1904(明治37)年
2月15日
黄興、宗教仁ら、長沙で華興会結成。
2月15日
(漱石)
「二月十五日(月)、曇。夜雨。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。
二月十六日(火)、雪。東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで Macbeth を講義する。 Macbeth 終了する。次からは、King Lear をやると伝える。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。」(荒正人、前掲書)
2月16日
イタリアから回航(アルゼンチンより購入)した新造軍艦「日進」「春日」、横須賀到着。「日進」回航員の竹内平太郎大佐は同艦艦長、「春日」の鈴木貫太郎中佐は副長に発令。
19日、日比谷公園で東京市主催歓迎会。
〈「春日」の「戦時日誌」〉
イタリアはアルゼンチンから注文されて2隻の軍艦を建造中だったは、日本海軍の戦力を増強するため、明治36年(1903年)暮れ、日本はこの2隻(のちの「春日」「日進」)を購入。
鈴木貫太郎中佐たちが、明治37年(1904年)1月5日に現地視察をした時の状況。
「聞く所に依れば、両艦の艤装工事は少くとも二ヶ月を要すべき者なれとも、時局の許す可らざるものあるを以て、僅々十日間に之を結了するの約を「アンサルド」会社に申込み同社も奮て之を応じたるものの由にして、当時両艦共約四百人の職工艦内に充満し昼夜を分たず工作に従事せんのみならず、傍石炭搭載をなしつつあらんが、尚ほ一月五日に於てなすべきの工事頗る多り」。
「例へば中甲板の諸部「リノリユーム」も唯僅少の部分を除くの外未だ貼布せられず、羅針儀は一も取付けられず、上甲板の一面に「コータルー」を以て覆はれ諸電線は未だ連接せられざるを目撃せり」。
〈「春日」のイタリアから呉軍港までの航海日程〉
・1月5日:日本側による工事の視察
・1月6日:日本側人員の乗り込み開始
・1月9日:イタリアを出港、航行中にエンジン故障
・1月14日:スエズに到着、ロシア軍艦と遭遇する
・1月20日:アデンに到着
・2月2日:シンガポールに到着
・2月3日:石炭積み込み中に作業員のストライキを被る
(2月4日:日本政府はロシアとの戦争を決定)
・2月6日:シンガポールを出港
・2月8日:モンスーンに遭遇する
(2月9日:仁川沖海戦)
(2月10日:日本とロシアが互いに宣戦布告)
・2月16日:横須賀に入港
・2月17日:艦内の外国人作業員が退艦し、日本海軍の艦長以下の乗員が乗り込む
・2月19日:横須賀を出港
・2月22日:呉軍港に入港
・2月23日:修理工事の開始
2月17日
閣議、ロンドン市場で英貨公債募集の方針決定。
2月17日
軍事輸送のため、停車場司令部を新橋・品川・沼津・浜松・名古屋などの各駅に設置。
2月17日
「読売新聞」2月17日の社説は、交戦国間の礼節に注意を喚起。
「敵国とさへ云へば、之に対して心激し気昂(たかぶ)り、知らず識らず常軌を逸して礼節を失ふ」ことになりがちだが、これは戒めるべきで、特に社会の木鐸たる新聞が「極端なる侮蔑の言辞を弄し、或は虚構捏造の嘲弄的事実を羅列して (中略)読者の歓心に媚びんとするもの無しとせざるは、吾人の深く遺憾に堪へざる所なり」と述べる。
この社説から窺われるのは、当時、ロシアを誹謗愚弄する記事が多く載り、また読者がそうした言説を喜んでいたという現実である。実際、新聞雑誌の読者投稿欄には過激な意見が溢れていた。ジャーナリストにも増して、読者は敵国を極端に愚弄し、あるいは虚構捏造の嘲弄的事実を好んだ。
2月18日
旅順港閉塞作戦を決定し命令を発す(第1次旅順口閉塞作戦)。
作戦目的:
「連合艦隊は敵の損傷の復旧せざるに先だち、旅順港口を閉塞して敵全力を不能ならしめ、且時宜に依り間接射撃を以て敵を威嚇せんとす」
命令は12項にわたり、閉塞船隊(特別運送船隊と呼んだ)および関係部隊の行動を定め、閉塞の決行を出発の日から第4日目(2月24日)と定めた。
2月20日、韓国南西部の牙山に近い八口浦から出撃。
2月18日
東京の市街電車、車内禁煙実施。
2月18日
(漱石)
「二月十八日(木)、東京帝国大学文科大学で、午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。
二月十九日(金)、東京帝国大学構内山上御殿で開かれた「英文会」で「ロンドン滞在中の演劇見物談」と題して話す。(「英國現今の劇況」『歌舞伎』七月号、八月号のもとになる。)散会の前に、年四回の定期雑誌を出すことを申し合せる。(二月十一日(木)付で第一回を刊行する)その内容を改善するためであったが、発言はしない。」(荒正人、前掲書)
2月18日
プッチーニ(45)、歌劇「蝶々夫人」、ミラノ・スカラ座で初演、失敗。
2月19日
韓国、義州の日本領事館、ロシア軍「ミシチェンコ支隊」(前進騎兵支隊長ミシチェンコ少将指揮)騎兵300余に包囲。駐在武官東郷辰二郎少佐ら9人を安東に連行。
戦後、明治39年2月14日、俘虜交換により帰国。この年6月19日より軽謹慎30日の処分。後、少将に累進。
2月19日
社会主義大演説会、社会主義協会主催。聴衆300余。YMCA。野上啓之助「戦争と吾人の覚悟」、西川光二郎「戦争の成功事業」、堺利彦「世の中廻りもち」、斯波貞吉「選挙は一の喜劇なり」、幸徳秋水「普仏戦争史の一節」、木下尚江「戦争の影」(宗教家を批判)、安部磯雄「予が選挙せんとする代議士」。
「当夜は日比谷公園に、日本がアルゼンチン政府から買入れた新造の軍艦日進、春日の歓迎会が東京市主催で開かれて、YMCAの門前に立てた演説会の看板の寒冷紗(かんれいしや)は破られ、主催者は「今夜は定めし聴衆の数が少なくて妨害と反対が多からう」と予期せざるを得なかった。「ところが来る、来る、そして定刻には聴衆三百余名に達した」と、第十六号には記されている。」(荒畑寒村『平民社時代』)
木下尚江「戦争の影」(『平民新聞』16号に再録)
日露戦争に対する宗教家の態度を批判。
ニコライ主教が聖公会の信徒に主神が「日露戦争の開戦を許し給うた」との論告を発したことを非難。
次に、仏教各派が政府の命令に盲従迎合して「義勇奉公」を信者に説教する卑屈な弾劾。
キリスト教新教諸派が征露演説会、戦勝祝賀会の開催や軍隊布教使の許可に狂奔する事を批判し、新教徒が強いて新約聖書の中から主戦論に好都合な文句を探し出すに汲々とし、博愛人道の大義を旨とする宗教家の本分を没却して国家的主権者の利害に阿諛媚附(あゆびふ)するのは、「畢竟わが民心の奥、一点世界大の精神思想鬱勃たるもの無きの明証」であって、開戦わずかに数日にして早くもすでに「日本国民思想の極めて陋劣」なることが証明されたと論断。
『平民新聞』は、「聴衆の多かったのも意外であったが、殊に意外だったのは反対者の一人もなかったことである。弁士のロから熱烈な非戦論の出た時、三百余名の聴衆が一斉に拍手喝采する音は取分け壮快に感ぜられた」と記す。
2月19日
日本赤十字(代表松方公爵)、ロシア戦艦「ワリヤーク」重傷者を松山救護所収容決定。
つづく


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