2025年5月16日金曜日

大杉栄とその時代年表(496) 1904(明治37)年3月17日~25日 「戦争は軍隊と軍隊との争ひなり、武装したる兵士が互に勝敗を決するなり、武装せざる人民と人民とは常にその善隣たり朋友たるを忘るべからず、(中略)戦争局を終へなば露国は我邦の善隣なり、共に通商上の利益を受くべき朋友的の人類なり」(社説(村井弦斎)「敵人の捕虜」(「報知新聞」))

 

半島と半島に挟まれた海域が旅順港口閉塞作戦の対象となった湾口

大杉栄とその時代年表(495) 1904(明治37)年3月11日~16日 「「諸君よ、今や日露両国の政府は各其帝国的欲望を達せんが為めに、漫(みだり)に兵火の端を開けり、然れども社会主義者の眼中には人種の別なく地域の別なく国籍の別なし、諸君と我等とは同志なり兄弟なり姉妹なり、断じて戦ふべきの理あるなし。諸君の敵は日本人にあらず、実に今のいはゆる愛国主義なり、軍国主義なり、我等の敵は露国人にあらず、而してまた実に今のいはゆる愛国主義なり、軍国主義なり。然り愛国主義と軍国主義とは諸君と我等と共通の敵なり、世界万国の社会主義者が共通の敵なり。」」(幸徳秋水「与露国社会党書(露国社会党に与うる書)」) より続く

1904(明治37)年

3月17日

枢密院議長伊藤博文、特派大使として漢城入城。2度目。天皇親書、贈物30万円持参。

18日、皇帝謁見。

3月17日


「今や検閲は厳しく、戦争の進行を当局が承知していると我々誰もが知っているが、我々が知っているというそのことを、もちろん当局が承知していると我々は知っているのだが、もはやその事実は当局の関知するところでは無くなってしまったほどだ」(『ジャパン・ウィークリー・クロニクル』)


3月17日

同志社神学校、専門学校として設立認可。

3月17日

石川啄木(19)、渋民尋常高等小学校長相馬徳次郎排斥について岩手郡視学平野喜平に親書を送る。

「洒のめば/刀をぬきて妻を逐ふ教師もありき/村を逐はれき」(『一握の砂』)

23日、平野視学より返書。

相馬校長はこの年3月31日付で隣村の滝沢村立篠木尋常高等小学校長に転任したが、転任後は不遇で、翌38年3月9日死亡退職した。死因は自殺といわれる。

3月18日

第2回旅順港閉塞作戦発令。26日実施。

3月18日

東京の上野~浅草間、市街電車が開通。

3月18日

大阪三一神学校、設立認可。

3月19日

第2次旅順口閉塞隊、編成される(輸送船4隻、隊員68名)

連合艦隊は2月25日、5隻の特別運送船で旅順口閉塞を決行したが失敗、ロシアは依然旅順港口の出入りを自由にしていた。 連合艦隊司令長官東郷平八郎は再び、港口を閉塞するため、閉塞用として「排水量二千屯内外、速力十海里以上」の特別運送船4隻の準備を命じ、これら運送船を爆破、沈没させて1年間は引揚できぬよう「船艙ニハ石及ヒ『セメント』」と大量の爆破装置が掲載されるこになった。東郷は閉塞隊員募集にあたり、「唯士官以上は其の請願の極て切なると、前回の経験に因り行動に利する」ため、指揮官だけは第1次閉塞作戦の参加者を任用したが、下士兵については「同一人員を用ふるに忍ひす」、再任は却下した。但し、二等兵曹林紋平のみ「決心牢として抜く可らさるものある」ため、隊員に再編入された。

3月20日

「特別任務班」第1班12人、チチハル班(横川省三・沖禎介ら6人)とハイラル班に分れて「チラチン廟」を出発。4月3日(神武天皇祭)を爆破決行日とする。

3月20日

『平民新聞』第20号発行

英訳「与露国社会党書」。欧米社会党機関紙に転載。「戦争と小学児童」。軍国主義教育批判。

3月13日の社会主義研究会への大杉栄の参加を報じる。「社会主義のことを親爺に話して、そんな不忠な奴は切ってしまうぞと叱られた軍人の子もあり」と。

3月20日

第20帝国議会開会。政府、政友会、憲政本党間に戦時増税案に関して妥協成立。29日閉会。

3月21日

インド大学法成立。

3月21日

「萬朝報」、緒戦の勝利ついては、ロシアの専制政治にその敗因がある。戦後の日本に「専制復活を夢みる頑迷不霊の徒の生ぜんこと」をおそれ、「国民が一致して力を竭(つく)すべきの理由は、独り外敵に向つてのみに非る也」と藩閥打破を忘れるなど呼びかける。

3月21日

この日、森鴎外、陸軍第二軍軍医部長として出征するため東京を離れ宇品に向かう。1週間後から『うだ日記』を書き始める

妻のしげは茉莉を連れ、明舟町の実家に近い家作に移る。

明治35年1月4日、鴎外(41)、しげ(23)は結婚。同年3月28日、鴎外は小倉から東京に転勤。翌36年1月に茉莉が誕生。

3月21日

(漱石)

「三月二十一日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。質与五十円支給される。(熊坂敦子)

三月二十二日(火)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで King Lear を講義する。午後一時から三時まで「英文学概説」を講義する。二月二十二日に英文会から発刊された「英文学叢誌」第一号を学生に配布する。翻訳「セルマの歌」「カリツクスウラの詩」(オシアン)掲載される。

三月二十四日(木)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「英文学概説」を諮義する。」(荒正人、前掲書)

3月22日

「二六新報」、政府の軍事政策攻撃、起訴。憲法史上初の発禁処分

25日、「東京二六新報」改題発行。政府批判の筆を折る。

3月22日

元オーストリア皇女エリーザベト、ヴィンディッデュグレーツとの間に第一子フランツ・ヨーゼフ誕生

3月23日

「竜岩里開市に関する韓国外務大臣の宣言」。平安北道竜岩里の開放。

3月24日

社説(村井弦斎)「敵人の捕虜」(「報知新聞」)。


「戦争は軍隊と軍隊との争ひなり、武装したる兵士が互に勝敗を決するなり、武装せざる人民と人民とは常にその善隣たり朋友たるを忘るべからず、(中略)戦争局を終へなば露国は我邦の善隣なり、共に通商上の利益を受くべき朋友的の人類なり」


戦争が終ればロシアは「善隣」であり「朋友的の人類」である。みだりに「其国人を敵視する勿れ。」。弦斎は1905年10月頃、ロシア将校2人を自邸に招き交流、2泊させる。

3月24日

『二六新報』発行禁止(2月25日、『東京二六新聞』と改題発行)

3月24日

(露暦3/11)ロシア、工場労働者組合創立ロシア聖公会僧侶ゲオルギー・ガボン(32)

3月25日

18時15分、第2次旅順口閉塞隊が出撃

3月25日

木下尚江、署名入り論説「軍国時代の言論」(「毎日新聞」)。「二六新報」報道は真実を語るもの、「軽薄なる愛国心の挑発」横行には憤慨を同じくする。

3月25日

元法相金子堅太郎、ワシントン入り。世論工作のため。

3月25日

ラオス国王サッカリン、没。4月28日シー・サワン・ボン、即位(~1959)。


つづく

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