)で行われ、援護艦艇を含め50隻余が旅順ロに向かう。

5月1日

第3軍司令部動員下命。

2日、乃木希典中将、第3軍司令官に親補。

7日、第3軍、伊地知知幸少将参謀長以下司令部編成完了。

第3軍〉

乃木希典大将

第1師団 - 松村務本中将→飯田俊助中将

第7師団 - 大迫尚敏中将

第9師団 - 大島久直中将

第11師団 - 土屋光春中将

5月1日

吉沢商店派遣カメラマンによる日露戦争実写映画、東京神田錦輝館で上演、好評。

5月2日

清国で公司駐册章程制定。

5月2日

(漱石)

「五月二日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。

五月三日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで King Lear を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。

五月五日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。」(荒正人、前掲書)

5月3日

第3次旅順港閉塞作戦

2日午後9時すぎ、天候悪化のため船隊指揮官林三子雄中佐(「新発田丸」)は作戦延期を命令。命令徹底せず12隻中8隻が突入。

3日午前1時35分、怒濤と猛火のなかほぼ予定地点に沈むが、失敗。

158人中67人収容(死者4、生存者63)。ロシア側は「約30名」を収容(自殺者多く、開城後、病院で発見されたのは16)。戦後、ロシア墓地から遺体39を発掘。結局、参戦者158中生存は79。

5月3日

大石誠之助、雑誌『社会主義』で、1894年~95年の日清戦争において、「当時戦争の罪悪を唱へ平和を熱望するの至誠を表白するものは、四千万人中の一人もいなかった」と書く。また、今度の戦争でも同じことだと主張する。

しかし、日清戦争当時のポートランドでは西田彌一が戦争に反対し、戦争を称揚する大石たち日本人仲間から疎外されていたという事実がある。

5月4日

真宗大学、専門学校令により、設立認可。大谷大学の前身。

5月4日

米、新パナマ運河会社よりパナマ運河に関する一切の権利と施設の引渡しを受ける。

5月5日

第2軍(奥保鞏大将)、遼東半島塩大澳上陸

午前7時37分、海軍陸戦隊1個大隊が「無血上陸」。以降、第2軍5万6千、続々、上陸。

13日完了。第2軍の戦闘序列は、第1師団、第3師団、第4師団、野戦砲兵第1旅団。

軍医部長:森鴎外、管理部長:石光真清

軍医部長森鴎外は、5月8日猴児石に上陸、下旬に錦州、南山、7月蓋平、大石橋、8月海域、首山堡に移動。9月遼陽、10月沙河などで会戦があり、以後、鴎外は十里河に駐屯。

石光真清の諜報活動(『曠野の花』)

予備役将校の時ハルビンで写真館を開く。ハルビン駐在のロシア軍将兵に取り入り、ロシア軍事施設(鉄道沿線や旅順要塞)の写真撮影を仕事とするようになる。ロシア軍は原板の納入を義務づけ、焼付け写真の枚数も厳密に検査したので、故意に失敗写真を作り、これを東京に送った。

5月5日

第1軍第2師団、湯山城に進出。

6日朝、一部が鳳凰城入り、主力も城外に迫る。

5月5日

『新潮』創刊。

5月5日

神戸燐寸軸木職工組合結成。

5月5日

チェコ作曲家アントニーン・ドボルザーク(63)、急没。プラハ音楽院院長在任中。

5月6日

大杉栄(19)、神田区三崎町の山城屋で開かれた直行団の第4回団員会に参加。参加者18名(加藤時次郎、加藤さき、石能信高、長谷川二郎ら)

5月6日

エクアドル、ブラジルのカクエタ・アマゾン間の領土要求を承認。

5月7日

一連の旅順口閉塞作戦失敗の後、天皇は東郷平八郎連合艦隊司令長官に「勅語」を下す。 

 「朕信ス其事ニ與カリシ将校下士卒ノ忠烈ヲ嘉ス」との天皇の激励に対し、東郷は「愈々奮励全局ノ大捷ヲ収ムルニ勗メ以テ聖旨ニ副ヒ奉ランコトヲ期ス」と答える。

5月8日

都下新聞雑誌社発起大祝捷提灯行列。日比谷公園、10万人、馬場先門で死者20人・傷者13人、桜田門で傷者12人。

日比谷公園の紅白の幕をひきまわした会場中央には、料亭やレストランから寄付された酒肴、ビール、すし、軍用パンが積まれ、自由に飲み食いできた。            

午後7時、各社が趣向をこらした提灯が一斉に点灯された。ひときわ目をひいたのは、日出新聞のアセチレンガス使用の大行灯や「国民新聞」の大砲の模型に爆竹をしこんだものだった。

それから提灯行列が始まり、群集は二手に別れて二重橋へ向った。

一隊が馬場先門から進んで行ったとき、市街電車が行列をさえぎった。この時、行列を止めた群集とうしろから続く群集とで揉み合いになり、踏まれる者、その上にかぶさる者たちの阿鼻叫喚の修羅場となった。

さらに、騎馬巡査の馬が、この騒ぎで暴れ出した。また、群衆のうちの一隊が、騒ぎを回避し、桜田門へ回り、そこから広場へ入ろうとした。しかし、そこには、既に万歳三唱を終えた行列が出てきていた。ここでも、正面衝突がおこり、地獄のような惨事となった。

もしこれが新聞社・雑誌社、通信社以外の発起にかかるものであったら、彼等は必ずや筆を揃えて攻撃したであろうが、この大事件の責任を感じて紙上に謝罪文を掲げたのは僅かに「毎日」、「萬朝」の二紙だけであった。「時事」と「朝日」は警察の不行届きを攻撃し、「読売」と「中央」は罪を封建時代の遺物たる見附門の狭隘に塗りつけ、「日日」は警察と人民の不規律が原因だと主張、「国民」は自社の万燈が破壊された損害の愚痴をこぼし、「報知」は不幸を悲しむと書いたきりであった。

この事故以後、「市民祝捷会」は市役所の主催となり、会に参加するのは市の「有志者」で、下層の民衆は会場周辺にあつまる見物人にしかなれなかった。一般民衆が加わって暴走しかねない「提灯行列」は「祝捷会」から排除された。会場内の参加者と場外の見物人は区別され、式場とその周辺は警察官が厳重に警備した。見物人である下層民衆は警察の取締まりの対象だった。

5月8日

小樽で大火事。焼失2,400戸。

5月9日

日本の公債1千万ポンド(6分利付-高利)、英米で半額宛引受の契約調印。

5月12日応募開始。英では応募30倍米では5倍に達する。ユダヤ資本の後援。元金1千万ポンド、7年間の利息420万ポンド・邦貨合計1億4千万円。

さきに政府は、日銀副総裁高橋是清を募債のためにロンドンに派遣することにした。同時に、英米両国の世論工作に元内相末松謙澄、元法相金子堅太郎をそれぞれロンドン、ワシントンに特派することを決定。

2月10日、末松元内相は横浜発「伊予丸」でシアトル経由ロンドンに向かい(3月14日着)、2月24日、高橋副総裁と金子元法相は米国船「サイベリア」号で横浜発。2人は、ホノルルを経て3月11日サンフランシスコに到着し、シカゴを経て同18日、ニューヨークに着いた。

ここで2人は別れ、高橋副総裁とその随員・日本銀行秘書役深井英五は23日発の便船でロンドンをめざし、25日元法相金子堅太郎はワシントンに入る。


つづく


9 "

「五月九日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。シンボリズムの長短について詳細に解説を行う。」


「「現代の日本人はシンボリズムの詩を解説するに當りて、如何にも原作者の真意を了解して居るやうに自分一人で得意になってゐる風があるが、實はそれは多くの場合、作著のシンボリズムを歪曲してゐる場合が多いのであって、これ位眞相を掴むに困難なものはない。私自身にしたところで正喧なところシンボリズムの詩を評釋する力はない」(金子健二『人間漱石』)と、告白する。」(荒正人、前掲書)

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9 ・武田麟太郎、大阪市南区日本橋東1丁目に誕生。父左二郎は岡山県倉敷出身の巡査(後に警察署長)。長男で3弟3妹。


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