2025年5月13日火曜日

大杉栄とその時代年表(493) 1904(明治37)年3月1日~6日 「医科学を学ぶため多年にわたり米国に住み、英領インドにおいて伝染病調査のため二年間暮らした大石誠之助医師は、日本本州最南端の故郷で、人々に社会主義を鼓吹すべく熱心に活動中である。彼はよきキリスト教徒であり、私の心優しい友である」(雑誌『社会主義』3月号「渡米案内」欄)  

 

大石誠之助

大杉栄とその時代年表(492) 1904(明治37)年2月24日~28日 外国人を見たら英国人であろうと米国人であろうとロシア人であろうと、胡散臭い者と見なし、恰もスパイのように扱う愚を戒め、防諜活動とは他人を疑うことではなく、常日頃の自身の言動を慎むことだ。(村井弦斎「国民の外交」(「報知新聞」明治37年2月28日)) より続く

1904(明治37)年

3月

吉沢商店、日露戦争の撮影班を現地に派遣。

3月

東京市街鉄道、浅草まで貫通。馬車鉄道廃止


「一月、市電は本郷線(昌平橋・本郷三丁目間)開通する。二月、東京電車鉄道株式会社は、日本橋銀町・小伝馬町・浅草橋・雷門前を開通。三月、雷門前・上野間を完成する。馬車鉄道廃止される。」(荒正人、前掲書)

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3月

広島鉄山払い下げ。1905年、米子製鋼所となる。

3月

紡連、棉花為替に関する請願書提出。

3月

吉野作造「露国の満州占領の真相ほか」(「新人」)。満州は日本の商工業存亡の分岐点、専制・侵略主義ロシアの敗北はロシア人民に自由をもたらしヨーロッパ・アジアに平和をもたらす。

3月

坪内逍遥(45)、東京座で「桐一葉」初演。この年、舞踊劇振興を提唱して、「新楽劇論」「新曲浦島」刊行。

3月

山川登美子、上京。

4月、日本女子大学英文科予科に入学。(明治35年12月22日、夫・駐七郎と死別、明治36年生家に復籍)。

3月

雑誌『社会主義』3月号「渡米案内」欄が、英文で大石誠之助を紹介。


「医科学を学ぶため多年にわたり米国に住み、英領インドにおいて伝染病調査のため二年間暮らした大石誠之助医師は、日本本州最南端の故郷で、人々に社会主義を鼓吹すべく熱心に活動中である。彼はよきキリスト教徒であり、私の心優しい友である」


片山潜が在米のため、雑誌は山根吾一が編輯の任にあった。山根はキリスト教徒であり、大石と同い年、1890年から1年ほどアメリカに滞在したこともある。

雑誌『社会主義』は、翌1905年1月に『渡米雑誌』と名前を変え、大石はこの雑誌に多くの寄稿をすることになる。

3月初

斎藤緑雨の病状悪化

3月初、馬場孤蝶への手紙には「諸薬効を奏せずやゝ危険の状態に陥りたる事を御承知置き被下度候」とあり、与謝野寛へも知らせてくれと書いてあった。翌日、馬場が行って見ると、緑雨は、熱が高く、衰弱し、この先どうなるか分らないと言った。その後も病状の変化はあったが、馬場は、6月頃か或いは暮れ頃までは何とか持つだろうと思った。

3月1日

第9回衆議院総選挙。政友会133、憲政本党90、帝国党19、甲辰倶楽部39、無名倶楽部25、自由党18、無所属小会派55議席獲得。

3月1日

内村鑑三「世界歴史より観察したる日本の外交戦略」(英字新聞「神戸クロニクル」)

3月1日

大蔵省、第1回国庫債券1億円発行。

3月1日

(漱石)

「三月一日(火)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで King Lear を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。

三月三日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、」前掲書)

3月1日

米、グレン・ミラー、誕生。

3月2日

柳田国男(28)、日露戦争勃発により、横須賀の捕獲審検所検察官となる。

3月2日

フィリピン、通貨法制定。

3月3日

啄木(18)、『戦雲余録』(『岩手日報』~19日、8回連載)。


「二月に日露の開戦。無邪気なる愛国の赤子、といふよりは、寧ろ無邪気なる好戦国民の一人であった僕は、”戦雲余録”といふ題で、何といふことなく戦争に関した事を、二十日許り続けて書いた。」(41年9月16日「日記」)


後、同年9月5日『時代思潮』掲載のトルストイの日露戦争論(英文)等の影響を受け、好戦思想から転換。

3月4日

連合艦隊、第4次旅順口攻撃作戦発動。この作戦は、「旅順方面ノ敵ハ退嬰シテ出動セザル」ことを前提とした「威圧作戦」。7日に出撃。

3月4日

二葉亭四迷(長谷川辰之助)、論説担当内藤湖南の紹介により大阪朝日新聞東京出張所員として入社。月給希望通り100円。東シベリア・満州に関する調査とロシア新聞の最新情報翻訳。但し精密過ぎて一般読者には不評。最初の記事は8月20日。

明治36年7月18日に川島浪速主宰する北京警務学堂の提調を辞職、7月21日に北京を出発。1年3ヶ月足らずの大陸生活。

「真実、提調時代の二葉亭は一生の中最も得意の時であった。俸禄も厚く、信任も重く、細大の事務尽(ことごと)く掌裡に帰して裁断を待ち、監督川島不在の時は処務を代理し、隠然副監督として仰がれていた。(・・・)仮に川島或は僚友との間に多少の面白からぬ衝突があったとしても、其衝突は決して辞職に値いするほどの大事件では無かったらしい。ツマリ二葉亭の持前の極端な潔癖からして夫(それ)ほどでもない些細な事件に殉じて身を潔くする為めらしかった」

<間もなく日露の国交が破裂した。(・・・)予てから此の大破裂の生ずべきを待設けて晴れの舞台の一役者たるを希望していたから、此の国交断絶に際して早まって提調を辞して北京を去ったのを内心窃(ひそ)かに残念に思っていたらしかった。「恁(こ)う早く戦争が初まるなら最(も)う少し北京に辛抱しているのだった」とは開戦当時私に洩らした述懐であった>(内田魯庵『思ひ出す人々』)


二葉亭は外国語学校でロシア語を学び、内閣官報局や東京外語ロシア語教授を経て、北京やハルビンに滞在。一方で坪内逍遥に師事し、20年近く前、ツルゲーネフの翻訳「あひびき」や小説「浮雲」を書き、文芸界に強い影響を与えた。だが、「文学は男子一生の仕事にあらず」と考える二葉亭は、ずっと創作の筆を執らなかった。

彼は入社すると張り切ってロシア事情について、資料をあさり、調査に没頭して重厚な記事を書き始めた。しかし、世間の関心は戦いの行方や出征兵士の安否であり、二葉亭の詳細で重々しい分析記事は不向きであった。

樺太についての続き物用の記事では、その地理、沿革、施設、産物、さらには山に植わっている木の種類まで詳しく書かれ、さすがの三山も「参謀本部か外務省向き」と評したほどで、記事というより論文だった。このため滅多に新聞に掲載されなかった。

3月4日

帝国軍人救護会創立。

3月4日


「昔の戦争は軍人と軍人との戦争に外ならざりしも、現今は国民と国民との戦争となれり」というが、国民に期待されているのは、募債に応じることにとどまっている」(『東京朝日新聞』)。


3月5日

トロツキー「われわれの「軍事的」作戦」(新『イスクラ』)。日露戦争への党の態度批判、プレハーノフの不快感。編集部から排除される。

3月6日

第1次ウラジオストク方面威圧作戦(ウラジオ艦隊牽制)。

第2艦隊(上村彦之丞)第2・3戦隊、黄海方面から長躯ウラジオ港外に急行、薄氷海面より砲撃。

翌7日も。効果は不充分。ウラジオ艦隊の跋扈を許す上村は国民の非難を浴びる。

3月6日

清国、東三省への食料輸送禁止。

3月6日

参謀総長大山巌元帥、第2軍動員下命

第2軍(奥保鞏大将)

第3師団(大島義昌中将) 第15、72旅団

第4師団(小川又次中将) 第17、19旅団

第6師団(大久保春野中将) 第11、24旅団

後備第1旅団

騎兵第1旅団(秋山好古少将)

第1野戦砲兵旅団


つづく

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