2025年5月19日月曜日

大杉栄とその時代年表(499) 1904(明治37)年4月1日~5日 「八幡といへる一小駅に到りし際の如き、折柄降りしきる春雨に濡れつゝ一列の小学生徒出で迎へて悲壮なる唱歌を唄ひ、果ては教員を始めとして其四辺に群がる人々も感極って涕泣せるの状、流石勇士として知られたる斎藤(七五郎、閉塞作戦参加者を代表して霊柩に同行した)大尉の如きも覚えず感涙止め敢えざりし」(『東日』4月6日)

 


大杉栄とその時代年表(498) 1904(明治37)年3月29日~4月 「廣瀬中佐は乗員を端舟(たんしゆう)に乗移らしめ、杉野兵曹長の見当らざる為め自ら三度び船内を捜索したるも、船体漸次に沈没海水上甲板に達せるを以て止むを得ず端舟に下り、本船を離れ敵弾の下を退却せる際、一巨弾中佐の頭部を撃ち、中佐の体は一片の肉塊を艇内に残して海中に墜落したるものなり、中佐は平時に於ても常に軍人の亀鑑(きかん)たるのみならず、其最後に於ても万世不滅の好鑑を残せるものと謂ふべし。」(東郷司令長官報告) より続く

1904(明治37)年

4月1日

韓国通信事業の日本への移管協定締結。

4月1日

井上円了、東京中野江古田の哲学堂落成式挙行。孔子・釈迦・ソクラテス・カントを祭る。

4月1日

東京煉瓦工賃上げ運動起こる。

4月1日

非常特別税法公布。即日施行。日露戦争経費のため、平和回復の翌年までの時限立法。

①11科目(地租・営業税・所得税・酒税・砂糖消費税・醤油税・登録税・取引所税・狩猟免許税・鉱業・各種輸入税)の税率を増加、

②毛織物及び石油消費税の賦課、民事訴訟用印紙の増徴、煙草専売法公布(製造も政府に専属。施行は7月1日)など。

これによって6,220万1,000円余りを得る(そのうち地租38.4%、煙草専売13.6%、砂糖消費税13.2%)。

4月1日

臨時事件費特別会計法に基づく第1次臨時事件費予算3億8千万円公布。

4月1日

韓国慰問特派として3月13日東京を発った伊藤博文、帰国。

4月1日

国定教科書制度、施行。

4月2日


「今世の戦争は文明的戦争にして野蛮的戦争にあらず、文明的戦争は国家と国家との関係にして国家の兵力の間に直接に行はるゝものなり、故に戦争に干与せざる個人に影響を及ぼさず、彼我国民は敵対の関係を離れて一般人類を以て交際せざるべからざるは、国際法上の通義にして又文明国民の義務なりとす」(『国民新聞』)。


4月2日

閉塞隊の任務は、「既に大勇者に非れば能はず」であるのに、廣瀬中佐の行動はそのような「勇に加ふるに仁を以てするもの」(『読売』4月2日)と称賛。

4月2日

廣瀬中佐の零柩が佐世保に到着。

埠頭には喪章を付けた「海陸軍将校百余名、儀伏兵三個中隊、海兵団水兵及官公吏」が出迎え、佐世保駅までの沿道には「各学校生徒は表門道路の両側に整列して之を送り、市街の両側も亦山なす市民を以て満され」ていた。このように「廣瀬中佐の戦死は、鎮守府の将卒は無論一般市民に感動を与ふる事著しく、各戸弔旗を揚げて哀悼の意を表したるが(中略)又波止場に出迎へたる兵士中には感極りて覚えず落涙せし者数名ありたり」(『東日』4月3日)という光景が広がっていた。

列車で東京に向かった彼の柩は、途中各駅で多くの人々の出迎えを受けている。

特に、滋賀県では通過する全駅に小学生が整列していた。

廣瀬の兄、勝比古の夫人は、「多分、滋賀県知事の御注意だらう」と推測しているが、「中に或停車場を通過の折は、非常の雨でしたのに、幾百人と云ふ生徒が雨中に粛然と整列致して、今しも私共の乗って居る列車が着きますると、幾百の生徒は、一斉に頭を垂れ、敬意を表して呉れました」という(『軍神廣瀬中佐詳伝』)。

「八幡といへる一小駅に到りし際の如き、折柄降りしきる春雨に濡れつゝ一列の小学生徒出で迎へて悲壮なる唱歌を唄ひ、果ては教員を始めとして其四辺に群がる人々も感極って涕泣せるの状、流石勇士として知られたる斎藤(七五郎、閉塞作戦参加者を代表して霊柩に同行した)大尉の如きも覚えず感涙止め敢えざりし」(『東日』4月6日)


4月3日

廣瀬中佐への称賛は、軍人としての戦功よりも、「日本武士の魂」や「仁」を示したと捉えられていた。

それは「部下を愛撫する帝国上将の特色を顕はし、真に其(軍神の)令聞に負(そむ)かず」、「我陸海の上長皆な廣瀬氏の篤志あり、下士卒亦た皆な閉塞隊の誠衷あり、皇武の大に揚るや、亦た自然の数(すう)なり」(『報知』4月3日)といわれる。


4月3日

『平民新聞』第21号発行

社説「列国紛争の真相」。初めて社会主義者の具体的な国際戦争観が明らかにされた(荒畑「平民社時代」)。


「ロシアが十億ループリの巨資を投じてまさに完成に近づいているシベリア鉄道は、将来アジア大陸の経済的覇権を制すべきものとして、列国が脅威と羨望を感じていたところである。それ故、列国もまたアジア・トルコからペルシャ、アフガニスタンを経て印度に出で、転じて揚子江に達する一大鉄道を貫通する計画を立ててロシアの勢力東漸に対抗しようとした。蓋しこれらの鉄道が完成して、ヨーロッパから直ちにフィリピン、シャム(タイ)、仏領印度支那に達する大道となるを得たならば、シベリア鉄道の勢力を一空に帰せしめ得るであろう。

故に、イギリスは印度、ベルチスタン鉄道をペルシャに延長し、ドイツはトルコ、ペルシャ両国政府から鉄道敷設権を得てアンゴラからハグダッドを経てペルシャ湾に出でんとし、ロシアもまたこれに対抗するためにトルコ、ペルシャ両国政府から鉄道敷設権を得て黒海の南岸を縫わんとしている。見るべし、英、独、露、三国の西アジアにおける角逐洗争の状、宛として三つ巴の観あることを。

かくの如き形勢はまた、支那本土においても見られる。イギリスが北清に鉄道を延長しょうとすると、ロシアはこれに対抗して直ちに進んで伊犁(イリ)に迫らんとし、ために形勢不穏となるに及んでついに両国の協商にみちびいた。すなわちイギリスは万里長城以北に鉄道を敷設せず、ロシアもまた揚子江地方を侵さないことを約して相互の勢力範囲を定め、わずかに事無きを得たのは日露の開戦に先だつ数年、一八九八年のことである。だが、英露両国間の争覇は永久に解決したわけではなく、イギリスが広東からカルカッタ、クエッタを経てペルシャに出で、バグダッド鉄道に連絡するのは時間の問題に過ぎない。そしてまた、その結果はシベリア鉄道との競争、激烈を加うるのみである。

これを日露の戦争に見よ、ロシアがシベリアおよび東清鉄道のために十億の巨資を投じたのは、支那および満洲の市場を獲得し経済的覇権を樹立せんがためであるが、これはすでに満洲に二千万円の貿易を有し満洲市場に対する資本家階級の渇望、焦眉の急を告げている日本のとうてい黙視し得るところではない。日露両国が干戈相見ゆるに至るは自然の勢いのみ。」(「平民社時代」による荒畑による論文の要約)


この号で、朝鮮での日本の策略を批判する大石誠之助の記事が掲載される。

4月4日

「東京日日新聞」、閉塞決死隊29勇士の網版写真掲載。

4月4日

永岡鶴蔵、足尾銅山で大日本労働同志会組織。

4月4日

下士兵卒家族救助令公布。応召による生活不能家族に限定。

4月4日

長野県上諏訪町の高島病院、平和回復まで軍人遺家族の無料診察実施。

4月5日

この日朝、廣瀬中佐の霊柩を乗せた列車が新橋停車場に到着。

齋藤實海軍次官、伊集院五郎軍令部次長、千家尊福東京府知事らをはじめとする数百名がこれを出迎え、「霊枢のプラットホームより馬車に移さるゝ迄の間、さしも喧囂(けんごう)を極る停車場内寂々として静かなる事夜の如く、之を迎ふる者はいづれも粛として襟を正さゞるもの無かりき」(『報知』4月6日)という。

兄勝比古の家のある麹町までは、「此日細雨霏々として道路泥濘なりしかど、出迎ひの群集山の如く頗る混雑を極め、(中略)弔礼の為め同家を訪問する者引きも切らざる有様」であった(『東日』4月6日)。

4月5日

内村鑑三「天然における戦争」(英字新聞「神戸クロニクル」)

4月5日

東京地裁判決、裁判長今村恭太郎。堺利彦禁固3ヶ月、平民新聞発行禁止。控訴。

4月5日

石堂清倫、石川県石川郡松任町に生まれる。父は県立農学校の獣医・畜産の教員。

加賀平野の米作りの中心地、一向一揆の拠点で、信長・秀吉に何千人も虐殺される。小学5年の担任は、よく一向一揆の話をしたらしい。小松中学に3番で入学。上級生に中谷宇吉郎(のちに北大で雪の研究で知られる)。3年生の時、4年生の2人の級長と相談して「自我解放の宣言」を控え室の黒板三面に書き、以後連日校長室に呼び出されて自発的に消すように説諭されたが、それに応ぜず、翌週誰かが消したが、3人とも何の処分もなかったという(「天皇制の歩みをたどる」『みすず』444号、98年3月)。

「四年生のころ、松任からすこしはなれた出城村北安田の明達寺に通った。住職の暁烏敏さんが、日曜学校を開いたので、近在の子供たちが集ってきた。暁烏さん自作の讃仏歌を讃美歌「はるのあした」の譜で歌った。・・・やはりそのころ、私は幸徳伝次郎と菅野スガの名を知った。・・・(父の)ガラス戸のりっばな本箱は専門書でいっぱいになっていて、私などの読める本はいくらもなかった。そのなかから、新渡戸稲造の 『農政本論』と、兆民中江篤介の 『一年有半』、『続一年有半』をときどきひっぱりだしてみた。『一年有半』の「引」に門生幸徳秋水拝識、『続一年有半』の「引」に門人幸徳伝拝識とあるのを見て、これが死刑になったあの人らしいことに気がつき、好奇心のまま読みだした。まだ社会的知識もないのに耽読したのは、こわいもの見たさに似た一種の魅力があったためである。中江の考え方は、世の常の反対であり、しかもその方が道理にかなっているように感じられた。」

「六年生になると、・・・農学校の獣医科が廃止になるらしく、あわてて父は履歴書なんかを書きはじめた。・・・三月にわが家は小松へ引越した。多勢の人が見送りにきた。しばらくのあいだ父の職はなかった。やっと昔の教え子の牛乳販売業者の肝いりで、業者の共同検査所というのができ、父はその乳質検査でわずかばかりの収入ができた。・・・

中学の入学試験は思ったよりもやさしかった。私は三番で入学した。一番でないのはこれが最初である。・・・わが家の経済状態はだんだん悪化しているようであった。たびたび引越したが、そのたびに家作がわるくなった。のちに母と父があい次いで死ぬことになる小松の大文字町の借家は、友人の勝木の持ち家で、雨戸というものがなく、めったに日のあたらない小屋のようであった。・・・」(石堂清倫「わが異端の昭和史」)


つづく


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