1904(明治37)年
3月26日
午前2時30分、連合艦隊主力、第2次旅順口閉塞作戦のため巡威島沖を出発。
午前4時45分、ロシア太平洋艦隊主力、廟島列島偵察・艦隊運動訓練のため旅順口発。訓練中、貨客船「繁栄丸」を撃沈し、午後0時30分旅順に帰投。
午後6時42分、連合艦隊、円島南東に到着。閉塞船団と護衛艦を送る。
〈閉塞船〉
千代丸(4000トン) - 指揮官有馬良橘中佐、指揮官附島崎保三中尉、機関長:山賀代三大機関士、下士卒15名、全乗員数18
福井丸(4000トン) - 指揮官広瀬武夫少佐、指揮官附杉野孫七上等兵曹、機関長栗田富太郎大機関士、下士卒15名、全乗員数18
弥彦丸(4000トン) - 指揮官斎藤七五郎大尉、指揮官附森初次中尉、機関長小川英雄大機関士、下士卒13名、全乗員数18(または16)
米山丸(3745トン) - 指揮官正木義太大尉、指揮官附島田初蔵中尉、機関長杉政人少機関士、下士卒13名、全乗員数18(または16)
3月26日
千代田生命保険相互会社設立(東京)。資本金36万円。
3月27日
第2回旅順口閉塞作戦
午前1時5分、閉塞船団「福井丸」・「千代丸」・「弥彦丸」・「米山丸」4隻、老鉄山南方に到達、航進。港口約2浬のところで猛火を受け始める。
午前2時25分、猛火のなか4隻ともほぼ予定位置に達するが、「弥彦丸」・「米山丸」の間隔が開き、湾口の完全閉塞に至らず、失敗。
1番船千代丸は、砲台やロシア駆逐艦からの砲撃を受けながらも前進したが、港口を発見できなず、港口から100mの地点(黄金山南方海岸近く)で自爆。
福井丸(明治15年英国で製造)は、千代丸の前に出たところで駆逐艦シーリヌイの雷撃により沈没。指揮官広瀬武夫少佐(36、戦死の際の功績により中佐に昇進)・杉野孫七上等兵曹、戦死。
弥彦丸(明治21年スコットランドで建造)は、福井丸の左に出て駆逐艦レシーテリヌイの攻撃により爆沈。
米山丸(明治16年英国で製造)はロシア軍の魚雷を受け、海岸近くで沈没。
この作戦での死傷者は15名。
福井丸の指揮官であった海軍少佐広瀬武夫が同船から退出を命令した際、部下の兵曹長杉野孫七(爆破装置点火係)が見当たらないために、集中砲火を浴びる船内に3度戻って捜索し、ついに砲撃を受けて戦死
広瀬少佐は突進の6日前、3月21日に家族へ次のような遺書を残していた(『広瀬武夫全集』下巻)。
「再び旅順口閉塞の挙あり。武夫は茲に福井丸を指揮して、武臣蹇々の微を到さんと欲す。所謂一再にして已まず、三四五六七回人間に生れて、国恩に酬いんとするの本意に叶ひ、踴躍の至に不堪候。今回も亦天佑を確信し、一層の成功を期し申候。
七生報国 七たび生まれて国に報ぜん
一死心堅 一死 心堅し
再期成功 再び成功を期し
含笑上船 笑みを含みて船に上る
時下、母上様、叔父上様始メ、各位ノ御自愛ヲ望ミ、一家親籍ノ倍々繁栄ヲ祈リ居申候也。再拝 武夫」
「崇高な義務心に満ち満ちた玲瓏玉のごとき快男児」(広瀬と親交があった帝国大学の政治学者小野塚喜平次博士の寸評(『広瀬武夫全集』下巻、489頁)。
3月27日
『平民新聞』第20号発行
幸徳秋水「嗚呼増税!」。「戦争のため」の一語で議会・政党も政府の意のままの機械となり6千万円の増税を国民に課した。
翌日、内相は新聞紙条例第33条により発売頒布を禁止、編集兼発行人堺利彦を起訴。
31日、公判。
4月5日、判決。禁固3ヶ月。
4月12日控訴審。弁護士今村力三郎・花井卓蔵・高木金之助・木下尚江ら。
16日、禁固2ヶ月確定(4/21~6/20入獄)。
鳴呼増税! (幸徳秋水)
鳴呼『戦争の為め』てふ一語は、有力なる麻酔剤なる哉、唯だ此一語を以て臨まる、聡者も其聡を蔽はれ、明者も其明を昧(くら)まし、智者も其智を失ひ、勇者も其勇を喪(うしな)ふに足る、況(いは)んや聡明智勇ならざる今の議会政党の如きをや
彼等議会政党は今や尽(ことごと)く『戦争の為め』てふ一語に麻酔して、其常識を棄て、其理性を抛(なげう)ち、而して全く其議会政党たる所以の精神能力を遺却して、単に一個の器械となり了(をは)れるを見る也、何の器械ぞや、曰く増税の器械是(こ)れ也、而して政府者は、巧みに這箇(しやこ)の便利なる日動器械を使用せり、而して六千余万円の苛税は忽ち吾人の頭上に課せらる
鳴呼六千万円の増税、苛重なる増税よ、是れ実に『戦争の為め』なるぺし、・・・"
今の国際的戦争が、単に少数階級を利するも、一般国民の平和を撹乱し、幸福を損傷し、進歩を阻礙(そがい)するの、極めて悲惨の事実たるは吾人の屡(しばし)ば苦言せる所也、而も事遂に此に至れる者一に野心ある政治家之を唱へ、功名に急なる軍人之を喜び、奸滑(かんくわつ)なる投機師之に賛し、而して多くの新聞記者、之に附和雷同し、曲筆舞文、競ふて無邪気なる一般国民を煽動教唆せるの為めにあらずや、而して見よ、将帥頻(しきり)に捷(せふ)を奏するも、国民は為めに一粒の米を増せるに非ざる也、武威四方に輝くも国民は為めに一領の衣を得たるに非ざる也、多数の同胞は鋒鏑(ほうてき)に曝(さら)され、其遺族は飢餓に泣き、商工は萎靡(ゐび)し、物価は騰貴し、労働者は業を失ひ、小吏は俸給を削られ、而して軍債の応募は強られ、貯蓄の献納は促され、其極多額の苛税となつて、一般細民の血を涸(から)し骨を刳(えぐ)らずんば己(や)まざらんとす、若し如此にして三月を経、五月を経、夏より秋に至らば、一般国民の悲境果して如何なるべきぞ、想ふて茲(こゝ)に至れば吾人実に寒心に堪へず、少なくとも此一事に於ては、吾人は遂に国家てふ物、政府てふ物、租税てふ物の必要を疑はざるを得ざる也
(略)
何ぞ夫れ然らん、国民にして真に其不幸と苦痛とを除去せんと欲せば、直ちに起て其不幸と苦痛との来由(らいゆ)を除去すべきのみ、来由とは何ぞや、現時国家の不良なる制度組織是れ也、政治家、投機師、軍人、貴族の政治を変じて、国民の政治となし、『戦争の為め』の政治を変じて、平和の為めの政治となし、圧制、束縛、掠奪の政治を変じて、平和、幸福、進歩の政治となすに在るのみ、而して之を為す如何、政権を国民全体に分配すること其始(はじめ)也、土地資本の私有を禁じて生産の結果を生産者の手中に収むる其終(をはり)也、換言すれば現時の軍国制度、資本制度、階級制度を改更して社会主義的制度を実行するに在り、若(もし)能(よ)く如此くなれば、『井を鑿(ほつ)て飲み田を耕して食ふ、日出(い)でゝ作し日入(いつ)で息(いこ)ふ、帝力何ぞ、我に在らん哉(や)』、雍々(ようよう)として真に楽しからずや、亦足れ極めて簡単明白の道理に非ずや
吾人は我国民が爾(しか)く簡単明白の事実と道理を解するなく、涙を飲で『戦争の為め』に其苦痛不幸を耐忍することを見て、社会主義者の任務の益々重大なるを感ず
3月27日
「毎日新聞」、「二六新報」発禁に関して、「軍国時代と雖、飽くまで言論の自由を尚」ぶべきと主張。
「挙国一致して外難に当る現下の大勢に抗し、国民将来の利益幸福を想うて侃諤の弁を樹つる者あらは、吾人は謹慎の態度を以て、之を傾聴せんと欲す」と、「軍国時代と雖、飽くまで言論の自由を尚」ぶべきと主張。
3月27日
(漱石)
「三月二十七日(日)、小松武治苑に、依頼されていたチャールズ・ラム、マリー・ラム共著『沙翁物語集』の「リア王」の部分の訳文を原文と対照添削して校閲するのに意外に時間かかったと書き送る。
三月二十八日(月)、東京帝国大学文科大学で午前十時から十二時まで「英文学概説」を講義する。東京帝国大学第二学期終了す。」(荒正人、前掲書)
3月28日
市立大阪高等商業学校〔のちの大阪市立大学〕
つづく

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